「三河物語」の中で語られている松平氏創業期の部分は、松平・徳川中心史観に影響され、紹介したようにほとんど内容の無いものであった。

松平郷の松平家がどのような家だったのか、その家の家老が書いた「松平氏由緒書」文書では、むしろ詳細すぎるのではないかと疑問を持ってしまうような内容になっている。次章はいよいよ松平親氏公顕彰会から発行された「松平氏由緒書」の抜粋をもとに、謎に包まれた松平創業期の実像を探ってみる。

 

三河国加茂郡外下山の松平郷に「中桐」と呼ばれている屋敷があった。屋敷の中の丑寅(北東)の方向の「井戸の洞」と云う所に、氏神が一社祀られていた。この神社には多くの別名があった。御屋敷から同方向にあたって井戸があり、この井戸にも数多くの別名があった。同方に御手洗と申す井戸があり、右の井戸はこのみたらしの流れである。

右の神の別名については、井戸からあがり給うたと伝えられているので、水神八幡と申した。また産神とも申した。

さてまた井戸の別名は、「奥の井戸」とも、「沙汰なしの井戸」とも、「見捨ての井戸」とも申した。

神の御神体は岩とも云われていた。

井戸にも神にも不思議なことが多い。本屋敷についてもまた云い伝えがある。

右の井戸のことは、一般には井戸神と申した。右の屋敷で、御誕生のあった時に産水を汲みあげたから、産の八幡とも、また産神とも申したのである。

さてまた本屋敷から乾(北西)の方に、神蔵と申す御屋敷があった。但し経堂屋敷とも申した。

大般若経を納めておられたので、右のように経堂屋敷と申した。

神蔵というのは六所(明神)の神米、また屋敷内の氏神の米を納め、また経堂の米も納められたので、神蔵と称したのである。

然しながら、御屋敷の内に十三の不思議と云われていることがあった。井戸には四つの「水やしろ岩」と云うことがあった。氏神にも同様で、「二つ鴉(からす)」、「三つ狐」などと云われるのは、みな同じような前兆であった。

国の乱れ、謀反人、戦の勝ち負け、事のわけは同じである。病気のよしあしにも同じような前兆があった。これは事例によって覚え、伝えたのである。これらは往々において、今に至るも定っている。

 

屋敷の内に「十三の不思議」がある家とは、いったいどんな家なのだろうか。一見してこれは普通の郷主の屋敷描写ではないことがわかる。家の紹介をするとき、これほど神仏の配置を詳細に伝えることは、ふつう余り例が無い。この家は神仏に非常にかかわりのある家ということが感じられる。さらに不思議な記述が続く。

右の数々の奇態の事は秘めごとであるから此の文書では伝えないのである。ただ子孫の者が、先祖の人にのみ尋ねて、承知しているのである。この詳細のことを数人のほかに知らせば、おのずから国の取り合いとなるか、または内に謀反人がある時には、その人が敵となる。時としては、これらの輩がよく知っておれば、味方の崩潰となることがある。真に秘密どころは、いつも詳しく口上で相伝するのである。

 

この文はいったい何を言いたいのだろうか。国の取り合いになるような、あるいは味方の崩壊につながるような秘密とは一体何なのだろうか。異常な家のたたずまいと共に、その家の初代の主である信盛という人も、かなりの変人であったと思われる文章が次に続く。

 

ところで、家敷の内の傍を見るに、庵室を結んで、煙をぼうぼうと立てておられる人がある。これは松平の郷主かと察せられ、名をば末氏ノ尉信森(信盛)と申された。この人は右の井戸八幡の生れ変りと云われていた。

 

屋敷の主の名は「末氏ノ尉信森」であるとし、なぜか松平氏ではなく末氏と紹介される。しかもその御仁は「庵室を結んで、(その中で)煙をぼうぼうとたてておられる」のである。まさに異形の行者然とした姿を想像させる。

重要なのは、松平ではなく、初代が末氏ノ尉信森(信盛)と名乗っていたことである。同書の注釈によると、末氏とは末国造の末裔で、古代陶器を製造したことからおきた氏族。尾張・上総等に末の地名があるという。しかし信盛が松平で大規模に窯業を営んだ形跡は発見されていない。陶器に関係していたという伝承も無い。「松平氏由緒書」は、次に信盛の嫡男二代信重を語る。

 

