幕府の御用学者であった林述斎を中心に編纂された朝野旧聞裒藁は、徳阿弥の信州行きに対し終始否定的である。これは、徳阿弥が永享の乱後信州に現れたことになると、家康が苦心してつくった系図の内容、特に年代が成立しなくなるという理由からである。

最初に家康が創った新田氏につながる系図があったので、それ以降の徳川氏の史書は、年代や内容を無理やりその系図に合わせる必要があった。幕府編纂の史書は当然それに合わない伝承や文書は認めるわけにはいかないという立場を貫く。

しかし、文書には残っていないが、徳阿弥のことは、江戸城の奥深くに連綿と伝えられた、奇妙な行事という形で残されていた。

伝説の人物「徳阿弥」のことを生々しく伝える、何とも不思議な行事が徳川幕府に存在したのである。

それは「献兎賜杯」と呼ばれ、毎年正月元旦、江戸城中で行われていた徳川家年初の恒例行事である。

 

献兎賜杯の秘事

 

兎を献上し、杯を賜るという言葉を省略して「献兎賜杯」と書き、これを「ケントシハイ」と読む。

どんな行事かと言うと、正月元旦、江戸城に登城した在府の大名と、徳川家一門が居並ぶ中で、時の将軍から、その年の一番杯を、林という旗本が、うやうやしく賜るというものである。

言ってみれば、これだけのことだが、この行事の始まった由来に、徳川家の初代、松平親氏が関わっている、というところが珍しい。

「岡崎市史別巻徳川家康と其周囲上巻」(昭和九年六月十日発行)は、松平研究の良質資料として知られているが、その本の冒頭を飾るのが「献兎賜杯」の故事である。

この本では次のように紹介されている。

 

家康をしるす前に、まずその租先たる参河前八代、即ち参河に於ける松平氏八代の事蹟について、その大略をしるさんとするのである。

松平氏の祖を太郎左衛門親氏と呼ぶ。伝へ云う、親氏は新田氏の族なりしが、世に住みかねて、時宗の僧となり、徳阿弥と称し、其父長阿弥有親と共に流浪して信州林の郷に入る。

この時林藤助と云ふ者、正月元日に.兎の吸物を饗した。後徳川家に於て、兎の吸物を元旦の嘉儀と為す事、是より始まると云ふ。

 

「岡崎市史別巻」が示すように徳川家はこの行事を新年祝賀の恒例行事として、眼病を患った林家六代忠政の代に一時中断があったものの、後に再開され幕末まで続けられた。

大久保彦左衛門忠教の「三河物語」にも、この行事のことが載っている。

 

この藤助と申すは、御代々伝える侍大将なり。正月御酒杯をも御一門より先にまかり出てくださりけり。その次に御一門出させたまう。御家ひさしき侍はこれに超す人なし。(三河物語)

 

徳阿弥・親氏の実在性は別として、徳阿弥が関係する「献兎賜杯」は、徳川幕府の公式行事であったから、行事が存在したことについては疑問の余地は無いだろう。

優秀な幕府官僚が司る公式行事の中で、武家社会の慣行を無視するかのような行事が、松平創業以来、誰も疑問を持たず、連綿と続けられたという点に、この物語の真実性を強く感じることが出来る。

もし、仮に、これが何かの間違いから始まった行事としたら、徳川将軍家の権威と面目は丸つぶれになってしまうからである。

ところで献兎賜杯の実際はどのようなものだったのかと言うと、江戸時代の正月元旦、諸侯は暗いうちに起床して身だしなみを整え、正月参賀の厳粛な儀式のために、江戸城の徳川将軍のもとに一斉に伺候した。

卯の刻(午前六時)、御白書院上段に将軍が着座する。

下段に御三家ならびに松平加賀守が着座する。

そこに兎の吸物が供される。

この兎を毎年献上するのが「林家」で、将軍家から正月元旦一番の杯を賜るのが、林家の当主である。

これだけの特別な待遇を受ける林家は、幕臣の中でもさぞかし相当な家柄と思われがちだが、実は代々徳川家に仕える三千石に過ぎない旗本で、大名ですらない。

年の初めの一番杯は、武家では極めて重要なもので、世子など通常殿様の次に位するものが受けるのが決まりになっている。

兄弟間でもこの序列は厳しく定められており、下の子を溺愛し、殿様の勝手な意思などでこの序列を無視した場合、お家騒動にまで発展しかねない程の大切なものであった。

ではなぜ林家の当主がこのような特別扱いを受けたのか、それを説明するためには、「献兎賜杯」の由来に書かれた、徳川家初代「松平親氏(徳阿弥)」と林家の先祖「林藤助光政」との出会いまで、遡らなければならない。