朝野旧聞裒藁

信濃国林の郷を過ぎ給いし時、林某が許に滞在した。時に元旦に当たり林氏は兎を調理して饗した。

このことは、諸説往々にして年代も誤りがあり従い難い。寛永林譜には清康君、広忠卿に仕えた藤助某を始祖として兎の一時を祖先某の故事とする。三河記摘要には、藤介光正の故事とするが、寛永林譜始祖の藤助と同人とするには年代が合わず従い難い。

また石道夜話は小笠原光政とする。

甲斐国郡志の武田系図にも光政を小笠原清宗の二男として親氏君の御事も記されている。しかしこの中では寛永小笠原譜にある光政は西條七郎中務少輔といったことや、林氏や藤助を称したということは書かれていない。

光政の父清宗は応永三十四年の生まれで文明十年に卒しているため、年代が合わない。

清宗の長子長朝信濃府中林郷で生まれたことが寛永譜にあり、これを付会したものと見える。

 

寛永林譜

(林氏の)先祖は信州林郷に居住していた。昔、親氏公が上州新田より三州松平へ向かった折信州林郷の某の館にお泊りになった。越年のとき正月元旦に林某は兎の吸物を献上した。それよりこのかた今に至るまで殿中においてその吉例が行われている。

 

三河記摘要

長阿弥、徳阿弥は上州に居られなくなり思い煩っていたところ、鎌倉公方足利持氏に共に仕えていた林藤助光正のことを思い出した。藤助は長阿弥とは断金の友であったが、永享九年讒言に合い持氏の勘気をこうむり信州に蟄居していた。二人は藤助を頼り永享十一年十二月二十七日信州の光正宅を訪ねた。光正は大いに喜んだが饗応するものが何もなかった。そこで光正は雪中に狩をし兎を一匹手に入れこれを正月元旦の饗応とした。

この故事により徳川家正月元旦、兎の吸物饗応の御嘉儀が始まった。

 

御先祖記

親氏一年信州に赴くとき信濃の山家にて林藤助という者の家に泊まった。互いに先祖を名乗りあったところ林氏は親氏の先祖の家臣だったことがわかり林氏は大いに喜んだ。しかし今日は十二月晦日、明日は元旦というのにお祝いする珍しい肴も無く、弓矢を持って山に入り兎一匹を射止めた。これを元旦の兎汁に仕立ててお出しした。その年から親氏の勢威が増し、この吉例をもって林氏が元旦に兎を奉る嘉儀が家康公の時代まで続いた。それより後は賄い方が調理して元旦の吸物を饗するようになった。

 

幕府の御用学者であった林述斎を中心に編纂された朝野旧聞裒藁は、徳阿弥の信州行きに対し終始否定的である。これは、徳阿弥が永享の乱後信州に現れたことになると、家康が苦心してつくった系図の内容、特に年代が成立しなくなるという理由からである。

最初に家康が創った新田氏につながる系図があったので、それ以降の徳川氏の史書は、年代や内容を無理やりその系図に合わせる必要があった。幕府編纂の史書は当然それに合わない伝承や文書は認めるわけにはいかないという立場を貫く。

しかし、文書には残っていないが、徳阿弥のことは、江戸城の奥深くに連綿と伝えられた、奇妙な行事という形で残されていた。

伝説の人物「徳阿弥」のことを生々しく伝える、何とも不思議な行事が徳川幕府に存在したのである。

それは「献兎賜杯」と呼ばれ、毎年正月元旦、江戸城中で行われていた徳川家年初の恒例行事である。

 

献兎賜杯の秘事

 

兎を献上し、杯を賜るという言葉を省略して「献兎賜杯」と書き、これを「ケントシハイ」と読む。

どんな行事かと言うと、正月元旦、江戸城に登城した在府の大名と、徳川家一門が居並ぶ中で、時の将軍から、その年の一番杯を、林という旗本が、うやうやしく賜るというものである。

言ってみれば、これだけのことだが、この行事の始まった由来に、徳川家の初代、松平親氏が関わっている、というところが珍しい。

「岡崎市史別巻徳川家康と其周囲上巻」(昭和九年六月十日発行)は、松平研究の良質資料として知られているが、その本の冒頭を飾るのが「献兎賜杯」の故事である。

この本では次のように紹介されている。

 

家康をしるす前に、まずその租先たる参河前八代、即ち参河に於ける松平氏八代の事蹟について、その大略をしるさんとするのである。

松平氏の祖を太郎左衛門親氏と呼ぶ。伝へ云う、親氏は新田氏の族なりしが、世に住みかねて、時宗の僧となり、徳阿弥と称し、其父長阿弥有親と共に流浪して信州林の郷に入る。