さて信盛の嫡男として、男子が一人あった。右は本屋敷には住まわれずに、外屋敷と名付けられて、境の垣根一重外に、小庵を構えて住んでおられた。そして土地の名を用いて、松平太郎左衛門尉信茂(信重)と申された。信重と云う人も、役王行者(役小角)の生まれ変りと云われていた。

信盛が没せられると直ちに本屋敷へ入居せられたのである。

 

嫡男と言いながら本屋敷に住まず、垣の外に住んでおり、父が亡くなったら「直ちに」本屋敷へ入居したのは何故なのか。

信重は父「信森」と同様、役行者の化身といわれていたと紹介されている。「役行者(えんのぎょうじゃ)」は日本国中に伝説を残す呪術界のスーパーヒーロー、あるいは天狗として知られ、山岳密教の教祖と崇められている。松平初代信盛は末氏を名乗り、その嫡男は松平氏を名乗っている。この二人は本当の親子なのか。二人の代替わりに何があったのか。謎の多い文章が続く。

素直に読めば、元々末氏を名乗っていた信森という名の、まるで行者のような者が松平郷に住み着き、その子である信重は土地の名をとって松平を名乗ったと作者は言っているのである。

漂泊の時宗僧徳阿弥は、旅の途中でこのような異様な家に立ち止まった。一夜の宿を乞うつもりなら、このような家は避けるものであろうが、なぜか徳阿弥はこの家に入り込み、さらにはこの家の娘と結ばれるのである。徳阿弥には何か別の意図があったことを匂わせるような話の展開である。

次に徳阿弥と信重の出会いの場面が語られる。

 

或る時、雨降り続きの折とて、好都合とばかりに好みの人達が集って、右の神蔵六所明神の神前に於て、連歌の会を開いた。いろいろ準備を整えたが、書き役をする人がなく、あれこれと小半日言合っていて、始まりが延びていた。

丁度その時、ふと立寄ったように見受けられる旅人があらわれた。この人は連歌の作法に通じているようで、この座中を離れて見物しておられた。

この時に信重が尋ねられたのが、意味深いことであった。

「さてさてあなたさまは、どこからどちらへお出になられますか」と言われると、徳翁(親氏)は答えて、「凡そ我等と云いますのは東西南北を巡り廻る旅の者です」と申された。

 

この後太郎左衛門が徳阿弥に書き役を依頼し、謙遜しながらもこれを引き受けた徳阿弥の連歌の技量、人となりを信重が認め、徳阿弥は松平家に長逗留することになるのだが、せっかく山の中で連歌の会のような文化的な行事をしようとしたのだが、村人の中に字の書けるものが居らず、開会が小半日も伸びてしまったという部分に、まず読む人は微笑んでしまう。それは余談として、

信重が「さてさてあなたさまは、どこからどちらへお出になられますか」と尋ねると、徳翁(親氏)は「凡そ我等と云いますのは東西南北を巡り廻る旅の者です」と答えた。

旅の者と言って、旅の僧とは言っていない。この答え方から「三河松平一族(新人物往来者)」の著者平野明夫氏は、徳阿弥は僧ではなく流浪の職人のようなものではなかったかと推理された。当時遍歴する職人は珍しくなかった。職人は交通税を免除され、関所などの自由通行権なども特権としていた。

ただ松平家のような行者臭の満ち満ちた特異な家にかかわりを持とうということなら、職人というより僧侶の身分がふさわしい。もっとも僧侶といっても「徳阿弥」という名であったのなら、時宗では正式な僧侶ではない。時宗では正式な僧侶なら「徳阿弥陀仏」という名がつく決まりになっており、徳阿弥という名称は、正式な僧侶の身の回りの世話をする下男のような身分を指す。そういう身分で諸国を遍歴する者は、「願人坊主」などという蔑称で呼ばれ、信用が低かった。

したがって彼らの多くは、泊めてもらう交渉がし易いように、連歌の才などの芸や手工業の技などを身につけている者が多かった。いずれにせよ親氏は自称ながら、僧とも職人とも言えるような身分であったろう。

話を戻そう。松平家がなぜ裕福であったかという考証を進めてきたが、初代は庵室を結んで、煙をぼうぼうと立てていた井戸八幡の生れ変りと云われた変人で、二代目は役行者の化身、つまり天狗のような人だったという伝承が残る松平家は、どのようにして裕福な家になったのだろうか。この情景からは、とても国一番の金持ちの家とは思えない。

