長逗留している徳阿弥が、そろそろお暇いたしましょうと腰を上げかけると、太郎左衛門信重が引きとめ、二人の娘のうちの一人の婿になってほしいと徳阿弥に言った。
先ず先ずその日は暮れすぎて、翌々日も暮れはてて、ながながとうち過ごしてご逗留なされた。
春夏をば送られて、或る日おっしゃるには「さてさて此の年中は悠々とご危介になり、お恵みにあずかって恭けなく、一言御礼を申し上げます」と申されて、何処をお宿とも定めずにご出立なされるのを、信重はこれを止めておっしゃるには、「お恥しい話しですが、私の家の由来を委しくお話します。とくとお聞きください。先祖と云うのは在原の由来とも申します。また一つには紀州熊野の鈴木の系統とも申します。正直委しくは存じません。ですから今では、源家風情とも申したりしております」。
この物語に対して信武(親氏)は、「道理至極のことで、左様のお話を好ましく思います」と答えられた。
信重は先祖の由来を在原かもしれない。あるいは熊野の鈴木かもしれないと言っている。在原氏であったなら立派な貴姓である。熊野の鈴木氏であったのなら藤白から続く一応の由緒はあるが、熊野の御師、つまり熊野権現の札を配りながら諸国を遍歴していた熊野行者の裔である。その身分差は天と地ほどもある。
自分の先祖を在原と確信していたら、最初から鈴木かもしれないなどとは決して言わなかったはずである。さらに屋敷の状況、当主の風体から推察しても、松平氏は明らかに在原氏のような貴種の裔とは考えられない。つまり常識的には熊野の鈴木氏、熊野御師の出身と見るべきであろう。続けて信重は「今となっては元の由緒はわからないので、問われれば源家風情(源氏の縁戚かもしれない)などと申しております」と述べている。つまりこれは、信重の時代の松平家は少なくとも源氏ではないということを言っている。
さて、初代信盛が熊野の鈴木の出で、信重がその跡取りであったとするなら、国一番の裕福になった理由がなおさら解らなくなる。熊野の御師といえば聞こえはいいが、この時代この手の者は、世間であまり信用が無く、村に入ることすら警戒されたような存在だったからである。「松平氏由緒書」はさらに続く。
「よくよく話して聞かせましょう。私達は今迄男子を一人も持たず、女子ばかり二人あり、姉を海女と申します。末娘を水女と名付けました。はじめ海女をば当国の酒井(一説に幡豆郡吉良町)と申す田舎に縁があって、これに縁づきました。末の水女を未だ母諸共にかかえています。此の屋敷と云うのは、内の者が申すように、仏神がついておられる故に、二人の娘共も仏神がかわらせられたと存じます。右の水女と縁を結ばれて、ここに御逗留くださるように」と勧められた。「また他にもいわれがあります。此の屋敷は、誕生する者を百千代迄も十分豊かであるように、育てるだろうとの御託宣があります。よくお聞きになってください」。
それに就き、徳翁斉(親氏)は不審に思われたので、暫く思案なさって言われたのには、「さようであれば、お心に従うべきであるとは思いますが、迷う理由が一つあります。話して聞いてもらいましょう。ここから西南の八橋(碧海郡知立町)と申す村に、弟祐金斉(泰親)と申すものを留めておきました。これをお願い申します」と申されると、信重が答えられるには、「それはそれは猶更結構に思います。早々お連れなさい」と申された。信武(親氏)はそのまま「畏りました」と答え、間もなく松平へ連れて来られた。こうして右の水女との縁がきまったのである。
三河物語では、徳阿弥は松平郷へ来る前に酒井の娘と結ばれ、そこで一男をもうけたことになっているが、「松平氏由緒書」の伝えるところは、そうではない。二人姉妹の一方を酒井の嫁にやり、一方を徳阿弥に嫁したことになっている。
酒井家にしてみると、徳阿弥の実子を始祖とするのと、徳阿弥の嫁の姉が産んだ子を始祖とするのでは、徳川家臣として家格に相当の差が出来てしまうので、酒井家の家譜では徳阿弥の子としたかったのだろう。
と考えると徳阿弥が松平を訪れる前に一時酒井家に滞在して子を成したという伝承は、どうやら酒井家の創作かもしれない。徳阿弥の弟祐金斉(泰親)が、酒井家から来たと書かれず、八橋の村(現在の知立市)から松平郷に来たと記されていることがそれを物語っている。