この時林藤助と云ふ者、正月元日に.兎の吸物を饗した。後徳川家に於て、兎の吸物を元旦の嘉儀と為す事、是より始まると云ふ。

 

「岡崎市史別巻」が示すように徳川家はこの行事を新年祝賀の恒例行事として、眼病を患った林家六代忠政の代に一時中断があったものの、後に再開され幕末まで続けられた。

大久保彦左衛門忠教の「三河物語」にも、この行事のことが載っている。

 

この藤助と申すは、御代々伝える侍大将なり。正月御酒杯をも御一門より先にまかり出てくださりけり。その次に御一門出させたまう。御家ひさしき侍はこれに超す人なし。(三河物語)

 

徳阿弥・親氏の実在性は別として、徳阿弥が関係する「献兎賜杯」は、徳川幕府の公式行事であったから、行事が存在したことについては疑問の余地は無いだろう。

優秀な幕府官僚が司る公式行事の中で、武家社会の慣行を無視するかのような行事が、松平創業以来、誰も疑問を持たず、連綿と続けられたという点に、この物語の真実性を強く感じることが出来る。

もし、仮に、これが何かの間違いから始まった行事としたら、徳川将軍家の権威と面目は丸つぶれになってしまうからである。

ところで献兎賜杯の実際はどのようなものだったのかと言うと、江戸時代の正月元旦、諸侯は暗いうちに起床して身だしなみを整え、正月参賀の厳粛な儀式のために、江戸城の徳川将軍のもとに一斉に伺候した。

卯の刻(午前六時)、御白書院上段に将軍が着座する。

下段に御三家ならびに松平加賀守が着座する。

そこに兎の吸物が供される。

この兎を毎年献上するのが「林家」で、将軍家から正月元旦一番の杯を賜るのが、林家の当主である。

これだけの特別な待遇を受ける林家は、幕臣の中でもさぞかし相当な家柄と思われがちだが、実は代々徳川家に仕える三千石に過ぎない旗本で、大名ですらない。

年の初めの一番杯は、武家では極めて重要なもので、世子など通常殿様の次に位するものが受けるのが決まりになっている。

兄弟間でもこの序列は厳しく定められており、下の子を溺愛し、殿様の勝手な意思などでこの序列を無視した場合、お家騒動にまで発展しかねない程の大切なものであった。

ではなぜ林家の当主がこのような特別扱いを受けたのか、それを説明するためには、「献兎賜杯」の由来に書かれた、徳川家初代「松平親氏(徳阿弥)」と林家の先祖「林藤助光政」との出会いまで、遡らなければならない。

時は室町時代の中ごろ。舞台は鎌倉である。

室町時代の永享九年(一四三七年)六代将軍の頃、関東地方で永享の乱が発生した。

簡単に言うと、共に足利一門である京都の足利将軍と鎌倉にいた鎌倉公方が対立した戦である。

いくつかの幕府編纂史書は、徳阿弥は林藤助と共に、鎌倉公方、足利持氏に仕えていたことを示している。

永享十一年二月十日、鎌倉公方持氏は幕府軍に敗れ自害した。

この事件の前に持氏の側近であった小笠原一族、信州林城城主・林藤助光政は、持氏の勘気に触れ職を辞し、信州林城(現在の松本付近)近くの山中に蟄居していた。

持氏方の残党狩りの嵐が吹き荒れる中を、永享十一年の暮れに徳阿弥(後の松平親氏)は、父の長阿弥(有親)と共に、林藤助の隠棲先を訪ね、翌永享十二年の元旦を信州林郷で迎えた。

ここから「献兎賜杯」の物語が始まる。

林郷を訪ねた徳阿弥に、林藤助が永享十二年の元旦、山の中から兎を狩ってきて兎汁を献じた。

この兎汁を食した徳阿弥は、この後運気が急上昇し、三河に渡って松平氏の礎を築き、やがて徳阿弥九代の子孫である徳川家康が、天下を制する。これを嘉儀として生まれた、幕府の奇妙な年初の恒例行事が、「献兎賜杯」となった。「新三河風土記」は、献兎賜杯の由来を次のように伝えている。

 