しかも二代目の信重は初代の信盛が死ぬまで家の垣の外の小庵で暮らし、初代が亡くなって初めて母屋に住むことができるようになったという。何か事情があったにせよ、この親子は少なくとも仲が悪く、協力して蓄財に励んだとも思えない。

長逗留している徳阿弥が、そろそろお暇いたしましょうと腰を上げかけると、太郎左衛門信重が引きとめ、二人の娘のうちの一人の婿になってほしいと徳阿弥に言った。

 

先ず先ずその日は暮れすぎて、翌々日も暮れはてて、ながながとうち過ごしてご逗留なされた。

春夏をば送られて、或る日おっしゃるには「さてさて此の年中は悠々とご危介になり、お恵みにあずかって恭けなく、一言御礼を申し上げます」と申されて、何処をお宿とも定めずにご出立なされるのを、信重はこれを止めておっしゃるには、「お恥しい話しですが、私の家の由来を委しくお話します。とくとお聞きください。先祖と云うのは在原の由来とも申します。また一つには紀州熊野の鈴木の系統とも申します。正直委しくは存じません。ですから今では、源家風情とも申したりしております」。

この物語に対して信武(親氏)は、「道理至極のことで、左様のお話を好ましく思います」と答えられた。

 

信重は先祖の由来を在原かもしれない。あるいは熊野の鈴木かもしれないと言っている。在原氏であったなら立派な貴姓である。熊野の鈴木氏であったのなら藤白から続く一応の由緒はあるが、熊野の御師、つまり熊野権現の札を配りながら諸国を遍歴していた熊野行者の裔である。その身分差は天と地ほどもある。

自分の先祖を在原と確信していたら、最初から鈴木かもしれないなどとは決して言わなかったはずである。さらに屋敷の状況、当主の風体から推察しても、松平氏は明らかに在原氏のような貴種の裔とは考えられない。つまり常識的には熊野の鈴木氏、熊野御師の出身と見るべきであろう。続けて信重は「今となっては元の由緒はわからないので、問われれば源家風情(源氏の縁戚かもしれない)などと申しております」と述べている。つまりこれは、信重の時代の松平家は少なくとも源氏ではないということを言っている。

さて、初代信盛が熊野の鈴木の出で、信重がその跡取りであったとするなら、国一番の裕福になった理由がなおさら解らなくなる。熊野の御師といえば聞こえはいいが、この時代この手の者は、世間であまり信用が無く、村に入ることすら警戒されたような存在だったからである。「松平氏由緒書」はさらに続く。

 

「よくよく話して聞かせましょう。私達は今迄男子を一人も持たず、女子ばかり二人あり、姉を海女と申します。末娘を水女と名付けました。はじめ海女をば当国の酒井(一説に幡豆郡吉良町)と申す田舎に縁があって、これに縁づきました。末の水女を未だ母諸共にかかえています。此の屋敷と云うのは、内の者が申すように、仏神がついておられる故に、二人の娘共も仏神がかわらせられたと存じます。右の水女と縁を結ばれて、ここに御逗留くださるように」と勧められた。「また他にもいわれがあります。此の屋敷は、誕生する者を百千代迄も十分豊かであるように、育てるだろうとの御託宣があります。よくお聞きになってください」。

それに就き、徳翁斉(親氏)は不審に思われたので、暫く思案なさって言われたのには、「さようであれば、お心に従うべきであるとは思いますが、迷う理由が一つあります。話して聞いてもらいましょう。ここから西南の八橋(碧海郡知立町)と申す村に、弟祐金斉(泰親)と申すものを留めておきました。これをお願い申します」と申されると、信重が答えられるには、「それはそれは猶更結構に思います。早々お連れなさい」と申された。信武(親氏)はそのまま「畏りました」と答え、間もなく松平へ連れて来られた。こうして右の水女との縁がきまったのである。

 

三河物語では、徳阿弥は松平郷へ来る前に酒井の娘と結ばれ、そこで一男をもうけたことになっているが、「松平氏由緒書」の伝えるところは、そうではない。二人姉妹の一方を酒井の嫁にやり、一方を徳阿弥に嫁したことになっている。

酒井家にしてみると、徳阿弥の実子を始祖とするのと、徳阿弥の嫁の姉が産んだ子を始祖とするのでは、徳川家臣として家格に相当の差が出来てしまうので、酒井家の家譜では徳阿弥の子としたかったのだろう。