その後徳翁(親氏)には御子が三人できた。二人は男子、一人は女子。こうしている間に、徳翁斉は俄に病気になられた。寿命に定めはなく、是非もなくお亡くなりになった。
その後は祐金斉(泰親)が二男信光の御名代として、壮年の頃三年半ほど徳翁のお屋敷を取り仕切りなされた、それにより徳翁と祐金とで二代と称している。それが過ぎて信光の御代になるのである。
総領の御子は、仕合をしていて片足の筋が引きつり跛となられたので、太郎左衛門尉信武(親氏)の跡目を宛てがわれて、松平の本屋敷に居住させられた。名字も皆々在所の地名をあてられた。
信光は松平村の郷式ノ城(松平城)へお直りになって、松平和泉守信光とお名乗りになった。
領地所は、信重と信武(親氏)両人としては売地である。加茂郡において九ケ村、額田郡にも六ケ村である。信光は間もなく額田郡の岩津村に居城を構えられて、三河国の四郡半程が従属した。御代のうちに、信光明寺(原文光明寺)を建立なさった。
ここで一度確認しておきたいが、信武の後に括弧書きで親氏と書いてあるのは、原書を訳された方の注釈である。「松平氏由緒書」の原書には、徳阿弥、親氏、泰親の名はまったく出てこない。あくまでも親氏のことは徳翁、あるいは信武と言い、泰親は祐金斉としか記されていない。
信武は男子二人、女子一人の子を成した後、俄かに亡くなったと松平氏由緒書は言う。長男は戦いで足が不自由になってしまったので本屋敷に入り、信武の跡目は次男の信光が相続した。これを祐金斉が三年半ほど信光の名代となって屋敷を取り仕切った。
長男は足が不自由になったので次男の信光が継いだものと判断できるが、本屋敷に入ったのが長男で信光は本屋敷の近くに郷敷城を構えて出て行ったのだから、この時信光は分家したと見るのが正しいのだろう。後年、分家の子孫のほうが大きくなってしまったから、本家はそれなりの処遇を受けたものの、あまりに少ない石高から「冷遇された」という見方もある。しかし幕末まで松平宗家の石高が四百四十石の小禄に据え置かれたのは、何か別の理由があったのかもしれない。
「松平氏由緒書」は、信光は松平村の郷式ノ城(松平城)へ入って松平和泉守信光と名乗った。その後間もなく額田郡岩津村に城を構えて移ったという。
領地については、加茂郡九ケ村、と額田郡六ケ村の領地所は信重と信武(親氏)両人が売地として手に入れたと明記され「三河物語」の、親氏が近隣を武力で切り従えたという説は、「松平氏由緒書」の中では完全に否定されている。
ここで注目したいのは、信光が郷敷城で領地を買収し、松平和泉守信光と名乗ったと言っている点で、これは従来の説と真っ向から対立する。
信武(親氏)が亡くなった後、信光は、岩津ではなく松平郷に居る間に周辺の領地を買収し、官位を手に入れたと「松平氏由緒書」は言っているのである。
これまでは平野部の豊かな場所にある岩津という城を手に入れたことが、信光躍進のきっかけになったと考えられてきた。
それに対し松平氏由緒書は、そうではない、山の中の松平郷に居る頃すでに領地の買収を行い、官位も手に入れたのだと言っているのである。
それも、曽祖父信森は三河に流れ着いた熊野の御師(かもしれない)、祖父信重は行者(のようなもの)、父徳翁は(間違いなく)由緒の定かでない流浪の願人坊主であったかもしれないという家に生まれながら、信光一代でそれだけのことを成し遂げたと「松平氏由緒書」は言っているようなものである。
まさに手品のような話しなのであるが、筆者の旺盛な探究心はこれを是非にも解明したいと思うのである。
松平氏由緒書の中では、信光に比べ信光の叔父、もしくは父とされる祐金斉の存在は希薄である。わずかに三年半ばかりの間、信光の面倒を見ただけの人物として描かれている。そればかりか徳阿弥に比す徳翁も子供を三人もうけたのち、若死にしてしまう人物として登場し、格別の働きをしていない。
あくまでも郷敷城に住み、領地を獲得し、岩津に進出して官位を取得した主人公は、信光なのである。続く文章では、松平氏がいかに裕福だったのかが語られている。作者は説明しているつもりであろうが、読むものはますます解らなくなってくるという、わけのわからない説明が続く。
