室町期の後半、仲間から「徳」と呼ばれている若者が居た。この若者には指導者としての統率力と、旺盛な上昇志向、行動力があった。しかも不思議な親しみやすさを備え、一度会ったものを即座に魅了してしまう天性の特技があった。

彼は親の代から商いの道に携わり、殊のほか聡明で、読み書き計算に長け、蓄財能力に優れていた。

 

永享八年(一四三六年)

鎌倉公方持氏は鎌倉時代に栄え、北条氏滅亡と共に荒廃していた鎌倉の主要港金沢六浦湊を修築し、六浦称名寺を再興した。持氏の狙いは六浦で行われていた塩田の再開で、全国から塩の生産・流通職人が六浦へ集められ鎌倉公方の製塩事業が始まったとき徳の集団もその中に居た。

一方林氏は甲斐武田家から分かれ南信濃地域に勢力を拡大し、飯田海道を下る三河・尾張の塩の流通に関与していた一族だった。信州小笠原氏は、鎌倉公方持氏の要請に応え小笠原清宗の二男林藤助光政を六浦へ派遣した。

 

持氏が再興した六浦の塩田事業

江戸湾を通じて関東地方中央部及び房総半島との交通の要所とされた六浦は天然の良港で、鎌倉の商業・交通の要としての地位を有していた。特に鎌倉や関東内陸部で使用する塩の集積地としても知られ、六浦・金沢には明治期まで塩田があった事でも知られている。この塩の流通を管理していたのが六浦称名寺で、第四代の関東公方足利持氏は、永享五年(一四三三年)三月から三ケ年の間、大道に関所を設け、称名寺の子院「常福寺」に管理させた。この関所は荒廃した「称名寺」の造営費を稼ぐためのもので、人馬の通行するたびに,人二文・馬三文を徴収したのだった。持氏はこれをもとに称名寺を再建し塩田事業を拡大した。徳の集団はどこからか現れて永享八年頃から持氏の滅ぶ永享十一年までここで働いた。

 

持氏の元で六浦の塩田開発と流通の再開に携わった林光政は、そこで「徳」という名の有能な若者を見出し目をかけた。

数年後、鎌倉公方持氏は自分を補佐する管領上杉憲実と対立するようになり、結果として将軍家に敵対した。小笠原氏は将軍方についたので、林光政は持氏側近の任を解かれ、本国信濃の林郷へ帰還した。

永享十一年反乱は失敗に終わり、持氏は幕府軍に捕らえられ自決したが幕府軍の中心となったのは駿河今川氏と信濃小笠原氏だった。

 

永享十一年(一四三九年)

主人の持氏が敗死し職を失った徳の一団は、六浦で目をかけてくれた林光政を頼ることにして徳と徳の父の二人で信州へ向かった。その際、関を通りやすいように、二人は藤澤寺で得度して時宗僧姿になり、それぞれ「徳阿弥」「長阿弥」と名乗った。

永享十一年の暮れ、食うや食わずでたどり着いた乞食坊主姿の二人を迎えた光政は、嫌な顔ひとつせず温かく二人を迎え、永享十二年(一四四〇年)の正月元旦、手ずからの兎汁で二人をもてなした。

ここで何日か過ごすうちに光政の娘婿である奥三河武節城主山田貞詮の元服の儀が行なわれることを知った徳阿弥は、光政に山田氏への取り成しを懇願した。山田一族は足助の鈴木氏と共に飯田街道の流通を独占していることを知っていたからだ。

 

嘉吉元年(一四四一年)

光政の要請に応じて林屋敷を訪れた山田貞俊と息子の貞詮は、そこで徳と出会い、若者の爽やかな弁舌と聡明さに魅了され、今度武節城を訪れたときは面倒を見ることを約束した。

強力な援助者を得た徳阿弥は仲間を誘って三河へ向かい、たまたま仲間の弟が大濱称名寺の住職をしていたので、しばらくそこに逗留した後、徳阿弥は武節城に向かい山田貞俊に面会し、仲間と共に何か仕事を与えてくれるよう依頼した。