と考えると徳阿弥が松平を訪れる前に一時酒井家に滞在して子を成したという伝承は、どうやら酒井家の創作かもしれない。徳阿弥の弟祐金斉(泰親)が、酒井家から来たと書かれず、八橋の村(現在の知立市)から松平郷に来たと記されていることがそれを物語っている。

 

その後徳翁(親氏)には御子が三人できた。二人は男子、一人は女子。こうしている間に、徳翁斉は俄に病気になられた。寿命に定めはなく、是非もなくお亡くなりになった。

その後は祐金斉(泰親)が二男信光の御名代として、壮年の頃三年半ほど徳翁のお屋敷を取り仕切りなされた、それにより徳翁と祐金とで二代と称している。それが過ぎて信光の御代になるのである。

総領の御子は、仕合をしていて片足の筋が引きつり跛となられたので、太郎左衛門尉信武(親氏)の跡目を宛てがわれて、松平の本屋敷に居住させられた。名字も皆々在所の地名をあてられた。

信光は松平村の郷式ノ城(松平城)へお直りになって、松平和泉守信光とお名乗りになった。

領地所は、信重と信武(親氏)両人としては売地である。加茂郡において九ケ村、額田郡にも六ケ村である。信光は間もなく額田郡の岩津村に居城を構えられて、三河国の四郡半程が従属した。御代のうちに、信光明寺(原文光明寺)を建立なさった。

 

ここで一度確認しておきたいが、信武の後に括弧書きで親氏と書いてあるのは、原書を訳された方の注釈である。「松平氏由緒書」の原書には、徳阿弥、親氏、泰親の名はまったく出てこない。あくまでも親氏のことは徳翁、あるいは信武と言い、泰親は祐金斉としか記されていない。

信武は男子二人、女子一人の子を成した後、俄かに亡くなったと松平氏由緒書は言う。長男は戦いで足が不自由になってしまったので本屋敷に入り、信武の跡目は次男の信光が相続した。これを祐金斉が三年半ほど信光の名代となって屋敷を取り仕切った。

長男は足が不自由になったので次男の信光が継いだものと判断できるが、本屋敷に入ったのが長男で信光は本屋敷の近くに郷敷城を構えて出て行ったのだから、この時信光は分家したと見るのが正しいのだろう。後年、分家の子孫のほうが大きくなってしまったから、本家はそれなりの処遇を受けたものの、あまりに少ない石高から「冷遇された」という見方もある。しかし幕末まで松平宗家の石高が四百四十石の小禄に据え置かれたのは、何か別の理由があったのかもしれない。

「松平氏由緒書」は、信光は松平村の郷式ノ城(松平城)へ入って松平和泉守信光と名乗った。その後間もなく額田郡岩津村に城を構えて移ったという。

領地については、加茂郡九ケ村、と額田郡六ケ村の領地所は信重と信武(親氏)両人が売地として手に入れたと明記され「三河物語」の、親氏が近隣を武力で切り従えたという説は、「松平氏由緒書」の中では完全に否定されている。

ここで注目したいのは、信光が郷敷城で領地を買収し、松平和泉守信光と名乗ったと言っている点で、これは従来の説と真っ向から対立する。

信武(親氏)が亡くなった後、信光は、岩津ではなく松平郷に居る間に周辺の領地を買収し、官位を手に入れたと「松平氏由緒書」は言っているのである。

これまでは平野部の豊かな場所にある岩津という城を手に入れたことが、信光躍進のきっかけになったと考えられてきた。

それに対し松平氏由緒書は、そうではない、山の中の松平郷に居る頃すでに領地の買収を行い、官位も手に入れたのだと言っているのである。

それも、曽祖父信森は三河に流れ着いた熊野の御師(かもしれない)、祖父信重は行者(のようなもの)、父徳翁は(間違いなく)由緒の定かでない流浪の願人坊主であったかもしれないという家に生まれながら、信光一代でそれだけのことを成し遂げたと「松平氏由緒書」は言っているようなものである。

まさに手品のような話しなのであるが、筆者の旺盛な探究心はこれを是非にも解明したいと思うのである。

松平氏由緒書の中では、信光に比べ信光の叔父、もしくは父とされる祐金斉の存在は希薄である。わずかに三年半ばかりの間、信光の面倒を見ただけの人物として描かれている。そればかりか徳阿弥に比す徳翁も子供を三人もうけたのち、若死にしてしまう人物として登場し、格別の働きをしていない。

