松平親氏が松平家に婿入りした後、近隣地域を切り従えたと三河物語は伝える。しかし、その頃三河額田郡のあたりは幕府の直轄領のような場所で、そのような場所で松平氏が武力を以って近隣を征服したとは考えにくい。恐らく買収したものだろうと、専門家の間では見られている。この後に紹介する「松平氏由緒書」では、明確に「買い地」と言っている。

買収だったとしたら、松平太郎左衛門家は相当な金持ちで無ければならない。三河物語も国一番の裕福な家と言っているのだが、松平のような辺鄙な山の中にある寒村の地主がどうして国一番の金持ちになれたのかという説明が難しい。しかしこの部分の説明が出来なければ、松平氏創業期の解明は一歩も前に進めないのだ。

松平郷を訪れてみればすぐ理解できると思うが、松平郷というところは、街道(足助街道)を数キロも山の中へ分け入った、とてつもなく辺鄙なところにある猫の額のような小さな盆地である。村誌によると、人口は宝暦六年に三四八人、明治二年は二二四人となっており、一二六年で人口が一一四人も減ってしまったと嘆いている小さな村である。

江戸時代の草高は全村で三二二石、その内、松平太郎左衛門家の分は一三〇石しかない。親氏の二代前の初代松平当主信盛がどこからか移住してきた時には、全村でわずかに七戸の家を数えるのみであったという伝承が残っているような村である。

親氏が徳阿弥の名でこの小さな村に流れ着いたのは、二代目信重の時代だった。そして信重の時代にはすでに「国一番の裕福な家」に変貌していたと「三河物語」は伝えるのである。

「三河物語」の松平裕福論は、家康の先祖を美化するために少し大袈裟に言っただけかもしれないが、そうだとしたら、親氏が近隣地域を七ヶ村、あるいは十七ヶ村も買収した金はいったいどこから出たものかということになる。松平氏が裕福であったという事実は、動かしようが無いのである。松平氏は、この山の中から平地に出て、やがて三河一国を制覇し、日本を統一する徳川家康を輩出することになるのだが、そのすべての謎の解決は、この小村からどのようにして三河平野へ進出することが出来たのかという一点にかかっている。つまり、裕福になった原因を解明することができれば、松平氏創業期の謎のひとつが解明されるのである。