「三河物語」の中で語られている松平氏創業期の部分は、松平・徳川中心史観に影響され、紹介したようにほとんど内容の無いものであった。

松平郷の松平家がどのような家だったのか、その家の家老が書いた「松平氏由緒書」文書では、むしろ詳細すぎるのではないかと疑問を持ってしまうような内容になっている。次章はいよいよ松平親氏公顕彰会から発行された「松平氏由緒書」の抜粋をもとに、謎に包まれた松平創業期の実像を探ってみる。

 

三河国加茂郡外下山の松平郷に「中桐」と呼ばれている屋敷があった。屋敷の中の丑寅(北東)の方向の「井戸の洞」と云う所に、氏神が一社祀られていた。この神社には多くの別名があった。御屋敷から同方向にあたって井戸があり、この井戸にも数多くの別名があった。同方に御手洗と申す井戸があり、右の井戸はこのみたらしの流れである。

右の神の別名については、井戸からあがり給うたと伝えられているので、水神八幡と申した。また産神とも申した。

さてまた井戸の別名は、「奥の井戸」とも、「沙汰なしの井戸」とも、「見捨ての井戸」とも申した。

神の御神体は岩とも云われていた。

井戸にも神にも不思議なことが多い。本屋敷についてもまた云い伝えがある。

右の井戸のことは、一般には井戸神と申した。右の屋敷で、御誕生のあった時に産水を汲みあげたから、産の八幡とも、また産神とも申したのである。

さてまた本屋敷から乾(北西)の方に、神蔵と申す御屋敷があった。但し経堂屋敷とも申した。

大般若経を納めておられたので、右のように経堂屋敷と申した。

神蔵というのは六所(明神)の神米、また屋敷内の氏神の米を納め、また経堂の米も納められたので、神蔵と称したのである。

然しながら、御屋敷の内に十三の不思議と云われていることがあった。井戸には四つの「水やしろ岩」と云うことがあった。氏神にも同様で、「二つ鴉(からす)」、「三つ狐」などと云われるのは、みな同じような前兆であった。

国の乱れ、謀反人、戦の勝ち負け、事のわけは同じである。病気のよしあしにも同じような前兆があった。これは事例によって覚え、伝えたのである。これらは往々において、今に至るも定っている。

 

屋敷の内に「十三の不思議」がある家とは、いったいどんな家なのだろうか。一見してこれは普通の郷主の屋敷描写ではないことがわかる。家の紹介をするとき、これほど神仏の配置を詳細に伝えることは、ふつう余り例が無い。この家は神仏に非常にかかわりのある家ということが感じられる。さらに不思議な記述が続く。

右の数々の奇態の事は秘めごとであるから此の文書では伝えないのである。ただ子孫の者が、先祖の人にのみ尋ねて、承知しているのである。この詳細のことを数人のほかに知らせば、おのずから国の取り合いとなるか、または内に謀反人がある時には、その人が敵となる。時としては、これらの輩がよく知っておれば、味方の崩潰となることがある。真に秘密どころは、いつも詳しく口上で相伝するのである。

 

この文はいったい何を言いたいのだろうか。国の取り合いになるような、あるいは味方の崩壊につながるような秘密とは一体何なのだろうか。異常な家のたたずまいと共に、その家の初代の主である信盛という人も、かなりの変人であったと思われる文章が次に続く。

 

ところで、家敷の内の傍を見るに、庵室を結んで、煙をぼうぼうと立てておられる人がある。これは松平の郷主かと察せられ、名をば末氏ノ尉信森(信盛)と申された。この人は右の井戸八幡の生れ変りと云われていた。

 

屋敷の主の名は「末氏ノ尉信森」であるとし、なぜか松平氏ではなく末氏と紹介される。しかもその御仁は「庵室を結んで、(その中で)煙をぼうぼうとたてておられる」のである。まさに異形の行者然とした姿を想像させる。

重要なのは、松平ではなく、初代が末氏ノ尉信森(信盛)と名乗っていたことである。同書の注釈によると、末氏とは末国造の末裔で、古代陶器を製造したことからおきた氏族。尾張・上総等に末の地名があるという。しかし信盛が松平で大規模に窯業を営んだ形跡は発見されていない。陶器に関係していたという伝承も無い。「松平氏由緒書」は、次に信盛の嫡男二代信重を語る。

 

さて信盛の嫡男として、男子が一人あった。右は本屋敷には住まわれずに、外屋敷と名付けられて、境の垣根一重外に、小庵を構えて住んでおられた。そして土地の名を用いて、松平太郎左衛門尉信茂(信重)と申された。信重と云う人も、役王行者(役小角)の生まれ変りと云われていた。

