この頃、松平郷を取り巻く状況を考えると、徳阿弥が松平郷に入り婿した時代、奥三河最大の実力者は足助氏の広大な領地をそっくり継承した足助の鈴木氏だった。この当時、鈴木氏と松平氏とでは大きな力の差があった。その後奥三河で山家三方衆という一揆を形成して世に知られる菅沼氏や奥平氏は、永享の乱が収束した一四四〇年頃は、まだ取るに足らない小さな勢力だった。つまり、徳阿弥が松平郷に現れた頃の奥三河は鈴木氏の一人天下の時代なのであった。松平郷はその鈴木氏の領内にあったことを忘れてはならない。
鈴木氏を語る前に、鈴木氏の前身の足助氏のことを少し説明する必要がある。
鎌倉から室町時代にかけ、奥三河、山岳地帯の、信濃の国境まで続く足助荘という広大な荘園を所有していたのは、尾張源氏山田氏の支流足助氏だった。清和源氏、源満政につながる足助氏は、血筋としては源頼朝の家に遜色ない家柄の山田氏から出ている。
山田重満の弟重長は、尾張国山田荘から足助の荘に来住して、加茂郡の郡名から加茂六郎重長を名乗り、その子の重秀からは足助氏を称するようになった。鎌倉時代、三河足助の足助氏は鎌倉御家人の中でも屈指の力を持っていた。
初代重長の妻は鎮西八郎源為朝の娘で、足助重長の娘は二代将軍頼家の室となり、公暁を生んでいる。二代重秀の妻は三河守護であった安達藤九郎盛長の娘で、当時の有力者と姻戚関係を結んでいる。このことは、足助氏が相当大きな勢力を持っていたことを想像させるものである。
足助氏は勤皇の志の強い家柄であった。「承久の乱」では、足助重成が後鳥羽方として戦い討死にした。また、元弘元年(一三三一)後醍醐天皇は笠置山に逃れたが、笠置山に最初に馳せつけ天皇に味方したのが、足助氏の惣領・足助次郎重範であった。重範は集まった武者三千余人の総大将をつとめた。しかしこの戦いで重範が敗死すると、次第に足助氏の勢力は弱まった。
南北朝時代には、足助一族は、重春が重範の子重政を助けて一族を統率していた。そして、後醍醐天皇の皇子、宗良親王を足助の荘に迎えようとしたが果たさず、興国四年(一三四三)重政が成人すると重春は足助を去り、安芸の国へ移住してしまった。このころから一族が各地へ離散していった。
血筋もさることながら、鎌倉幕府中央との深い関係を築くためには相応の財力、力をもたなければならない。奥三河という地域は、この足助氏の活躍を支えた力を育み提供したのである。この足助氏が去った後の広大な足助氏領を鈴木氏が継承した。
重直┬重満-重忠-重継-重親┬泰親
│ └親氏-頼重-頼範-重忠-重胤-貞幹-貞俊-貞詮
└重長【足助氏祖】-足助重秀
ちなみに、徳阿弥が信州林屋敷で出合った山田貞俊、貞詮父子の武節山田氏は、足助氏の本家筋に当る家である。
山田親氏の孫頼範の代に足助氏を頼り尾張から武節へ移住した。ところが頼範の孫重胤は、南朝後醍醐天皇の皇子宗良親皇に供奉し上州へ向かう際、柏坂の戦いで戦死してしまった。
名家の血筋がたえることを憂いた鈴木氏は、重胤の姉が鈴木政長に嫁ぎ生まれた貞幹を山田氏の養子とした。つまり武節山田氏は足助鈴木氏と親戚関係にあり、徳阿弥と出会った貞俊の父は鈴木氏の出だった。
貞俊は林藤助光政の娘を室にし、生まれたのが貞詮である。ということは林氏と武節山田氏、そして足助鈴木氏は、山田貞俊を仲にしてそれぞれ近い親戚関係にあった。流浪の時宗僧徳阿弥一族は、永享十二年、一四四〇年、信州林郷で一挙にこれらの奥三河一帯に強い勢力を持つ名家に知古を得たのである。ここから徳阿弥の躍進が始まった。これを伝承していた徳川家が正月の嘉儀として林家当主に一番杯を与える行事を残したと考えられる。