信重の十二具足の事。一、鍬 一、鎌 一、もっこ 一、同棒 一、鋤 一、つるはし一、玄のう 一、金棒 一、鉞 一、てこ棒 一、尺杖 一、熊手以上であり、道橋を拵える道具である。
この人は高月院を見立られた人である。建立のことは信重・信武(親氏・原文信光は誤り)両人でなされ、其後のお取立も云々。
信光と申す人も紀州熊野権現さまの化身と云われた。化身の証拠の事。
熊野へ年詣にご参詣なされ云々。
ご参詣のお留守にお蔵が一つ焼け落ちた。
お帰りになると十層倍のお宝が湧き出た。
お屋敷内に焼跡が多い。
今でも古井戸が一つ在るのだが、此の井戸を掘ってみると、底からは焼銭、黒金など出るのである。
また屋敷内の奇態なことも云う。
一、四つの水 一、岩の汗流のこと 一、二つ鴉 一、社殿の震動 一、三つ狐 凡ての吉凶はこの五つの前兆にあらわれる。但しその時日が定っていることは決してないのである。
信武(親氏)の常に携行なさった二十四具の事。これは信重の十二道具の一倍増しで、人夫も二十四人である。信重の十二具に重ねて、二十四具足である。
一、こし桶 一、茶具 一、酒 一、肴 一、武具 一、馬具 一、家具 一、塩 一、そ(衣)一、兵糧米 一、火うち 一、つけ竹
右を信重の十二具足に合はせて、しめて二十四具足と云うのである。
これらは大慈悲のあらわれであって、鍛え凍えたる者共のお助けのためである。
右は十二運を表わすと云う。十二神を真似るとも云われている。二十四孝にも似ている。とにかく慈悲の行いを此の上もなく多くつみ、金銀米銭もお蔵に満ち満ちていた。
これが太郎左衛門(信重)、徳翁(親氏)、祐金(泰親)の三代のことである。
信重は十二の道具を持たせて道や橋を修理した。信武はさらに十二の道具を加え二十四の道具を小者に持たせて働いた。それらは別に特別な道具ではなく、信武のしていたことは、例えば金を掘って大金を得るような仕事にはつながらない。
金は、焼けた蔵から湧き出た。あるいは井戸の底に沈んでいたと、夢のような話で、あくまでも真実を伝えようとしない。
信光と申す人も紀州熊野権現さまの化身と云われた。化身の証拠の事。
熊野へ年詣にご参詣なされ云々。
ご参詣のお留守にお蔵が一つ焼け落ちた。
お帰りになると十層倍のお宝が湧き出た。
やがて三河守となる信光は岩津城主の息子として気品高く育てられたように思われているが、行者のような前半生であったらしい。さらに不思議なのは、一般に信光は岩津で生まれたと信じられているが、結構大きくなるまで(熊野へ参詣にいける年頃まで)松平郷に居たことになっていることである。しかも、太郎左衛門(信重)、徳翁(親氏)、祐金(泰親)の三代の間は、金銀米銭がお蔵に満ち満ちていたという。
次に重要な一文がある。
この人は高月院を見立られた人である。建立のことは信重・信武(親氏・原文信光は誤り)両人でなされ、其後のお取立も云々。
高月院を見立てた(建立した)人として原文では信重、信光と表記され、これを口語訳された方は、信光と書かれたのは間違いで信武だろうとわざわざ訂正されている。
これはどうだろうか。原作者がこの様な重要な部分で、少し読み返せばすぐわかるような間違いを犯すものだろうか。しかもこの後に
信光と申す人も紀州熊野権現さまの化身と云われた。化身の証拠の事。熊野へ年詣にご参詣なされ云々。という信光についての記述が続いている。
前後の文脈から考えると、これはやはり高月院は信重と信光が建てたと言っているのだと考えてよさそうである。訳者の「信光は岩津の人」という概念が支配して、そういう注記になったのだろう。
ここに高月院が出てきたことに注目したい。
松平氏の菩提寺高月院の前身は「寂静寺」といって元は足助氏の寺だった。創建は正平二十二年(一三六七)年、開山の見譽寛立上人は足助重宗の二男重政であった。松平郷は足助領内であったから、寛立上人はこの地に足助氏の菩提を弔う寺を建立したのだ。松平郷はこの時足助領内に存在していたという事実は極めて重要である。