三河鈴木氏の祖といわれる善阿弥、鈴木平内太夫重善は義経の奥州落ちの際義経の家来になろうと熊野を出て後を追ったが、三河矢作まで来たとき足を痛め休んでいる間に義経の死を聞き、やむなく三河に住み着いたという伝承を持つ。

つまり足助の鈴木氏の祖は、熊野鈴木氏であった。

松平氏が同じ熊野の鈴木出身とすれば、足助氏のあとを継承した鈴木氏と深い関係にあったはずである。松平氏由緒書の内容は、松平氏は鈴木氏の縁戚か、松平氏由緒書にあるように初代信盛が末氏の出であったとしたら家来であった可能性を示唆している。

そう考えると、松平氏の祖が松平郷へ入部したいきさつも、時期も推測することが可能になる。松平初代といわれる信盛の松平移住は、松平郷の領主が足助氏から鈴木氏に替わった以降、鈴木氏の後ろ盾により実現したと考えてまず間違いないだろう。というのも、もともと地域生え抜きの土豪ではない松平氏が、足助氏健在の頃勝手に松平郷を領することはまず考えられないからである。松平氏は鈴木氏の承認を得てはじめてこの時期に松平郷へ入部することが可能になったのである。

一三六七年、足助氏により高月院の前身寂静寺が松平につくられた。この時松平郷はまだ足助氏領であった。したがって、信盛が松平郷に移住したのは一三六七年以降ということになる。

 

米良文書というものがある。米良家は足利将軍家,戦国大名,徳川氏の御師職を務め,祈禱の巻数や熊野の牛玉宝印などを送っている。同氏に伝来する《米良文書》は,南北朝時代の両朝からの文書や室町から江戸にかけての将軍家,武家の書状をはじめ,引檀那,先達,御師関係の多数の文書から成り,中世熊野の信仰,組織,勢力などを示す重要史料である。

延文二年一三五七年に書かれた「檀那三河国足助一門師職事」という米良文書があり、この頃足助氏は奥三河でまだ健在であったことを示している。

この文書を以て、足助氏一族が少なくともこの時期までは三河国足助荘もしくは足助の地に居住していたことの根拠とされる。

そして一三六七年、足助氏により高月院の前身寂静寺が松平につくられた。

足助の荘の領主が足助氏から鈴木氏に替わったのは、寂静寺の建立時期、あるいは米良文書などから推測して、一三六〇年から一三八〇年頃であったろうと思われる。その頃には足助氏が没落し、松平郷は鈴木氏の支配するところとなっていたと考えられる

一三八〇年以降、松平郷に初代信盛が入部した。

一三九〇年頃二代信重が生まれたものとする。

一四二〇年頃信重は二人の娘を授かった。

鎌倉公方持氏が亡くなったのが一四三九年。

信州で徳阿弥が林藤助光政の隠棲先を訪ねたのは一四四〇年。

この頃信重の娘は二十歳くらいになっていた。

林家で徳阿弥が山田氏とであったのが一四四一年。

徳阿弥が松平郷に現れたのが一四四一年

そして二〇歳位の信重の娘と徳阿弥が結ばれた。

こう考えるとすべてがぴったり符合する。

三河の山の中には尾張三河と信州、甲州、関東を結ぶ大動脈である飯田街道が通っている。東海道に対し中山道が第二東海道とも呼ぶべき公道だが、飯田街道はちょうど東海道と中山道の間を縫って尾張三河と信州、関東を結ぶ道である。

公道は安全であるが多数の関所があり、手続きが煩雑で、商いの荷物を運ぶには適さない。したがって飯田街道は商いの道として大いに栄えた時期があった。足助は飯田街道の重要拠点に位置し、ここに居を構えた足助氏、鈴木氏は通行の商品に税をかけ、街道から上がる莫大な通行税を手にしていた。

さらに足助は水運の最終揚陸地に近く、舟で運ばれた荷物の終結地でもあった。三河の国には矢作川という河川交通の大動脈が走っている。舟は馬や馬車の数倍の荷を積むことが出来、費用も馬に比べ四分の一で済む。舟運は中世の主要な輸送手段だった。

三河湾で採れた海産物や塩は、矢作川舟運によって足助に集められ、海の無い信州、甲州へ運ばれた。

矢作川を遡上した舟は、岡崎の先で支流の巴川に入り、足助の手前にある九久平という川湊(土場)で舟から下ろされ、馬の背に積まれて陸路を足助に向かう。九久平は川湊として大いに賑わい、この地の領主に莫大な川湊税がもたらされた。この金の成る木の九久平は、実は松平領にあったのだ。松平氏は鈴木氏と深い関係があり、松平領に定着することを許された。あわせて九久平の川湊税徴収業務を任されていたものと考えられる。