あくまでも郷敷城に住み、領地を獲得し、岩津に進出して官位を取得した主人公は、信光なのである。続く文章では、松平氏がいかに裕福だったのかが語られている。作者は説明しているつもりであろうが、読むものはますます解らなくなってくるという、わけのわからない説明が続く。

 

信重の十二具足の事。一、鍬 一、鎌 一、もっこ 一、同棒 一、鋤 一、つるはし一、玄のう 一、金棒 一、鉞 一、てこ棒 一、尺杖 一、熊手以上であり、道橋を拵える道具である。

この人は高月院を見立られた人である。建立のことは信重・信武(親氏・原文信光は誤り)両人でなされ、其後のお取立も云々。

信光と申す人も紀州熊野権現さまの化身と云われた。化身の証拠の事。

熊野へ年詣にご参詣なされ云々。

ご参詣のお留守にお蔵が一つ焼け落ちた。

お帰りになると十層倍のお宝が湧き出た。

お屋敷内に焼跡が多い。

今でも古井戸が一つ在るのだが、此の井戸を掘ってみると、底からは焼銭、黒金など出るのである。

また屋敷内の奇態なことも云う。

一、四つの水 一、岩の汗流のこと 一、二つ鴉 一、社殿の震動 一、三つ狐 凡ての吉凶はこの五つの前兆にあらわれる。但しその時日が定っていることは決してないのである。

信武(親氏)の常に携行なさった二十四具の事。これは信重の十二道具の一倍増しで、人夫も二十四人である。信重の十二具に重ねて、二十四具足である。

一、こし桶 一、茶具 一、酒 一、肴 一、武具 一、馬具 一、家具 一、塩 一、そ(衣)一、兵糧米 一、火うち 一、つけ竹

右を信重の十二具足に合はせて、しめて二十四具足と云うのである。

これらは大慈悲のあらわれであって、鍛え凍えたる者共のお助けのためである。

右は十二運を表わすと云う。十二神を真似るとも云われている。二十四孝にも似ている。とにかく慈悲の行いを此の上もなく多くつみ、金銀米銭もお蔵に満ち満ちていた。

これが太郎左衛門(信重)、徳翁(親氏)、祐金(泰親)の三代のことである。

 

信重は十二の道具を持たせて道や橋を修理した。信武はさらに十二の道具を加え二十四の道具を小者に持たせて働いた。それらは別に特別な道具ではなく、信武のしていたことは、例えば金を掘って大金を得るような仕事にはつながらない。

金は、焼けた蔵から湧き出た。あるいは井戸の底に沈んでいたと、夢のような話で、あくまでも真実を伝えようとしない。

 

信光と申す人も紀州熊野権現さまの化身と云われた。化身の証拠の事。

熊野へ年詣にご参詣なされ云々。

ご参詣のお留守にお蔵が一つ焼け落ちた。

お帰りになると十層倍のお宝が湧き出た。

 

やがて三河守となる信光は岩津城主の息子として気品高く育てられたように思われているが、行者のような前半生であったらしい。さらに不思議なのは、一般に信光は岩津で生まれたと信じられているが、結構大きくなるまで(熊野へ参詣にいける年頃まで)松平郷に居たことになっていることである。しかも、太郎左衛門(信重)、徳翁(親氏)、祐金(泰親)の三代の間は、金銀米銭がお蔵に満ち満ちていたという。

次に重要な一文がある。

 

この人は高月院を見立られた人である。建立のことは信重・信武(親氏・原文信光は誤り)両人でなされ、其後のお取立も云々。

 

高月院を見立てた(建立した)人として原文では信重、信光と表記され、これを口語訳された方は、信光と書かれたのは間違いで信武だろうとわざわざ訂正されている。

これはどうだろうか。原作者がこの様な重要な部分で、少し読み返せばすぐわかるような間違いを犯すものだろうか。しかもこの後に

信光と申す人も紀州熊野権現さまの化身と云われた。化身の証拠の事。熊野へ年詣にご参詣なされ云々。という信光についての記述が続いている。

前後の文脈から考えると、これはやはり高月院は信重と信光が建てたと言っているのだと考えてよさそうである。訳者の「信光は岩津の人」という概念が支配して、そういう注記になったのだろう。

ここに高月院が出てきたことに注目したい。

松平氏の菩提寺高月院の前身は「寂静寺」といって元は足助氏の寺だった。創建は正平二十二年(一三六七)年、開山の見譽寛立上人は足助重宗の二男重政であった。松平郷は足助領内であったから、寛立上人はこの地に足助氏の菩提を弔う寺を建立したのだ。松平郷はこの時足助領内に存在していたという事実は極めて重要である。