徳川家康のご先祖さまに、有親という武士がいた。
あるとき信州を訪れた有親は、以前足利持氏の側近として、一緒に仕えた林藤助光政という武士が持氏の勘にさわって、郷里の山辺に蟄居しているのを思い出した。折から年の暮れ、大雪の中を、有親はやっと藤助の家にたどり着いた。久しぶりの再会に藤助は喜んだが、せっかくの客をもてなす用意がなかった。そこで藤助は弓矢をもって外に出たが、大雪の中、小鳥一羽も見つからない。仕方なく帰りかけると、兎が一羽、田の畔へ飛び出してきた。藤助は弓の名人だったので、首尾よく兎を射とめた。

この日は陰暦の十二月二十九日で、翌日は永享十二年元旦だった。藤助は親氏と夜遅くまで語り合い、翌朝は正月の馳走に兎の吸い物つくって有親をもてなした。

このとき、有親の子、親氏も一緒についてきていたが、のちに親氏は松平家の祖となり、藤助はこれに仕えた。

松平家が徳川家になっても、藤助の子孫は家臣であり続け、小禄ながら幕末まで続いた。

徳川家では、雪の中で出してもらった「兎の吸物」の暖たかい心を忘れぬように、毎年元旦は、兎の吸物を吉例とし、藤助の林家が二月二十九日までに兎を献上するようになった、

 

徳阿弥と山田氏との出会い

 

永享十二年(一四四〇年)の正月元旦を、林藤助の隠棲先で迎えた徳阿弥は、翌年の嘉吉元年まで、藤助の屋敷に滞在した。

それは、武節城主、山田貞俊の嫡子、貞詮の元服式が、嘉吉元年の正月に林屋敷で行われるのを知り、山田貞俊の来訪を待っていたからである。

河手家略系譜によると、嘉吉元年(一四四一年)閏正月十五日、信州林の郷、林藤介光政の屋敷で、六代目山田貞詮の元服の式を執り行おうとしていた山田貞俊は、たまたま林屋敷に逗留していた、世良田有親、親氏父子に出会った。

河手家略系譜には、この時の様子が、次のように記されている。

 

六代 貞詮 武節与四郎改山田左衛門尉親重

嘉吉元年閏正月十五日、叔父林藤介光政の館にて首服を加う、折柄光政が林之郷に世良田有親公、同親氏公故あって蟄居したところ、与四郎貞詮が首服の由を聞いて貞詮を召し、さすが貞幹の孫である。あっぱれ剛の者、われが旗を出せば一方の大将と賞して、我名の一字を与えるから、今日より左衛門尉親重と名乗れと仰せられ、改名する。

 

河手家略系譜については、天保十三年七月彦根藩井伊家家老の家柄である河手文左衛門良一が江戸詰めの余暇に写し、懇望により三州設楽郡川手村山田又右エ門に渡したものが子孫の山田忠一氏方に秘蔵されていたものである。

井伊家の河手家というのは三河武節の山田氏が信玄の時代武田に臣従し、河手文左衛門良則と改名、武田家滅亡と共に井伊家家臣となり井伊直政の姉高瀬姫を室にして四千石筆頭家老となったもので、彦根藩に残る同家の家譜、及び武田家の記録などから由緒に疑問はない。この系図に関しては良一の直筆添え書きも残っており、尊卑分脈の記述とも整合している信頼性の高い系図である。

断っておくが、この話は河手家略系譜にしか載っていない。他のどの書にも、まったく見当たらない。ということは、恐らく山田氏の捏造ではないかと疑りたくなるのが普通だが、実はこの話の真実性を裏付ける誰も否定できない証拠が存在する。

それは、徳阿弥が還俗して名乗った「親氏」という名の由来にあった。

徳阿弥は、信州林郷で林藤助、山田父子と会った後に、松平太郎左衛門信重の連歌の会で才を認められ、信重の娘と結ばれる。

「松平氏由緒書」によると、その時徳阿弥は「徳翁斎信武」、泰親は「祐金斎」という名で登場する。

翁も斎も一種の尊称であるから、それを省くと、二人の兄弟は「徳」と「祐金」という名で松平郷へ現れたのだろう。

その後徳阿弥は、還俗して「親氏」となり、この名が後世一般的になる。ところで、その「親氏」と言う名乗りであるが、これが誠に不思議な名なのである。実は、山田頼範の三代前の先祖の名が「山田親氏」といい、そのうえ山田親氏には山田泰親という兄弟まで居るのである。

もう少し詳しく説明すると、林屋敷で出会った山田氏の居城は奥三河、武節にある。武節というところは、松平郷と同じ足助荘に在り、三河足助と、信州飯田の中間にある飯田街道の要衝である。