そう考えると松平氏が徳阿弥の入り婿以前に裕福な家だったことが説明できる。九久平は、海のない国、信濃や甲斐に向う三河の海産物や塩が矢作川の川舟にのって遡上し、荷物が下ろされるところである。

三河の海産物の中で当時最も収益率が高かったのは「塩」である。三河の塩の浜値は一升二文にも満たなかったが、山国へ運ばれるとこれが一升百文にも売れた。慶長期、信濃・甲斐の人口は四十万人にも達し、現在の金額に換算して年間数百億円もの塩が消費されていた。当時の塩を運ぶ馬は、一頭で七貫目の塩四袋(約百五キログラム)を馬の背に振り分けにして運んだというから、甲斐・信濃四十万人の住人が消費した年間二千六百二十八トンもの塩は、延べ二万五千頭という、大変な数の馬で運ばれていたことになる。

鎌倉時代から南北朝時代にかけ、足助氏はこの塩などの荷に税を掛け莫大な資力を手にして威勢を張った。当時足助には塩蔵が立ち並び、足助塩の名で全国に知られていた。それを継承した鈴木氏も当然信濃・甲斐向けの塩で潤った。

もちろん、国一番の金持ちは足助の鈴木氏であったが、その一族(か、もしくは家臣)の松平氏もかなりの金持ちであったと考えても間違いはないであろう。

徳阿弥が信州林屋敷で知り合った鈴木一族の山田貞俊もまた足助と信州を結ぶ中間点の要衝武節で塩税を徴収していた。そして山田氏と縁故を結んだ小笠原一族林氏も、信濃南部を勢力下におき、飯田街道を通過する塩の荷に課税していた一族だった。

永享十二年(一四四〇年)に、林氏の隠棲先で献兎賜杯の故事が生まれ、その翌年松平太郎左衛門家に婿入りしたとすると、その頃徳阿弥の年齢は二十歳から三十歳の間と考えるのが妥当だろう。

献兎賜杯の話は永享の乱とセットになっている関係で、永享十二年(一四四〇年)の出来事であったということは動かせない。

ところが親氏の子とされている三代信光が生まれたのは一四一三年頃と言われているから、献兎賜杯の頃には二十七歳になっていることになる。そうすると徳阿弥は松平郷に現れたとき五十過ぎの当時としてはすでに老人で、三十近い子連れだったことなる。

これを認めてしまうとどうしても系図がつながらないので徳川家は徳阿弥が松平郷へ現れた時期を永享の乱より三十年以上前に設定した。そして信光は徳阿弥の婿入り後に松平郷で生まれた事にしたのである。それだと徳阿弥と信光の年齢の説明はつくが、

今度は徳川家編纂史書にある

 

新田一族の徳川親氏は永享の乱で敗者の持氏に加担し、追及の手を逃れるために得度して僧形となり徳阿弥と号した

 

という記述が成り立たなくなってしまう。もちろん優秀な学者の揃っていた史書編纂作業であったから、このことは誰もが気がついていたと思うのだが、家康が作った系図が災いして、どうしてもこの部分が訂正できず残ってしまった。徳阿弥の事蹟が曖昧模糊としている理由の一つはこの年代問題にあったのだ。

 

信光は生年、没年がほぼ判明しているが、実は比較的明確といわれている信光の生まれた年にも、三説ある。

(一の説) 応永二十年一四一三年生れ

長享二年亡 享年七十六歳説

(二の説) 応永十一年一四〇四年生れ

長享二年亡 享年八十五歳説

(三の説) 応永八年 一四〇一年生れ

長享三年亡 享年八十九歳説  

 

第一の説をとってみると、一四四一年(嘉吉元年)に、信光は二十八歳。

第二の説では三十七歳。

第三説は四十歳となる。

どの年に生まれても一四四一年に松平郷で子を成すことは可能であろう。

 

嘉吉元年に婿入りした親氏が青年であったなら、比較的生没年が判明している信光と年齢が重なってしまう。つまり、徳阿弥(親氏)と信光は、同じ時代に生きていたことになる。となると徳阿弥と信光は同世代に生きた同一人物ではなかったかという考え方が出てくる。確かにそう考えれば今まで解決できなかった多くが解決される。

徳阿弥と信光が同一人物だったとしたら?という仮定の下に松平創業期の物語を再構築すると以下のようになる。