オオカミの伝承を調べていたら、

源義経をかくまった奥州の王・藤原秀衡が登場して。

熊野参詣に向かう途中で出産した赤子を狼が守護し育てていたという。

源義経ゆかりの場所へ行った記憶を辿っていました。

 

義経が修行した鞍馬寺

(義経の降魔必勝の小太刀を買いましたよ!)

静御前との出会いの場と伝わる神泉苑

(空海の雨乞いの儀式でも有名・祇園祭とも関係)

 

そしてもうひとつ、

首途八幡宮(かどではちまんぐう)

 

初めて見た時は「首途」の文字にちょっとびっくり

でも、以前はよく使われていた言葉だそうですね。

「首/しゅ」は“はじめ”の意味を持っている

 

車通りの多い道から少し入って

お隣には公園、静かな空気が漂ってる

 

最初の鳥居をくぐると

参道がのびて、ふたつめの鳥居

 

奥の階段の手前右には赤い鳥居

弁財天が祀られるお社があります。

 

階段を昇ると、

首途八幡宮本殿

 

 

門や瓦、手水舎に鳩のしるしが散りばめられていました。

八幡様の御使いがいっぱい

 

御祭神

応神天皇 比咩大神 神功皇后

宇佐八幡宮の神霊を勧請したと記されている

 

桃園親王の旧跡とも

 

桃園親王(873~916)

貞純親王 清和源氏の祖の一人という説あり

ー(Wikipedia

 

義経首途之地の石碑がどーんと

 

首途八幡宮と呼ばれる由来についての案内板

 

1174年3月3日夜明け、鞍馬山から、ここ首途八幡宮に参詣し旅の安全と武勇の上達を願い、奥州の商人金売橘次に伴われ奥州平泉の藤原秀衡のもとへと首途(旅立ち)した。この地に橘次の屋敷があったと伝えられ、この由緒により元「内野八幡宮」は「首途八幡宮」と呼ばれるようになった。

時に源義経16歳であった。

 

900年前後、桃園親王のお屋敷だった場所が

金売橘次のお屋敷になっていた

 

金売橘次=金売吉次

 

どちらかというと「吉次」て記憶していたので

あれ?橘だったっけ?というところから

追いかけてみたら、

金売吉次の父、炭焼藤太に繋がったのです。

(吉次本人が炭焼藤太という説もあり)

ー(前記事: 藤太から繋がっていく

 

 

 各地に伝わる炭焼長者の伝承

 

炭焼藤太、炭焼長者のお話が

こちらの本にありました

 

 

鬼の本なので、竈門炭治郎くんと絡めて紹介されてました。

 

京のある姫は顔に痣があったため、良縁に恵まれなかったが観音のお告げで豊後へ赴き、炭焼小五郎(藤太)と出会って妻となる。姫は小五郎に金の小判を与えて買い物に行かせるが、小五郎は「こんなものは炭焼の山にはいくらでもある」といって小判を淵に投げ棄ててしまう。

だが、姫に小判の値打ちを教えられると、小五郎は身辺に小金をたくさん見つけ、たちまち長者となる。そして姫が淵で顔を洗うと、痣がとれて美人となった。

(略)

これと同じような民話は主人公の名を五郎、藤太などと変えながら、北は青森、南は沖縄まで、全国各地に伝わっているのだ。

(略)

金売りは諸処に仮住して鋳物の業を営んだが、金属の製錬には木炭が欠かせなかったからであり、諸国を遍歴した炭焼兼鍛冶師の民間伝承ではないか

ー 飯倉義之(2021年) 『鬼と異形の民俗学ー漂泊する異類異形の正体』

ここで紹介されているのは大分の伝承ですが、

源義経と藤原秀衡を繋ぐだけあって

もちろん東北にも残っていて、

宮城には炭焼藤太夫妻のお墓もあるそうです。

所在地:宮城県栗原市金成日向

(住所がまさに金成!かんなりと読むのだそう)

 

妻となる京の姫が藤原氏の娘であるとか

名前が「おこや」とか「あこや」とか「豊丸姫」とか

いろんなパターンがあるみたい。

 

金売吉次に繋がるお話としては

二人の間に橘次・橘内・橘六の三人の子供が生まれたとのこと。

 

奥州藤原氏ともやりとりのあった金の商人。

やがて京都にも屋敷をかまえて

義経と秀衡を繋いだ、ということになる。

 

橘次(吉次)については

歴史書に正式に存在は認められないものの

のちに奥州へ逃げる義経に付き従った堀景光と同一視されているよう

ー(『平治物語』Wikipedia

 

この伝承と同じパターンで

炭焼ではなく芋堀のバージョンも見つけたのですが

そちらも名前が藤太だったり藤五郎だったり。

五、五郎というのもなにかカギなのかな。

 

 

こうして、義経からまた

金、製鉄、東北、と繋がっていったのですけど

言われてみれば

奥州へ向かう義経が元服した場所・鏡の宿

田原藤太の百足退治の舞台三上山の近く

蒲生郡に鏡神社がありました。

逃げた義経を追う平家が

「稚児の姿の男児を探せ!」てなって

慌てて元服したんですよね、確か。

 

当時の奥州へのルートとして

一般的なものだったのか、

はたまた炭鉱や製鉄のルーツを持つ

金売吉次が引率するからこその経路だったのか。

 

気になるところ。