近代に入り、家康のつくった絵空事の出自を基にした研究などは意味がないということで、研究者の魅力が薄れ、徳川家創業期の研究に関しては長い間進展が無かった。

ところが昭和四十六年四月『松平町誌』編纂の資料蒐集時に、草稿のまま出版されなかった『明治十四年松平村誌(草稿)』附載の「松平氏由緒書」が発見された。

所蔵者が交代寄合旗本松平太郎左衛門家の家老の家柄の子孫である豊田市松平町赤原の神谷康重氏(平成四年一二月没)であったことから、文書の信頼性が高まった。

発見された文書には驚いたことに、江戸時代の凡ての徳川家の歴史書に定着している「新田源氏末裔説」の痕跡が全く見当らなかった。成立年代は未詳ながら、内容から大阪落城の元和元年(一六一五)からあまり隔たらない時期に作成されたと考えられ、現存する徳川氏創業史では最古の著作である。

「松平氏由緒書」はいわゆる松平・徳川中心史観の影響が見られず、「三河物語」より古い時期に作成された、徳川草創期を語る信頼性の高い資料ではあるが、これとても執筆者が徳阿弥と同時代に生きたわけではなく、松平郷松平宗家の伝承に基づいた内容になっている。

内容的には「三河物語」に比べ、はるかに詳細なものになっているが、三河物語や、それに基づいて書かれた徳川家編纂史書とは多くの相違点も見られる。

松平氏由緒書と三河物語の内容は大きく異なる。それを比較するため、「三河物語」の中の徳阿弥が登場する部分を初めに紹介する。

家康に心酔し、家康の生存していた良き時代を忘れがたい大久保忠教の書いた三河物語は、家康が任官のために創作した、新田源氏に始まる徳川家の発祥譚を、当然のことながらそのまま踏襲している。(以下、ニュートンプレス発行 三河物語原本現代訳 小林賢章訳から引用)

 

誠に徳川家のご先祖は八幡太郎義家から代々嫡々の家柄だった。だが義貞(新田)が盛んなとき、義貞にしたがって、新田郡の徳河の郷においでになられた。それで徳河殿と申されたわけです。義貞が高氏(足利尊氏)に討ち負けたとき、徳河をお出になって、迷える死者のように、どこと定まったところもなく、十代ほどここかしこと流浪なされておられました。

徳の代に時宗になられて、お名を徳阿弥と申されました。西三河坂井の郷へ立ちよられ、お足を休められた。そのおり、さびしさゆえに、身分のひくい者に、お情をかけられ、若君ひとりをもうけられた。

そんなおり、松平の郷中に太郎左衛門尉といって、国一番の裕福な人がいた。どうした緑でしたか、太郎左衛門尉にひとりの娘がいたが、徳阿弥殿を婿にとり、跡とりになっていただいた。のちに坂井でもうけた子を訪ね、対面したとき、「疑いなくわが子だ。とはいえ、他人の家督を相続する以上は、長男とはいえない。家来としよう」とおっしゃって、のちのちまで家老職となさったということ、たしかではないが、うわさに伝わっている。

 

以上の「三河物語」の文中から、叙任のために家康が吉田兼右に依頼して創作したとされる新田、徳川(郷)という創作部分を除いてしまえば、単なる諸国流浪の時宗僧が松平郷へ流れ着き、松平太郎左衛門尉の家に入り婿をしただけだという内容になる。

しかも、大久保彦左衛門は、徳阿弥という僧侶は松平に婿入りする前に酒井の娘にも子を作ったとんでもない破戒坊主であったと遠まわしに言っているのである。彦左衛門の胸中には、今でこそご大層なことを言っているが、徳川家も初めはそのようなものなのだという思いがあったのであろう。

松平親氏が松平家に婿入りした後、近隣地域を切り従えたと三河物語は伝える。しかし、その頃三河額田郡のあたりは幕府の直轄領のような場所で、そのような場所で松平氏が武力を以って近隣を征服したとは考えにくい。恐らく買収したものだろうと、専門家の間では見られている。この後に紹介する「松平氏由緒書」では、明確に「買い地」と言っている。

買収だったとしたら、松平太郎左衛門家は相当な金持ちで無ければならない。三河物語も国一番の裕福な家と言っているのだが、松平のような辺鄙な山の中にある寒村の地主がどうして国一番の金持ちになれたのかという説明が難しい。しかしこの部分の説明が出来なければ、松平氏創業期の解明は一歩も前に進めないのだ。

松平郷を訪れてみればすぐ理解できると思うが、松平郷というところは、街道(足助街道)を数キロも山の中へ分け入った、とてつもなく辺鄙なところにある猫の額のような小さな盆地である。村誌によると、人口は宝暦六年に三四八人、明治二年は二二四人となっており、一二六年で人口が一一四人も減ってしまったと嘆いている小さな村である。

江戸時代の草高は全村で三二二石、その内、松平太郎左衛門家の分は一三〇石しかない。親氏の二代前の初代松平当主信盛がどこからか移住してきた時には、全村でわずかに七戸の家を数えるのみであったという伝承が残っているような村である。

親氏が徳阿弥の名でこの小さな村に流れ着いたのは、二代目信重の時代だった。そして信重の時代にはすでに「国一番の裕福な家」に変貌していたと「三河物語」は伝えるのである。

「三河物語」の松平裕福論は、家康の先祖を美化するために少し大袈裟に言っただけかもしれないが、そうだとしたら、親氏が近隣地域を七ヶ村、あるいは十七ヶ村も買収した金はいったいどこから出たものかということになる。松平氏が裕福であったという事実は、動かしようが無いのである。松平氏は、この山の中から平地に出て、やがて三河一国を制覇し、日本を統一する徳川家康を輩出することになるのだが、そのすべての謎の解決は、この小村からどのようにして三河平野へ進出することが出来たのかという一点にかかっている。つまり、裕福になった原因を解明することができれば、松平氏創業期の謎のひとつが解明されるのである。