この頃、松平郷を取り巻く状況を考えると、徳阿弥が松平郷に入り婿した時代、奥三河最大の実力者は足助氏の広大な領地をそっくり継承した足助の鈴木氏だった。この当時、鈴木氏と松平氏とでは大きな力の差があった。その後奥三河で山家三方衆という一揆を形成して世に知られる菅沼氏や奥平氏は、永享の乱が収束した一四四〇年頃は、まだ取るに足らない小さな勢力だった。つまり、徳阿弥が松平郷に現れた頃の奥三河は鈴木氏の一人天下の時代なのであった。松平郷はその鈴木氏の領内にあったことを忘れてはならない。

 

鈴木氏を語る前に、鈴木氏の前身の足助氏のことを少し説明する必要がある。

鎌倉から室町時代にかけ、奥三河、山岳地帯の、信濃の国境まで続く足助荘という広大な荘園を所有していたのは、尾張源氏山田氏の支流足助氏だった。清和源氏、源満政につながる足助氏は、血筋としては源頼朝の家に遜色ない家柄の山田氏から出ている。

山田重満の弟重長は、尾張国山田荘から足助の荘に来住して、加茂郡の郡名から加茂六郎重長を名乗り、その子の重秀からは足助氏を称するようになった。鎌倉時代、三河足助の足助氏は鎌倉御家人の中でも屈指の力を持っていた。

初代重長の妻は鎮西八郎源為朝の娘で、足助重長の娘は二代将軍頼家の室となり、公暁を生んでいる。二代重秀の妻は三河守護であった安達藤九郎盛長の娘で、当時の有力者と姻戚関係を結んでいる。このことは、足助氏が相当大きな勢力を持っていたことを想像させるものである。
 足助氏は勤皇の志の強い家柄であった。「承久の乱」では、足助重成が後鳥羽方として戦い討死にした。また、元弘元年(一三三一)後醍醐天皇は笠置山に逃れたが、笠置山に最初に馳せつけ天皇に味方したのが、足助氏の惣領・足助次郎重範であった。重範は集まった武者三千余人の総大将をつとめた。しかしこの戦いで重範が敗死すると、次第に足助氏の勢力は弱まった。
 南北朝時代には、足助一族は、重春が重範の子重政を助けて一族を統率していた。そして、後醍醐天皇の皇子、宗良親王を足助の荘に迎えようとしたが果たさず、興国四年(一三四三)重政が成人すると重春は足助を去り、安芸の国へ移住してしまった。このころから一族が各地へ離散していった。

血筋もさることながら、鎌倉幕府中央との深い関係を築くためには相応の財力、力をもたなければならない。奥三河という地域は、この足助氏の活躍を支えた力を育み提供したのである。この足助氏が去った後の広大な足助氏領を鈴木氏が継承した。

 

重直┬重満-重忠-重継-重親┬泰親

  │          └親氏-頼重-頼範-重忠-重胤-貞幹-貞俊-貞詮

  └重長【足助氏祖】-足助重秀

 

ちなみに、徳阿弥が信州林屋敷で出合った山田貞俊、貞詮父子の武節山田氏は、足助氏の本家筋に当る家である。

山田親氏の孫頼範の代に足助氏を頼り尾張から武節へ移住した。ところが頼範の孫重胤は、南朝後醍醐天皇の皇子宗良親皇に供奉し上州へ向かう際、柏坂の戦いで戦死してしまった。

名家の血筋がたえることを憂いた鈴木氏は、重胤の姉が鈴木政長に嫁ぎ生まれた貞幹を山田氏の養子とした。つまり武節山田氏は足助鈴木氏と親戚関係にあり、徳阿弥と出会った貞俊の父は鈴木氏の出だった。

貞俊は林藤助光政の娘を室にし、生まれたのが貞詮である。ということは林氏と武節山田氏、そして足助鈴木氏は、山田貞俊を仲にしてそれぞれ近い親戚関係にあった。流浪の時宗僧徳阿弥一族は、永享十二年、一四四〇年、信州林郷で一挙にこれらの奥三河一帯に強い勢力を持つ名家に知古を得たのである。ここから徳阿弥の躍進が始まった。これを伝承していた徳川家が正月の嘉儀として林家当主に一番杯を与える行事を残したと考えられる。