信盛が没せられると直ちに本屋敷へ入居せられたのである。

 

嫡男と言いながら本屋敷に住まず、垣の外に住んでおり、父が亡くなったら「直ちに」本屋敷へ入居したのは何故なのか。

信重は父「信森」と同様、役行者の化身といわれていたと紹介されている。「役行者(えんのぎょうじゃ)」は日本国中に伝説を残す呪術界のスーパーヒーロー、あるいは天狗として知られ、山岳密教の教祖と崇められている。松平初代信盛は末氏を名乗り、その嫡男は松平氏を名乗っている。この二人は本当の親子なのか。二人の代替わりに何があったのか。謎の多い文章が続く。

素直に読めば、元々末氏を名乗っていた信森という名の、まるで行者のような者が松平郷に住み着き、その子である信重は土地の名をとって松平を名乗ったと作者は言っているのである。

漂泊の時宗僧徳阿弥は、旅の途中でこのような異様な家に立ち止まった。一夜の宿を乞うつもりなら、このような家は避けるものであろうが、なぜか徳阿弥はこの家に入り込み、さらにはこの家の娘と結ばれるのである。徳阿弥には何か別の意図があったことを匂わせるような話の展開である。

次に徳阿弥と信重の出会いの場面が語られる。

 

或る時、雨降り続きの折とて、好都合とばかりに好みの人達が集って、右の神蔵六所明神の神前に於て、連歌の会を開いた。いろいろ準備を整えたが、書き役をする人がなく、あれこれと小半日言合っていて、始まりが延びていた。

丁度その時、ふと立寄ったように見受けられる旅人があらわれた。この人は連歌の作法に通じているようで、この座中を離れて見物しておられた。

この時に信重が尋ねられたのが、意味深いことであった。

「さてさてあなたさまは、どこからどちらへお出になられますか」と言われると、徳翁(親氏)は答えて、「凡そ我等と云いますのは東西南北を巡り廻る旅の者です」と申された。

 

この後太郎左衛門が徳阿弥に書き役を依頼し、謙遜しながらもこれを引き受けた徳阿弥の連歌の技量、人となりを信重が認め、徳阿弥は松平家に長逗留することになるのだが、せっかく山の中で連歌の会のような文化的な行事をしようとしたのだが、村人の中に字の書けるものが居らず、開会が小半日も伸びてしまったという部分に、まず読む人は微笑んでしまう。それは余談として、

信重が「さてさてあなたさまは、どこからどちらへお出になられますか」と尋ねると、徳翁(親氏)は「凡そ我等と云いますのは東西南北を巡り廻る旅の者です」と答えた。

旅の者と言って、旅の僧とは言っていない。この答え方から「三河松平一族(新人物往来者)」の著者平野明夫氏は、徳阿弥は僧ではなく流浪の職人のようなものではなかったかと推理された。当時遍歴する職人は珍しくなかった。職人は交通税を免除され、関所などの自由通行権なども特権としていた。

ただ松平家のような行者臭の満ち満ちた特異な家にかかわりを持とうということなら、職人というより僧侶の身分がふさわしい。もっとも僧侶といっても「徳阿弥」という名であったのなら、時宗では正式な僧侶ではない。時宗では正式な僧侶なら「徳阿弥陀仏」という名がつく決まりになっており、徳阿弥という名称は、正式な僧侶の身の回りの世話をする下男のような身分を指す。そういう身分で諸国を遍歴する者は、「願人坊主」などという蔑称で呼ばれ、信用が低かった。

したがって彼らの多くは、泊めてもらう交渉がし易いように、連歌の才などの芸や手工業の技などを身につけている者が多かった。いずれにせよ親氏は自称ながら、僧とも職人とも言えるような身分であったろう。

話を戻そう。松平家がなぜ裕福であったかという考証を進めてきたが、初代は庵室を結んで、煙をぼうぼうと立てていた井戸八幡の生れ変りと云われた変人で、二代目は役行者の化身、つまり天狗のような人だったという伝承が残る松平家は、どのようにして裕福な家になったのだろうか。この情景からは、とても国一番の金持ちの家とは思えない。

しかも二代目の信重は初代の信盛が死ぬまで家の垣の外の小庵で暮らし、初代が亡くなって初めて母屋に住むことができるようになったという。何か事情があったにせよ、この親子は少なくとも仲が悪く、協力して蓄財に励んだとも思えない。