武節の山田氏は、山田頼範が建武二年(一三三五年)、同族の足助氏を頼り、尾張から奥三河に移住してきた。

徳阿弥は林藤助の屋敷で山田頼範から五代の貞俊と、その息子、六代貞詮と出会ったのは、その貞俊と貞詮親子の先祖に「親氏」「泰親」という名を持つ先祖が居たのである。親氏は山田頼範の三代前の先祖で徳阿弥が会った武節山田氏はその親氏の直系の家だった。

山田親氏は鎌倉時代下菱野(現在の愛知県瀬戸市)の地頭、山田泰親は上菱野の地頭であったから、れっきとした幕府の御家人で、二人とも「尊卑分脈」に掲載され、実在は証明されている。

 

重直┬重満-重忠-重継-重親┬泰親

                 └親氏-頼重-頼範-重忠-重胤-貞幹-貞俊-貞詮

 

 

ということは、徳阿弥は信州で山田貞俊と会った後に還俗して、山田氏の実在した兄弟と全く同じ名を名乗ったことになる。

このようなことが偶然起きるものだろうか。

徳阿弥は山田氏の先祖のことなど何も知らず、たまたまこの名を名乗ったのかもしれないので、念のため「無作為に選んだ字でつくった、二人の兄弟の名が、同じになる確率」を計算してみた。

今も昔も、人の名に使う字は同じようなものだから、現在の日本で、人名漢字として認められているものを基準に考えると、二九九七字ある。

その中には「淫・怨・凹・禍・悔・偽・死・亡」のように余程の変わり者以外は、人名として採用しないような字も含まれているから、それらを千字くらい除外して、二千字くらいが今も昔も人名漢字として使われたものとしよう。

この二千字で、作ることが出来る二文字の名は四百万種ある。親氏と泰親は兄弟なので、兄弟の組み合わせになると、かなり大雑把な計算で十六兆種になる。

つまり『二千字の人名漢字で作れる二文字の名前が、他の兄弟と同じになる確率は、十六兆分の一』ということになり、『二組の兄弟が無作為に選んだ字で、同じ名前になる確率はほとんど有り得ない』という結論になる。

こんな面倒な計算をしてみるまでもなく、二人は明らかに山田氏の兄弟の名を意図的に採用したのだ。

何も確実なものが残っていない親氏に関することで、この命名の由来は唯一の真実と言える。

「なぜ、親氏は山田氏の実在した兄弟の名前をつけたのか。」

という謎を解明することができれば、真実の親氏の姿に、より近づける訳である。

前提の説明は終わったので、これから、山田氏の先祖の兄弟と、松平親氏兄弟の名が同じであったという命名の由来を元に、親氏の真実に迫ってみることにする。

「親氏は嘉吉元年(一四四一年)に、三河の大浜称名寺に現れた」という称名寺の寺伝がある。

親氏は相模国・藤沢の、時宗総本山・清浄光寺(藤沢寺)に入って出家し、徳阿弥と称し、時宗僧となったとされるのだが、三河碧南市の大浜湊にある称名寺は、藤沢清浄光寺の末寺にあたる。

親氏には先の『藤沢寺記』や『称名寺略記』など、寺側からの記録がいくつかあり、『称名寺略記』には

「嘉吉元年(一四四一年)、徳川有親および、その長男親氏、従士石川孫三郎が当寺に来住した。孫三郎は当寺住持の兄という縁故であった。」と親氏が三河国へ行った理由が記され、その時期は、河手家略系譜の内容とも一致する。

時宗本山、藤沢遊行寺にある『遊行・藤沢両上人御歴代系譜』の自空上人の項にも、親氏親子の事が記されており、同書でも、親氏親子は、河手家略系譜と同じ時期に石川孫三郎に従って三河に行ったと記されている。

ここまでは称名寺略記の寺伝と、河手家略系譜の年代が一致している。武節の河手家は時宗ではなく当時称名寺と関係はまったくなかったと考えられるのでこの年代の一致は偶然とは考えられないものである。

これまでの考証から、徳阿弥は父や兄弟らとともに鎌倉公方足利持氏に仕えていたが、持氏が京の将軍家に対し反乱を起こし敗死してしまったため、職と主人をなくした徳阿弥一行は持氏に仕えていた頃知り合った信州の林藤助光政を訪ね、そこで奥三河の山田氏と知り合いになり、その後三河へ向かったと考えられる。

三河では松平太郎左衛門信重の家に入り込む。この時はまだ親氏名は名乗らず、姿も僧形である。