松平氏由緒書と三河物語の内容は大きく異なる。それを比較するため、「三河物語」の中の徳阿弥が登場する部分を初めに紹介する。
家康に心酔し、家康の生存していた良き時代を忘れがたい大久保忠教の書いた三河物語は、家康が任官のために創作した、新田源氏に始まる徳川家の発祥譚を、当然のことながらそのまま踏襲している。(以下、ニュートンプレス発行 三河物語原本現代訳 小林賢章訳から引用)
誠に徳川家のご先祖は八幡太郎義家から代々嫡々の家柄だった。だが義貞(新田)が盛んなとき、義貞にしたがって、新田郡の徳河の郷においでになられた。それで徳河殿と申されたわけです。義貞が高氏(足利尊氏)に討ち負けたとき、徳河をお出になって、迷える死者のように、どこと定まったところもなく、十代ほどここかしこと流浪なされておられました。
徳の代に時宗になられて、お名を徳阿弥と申されました。西三河坂井の郷へ立ちよられ、お足を休められた。そのおり、さびしさゆえに、身分のひくい者に、お情をかけられ、若君ひとりをもうけられた。
そんなおり、松平の郷中に太郎左衛門尉といって、国一番の裕福な人がいた。どうした緑でしたか、太郎左衛門尉にひとりの娘がいたが、徳阿弥殿を婿にとり、跡とりになっていただいた。のちに坂井でもうけた子を訪ね、対面したとき、「疑いなくわが子だ。とはいえ、他人の家督を相続する以上は、長男とはいえない。家来としよう」とおっしゃって、のちのちまで家老職となさったということ、たしかではないが、うわさに伝わっている。
以上の「三河物語」の文中から、叙任のために家康が吉田兼右に依頼して創作したとされる新田、徳川(郷)という創作部分を除いてしまえば、単なる諸国流浪の時宗僧が松平郷へ流れ着き、松平太郎左衛門尉の家に入り婿をしただけだという内容になる。
しかも、大久保彦左衛門は、徳阿弥という僧侶は松平に婿入りする前に酒井の娘にも子を作ったとんでもない破戒坊主であったと遠まわしに言っているのである。彦左衛門の胸中には、今でこそご大層なことを言っているが、徳川家も初めはそのようなものなのだという思いがあったのであろう。