山田貞俊は思案した後に、この若者を後継者が居なくて困っていた松平太郎左衛門家の娘の婿にしようと考えた。

松平家は貞俊の父の実家である鈴木氏の親戚(か家来筋)で、松平郷に居住し、九久平の流通を管理していた。鈴木氏と話をつけた山田貞俊は嘉吉元年、徳を連れ太郎左衛門家を訪れ徳と松平の娘を娶わせた。

 

嘉吉・文安年代(一四四一年から一四四八年の間)

太郎左衛門家は九久平で矢作川、巴川を遡上する船から揚陸される信州向けの海産物、特に当時高価だった塩に課税し、莫大な金を蔵に蓄えていた。徳阿弥は養子となり松平太郎左衛門信武と名乗りを変え、仲間を松平郷へ呼び寄せ、得意の流通業で存分に働き、さらに多くの金を蓄財した。

この金で近隣の土地を買いあさり、山の上に城砦を構え郷敷城と名付け土豪のまねごとを始めた。信武の上昇志向はとどまるところを知らず、山田貞俊に山田家の系図の支流に連なり武士になりたいと懇願し、それが許されたことにより尾張源氏山田氏の末裔という血筋を手に入れた。

そして彼はこの系図を基に、朝廷官位の取得という大望を抱いた。

普通なら到底許されない望みであったが、京の都で金貸しをさせ、日野家と関係を作っていた仲間の益親という者を通して金の力で朝廷に働きかけ、従五位下和泉守という官位を手に入れた。

尾張源氏嫡系当主の山田貞俊本人が松平太郎左衛門信武に同行して京の都へ上り、この若者の系図は間違いないと保証した上で日野家の筋をはじめ関係筋に大金を撒いたとすれば、可能性がある話である。

任官後信光は、益親の培った人脈と山田氏の援助を得て幕府中枢に権力を持っていた伊勢氏に接近し、幕府政所執事、伊勢貞親の被官になることに成功した。

この後松平氏は飛躍的な発展を遂げた。

 

こう考えると、以下の疑問が解決する。

○なぜ徳阿弥は鎌倉公方持氏に仕えたのか。

○徳阿弥と林光政の関係。

○松平氏と鈴木氏の関係。

○各地を放浪していた徳阿弥が松平氏に婿入りできた理由。

○松平氏が国一番の裕福だったと各書にある理由。

○次々に領地を買収するほどの大金を蓄財できた理由。

○創業譚に隣に居る大族鈴木氏の事がまったく出てこない理由。

○信光が高い官位を手に入れることが出来た理由。

○信光は官位取得のために、どのようして家系図を整えることが出来たのかという疑問。

○徳川家の正月元旦の嘉儀で林氏が一番杯を授かった理由。

信光は従五位下和泉守という正式な官位を取得して、幕府政所執事の被官になった。これが松平氏躍進の大きな原動力となったことは新編岡崎市史も認めるところである。

しかしそれまで諸国を流浪し出自の定かでないものが官位を取得することはきわめて難しい。婿入り先の松平家も胸をはれるような家歴をもっていなかった。信光にはそれなりの血筋、血統に連なる必要があった。そこで信光は信州林藤助光政の屋敷で出合った山田貞俊の系図を利用しようとしたのではないかと考えられる。信光は父の名を山田系図にある親氏とし、父の兄弟の名を泰親とした。父と叔父は故あって諸国を流浪したが自分は生まれながら松平郷郷敷城の城主であるとしたのである。

山田系図の中の誰かの兄弟につながる親氏泰親という兄弟を創作して自分はその親氏の子であるとした。これは偽系図つくりの常套で、系図にある昔の人物の名を採用するともっともらしく見えるのである。後年最初の申請を却下された家康の例が示すように、通常このようなことは通らないことであるが武節山田氏の当主が「相違無い」と認めたならば誰も疑問をさしはさむ余地の無いものになる。

親氏と泰親は信光の時代には実際には存在していなかった。だからいくら調べても彼らの経歴は何も残っていないのである。松平氏由緒書によると親氏は三人の子を成した後、早死にしたことになっている。泰親も信光を三年半ばかり助けたとしか伝わっていない。二人ともほとんど存在感が無いのである。

それでも徳阿弥という人物が信光とは別に確かに存在したのかどうかをもう少し検証する必要がある。徳阿弥の存在証明として良く引き合いに出されるのは、大般若経の奥書の件である。

朝野旧聞裒藁の親氏君御事蹟第二に載っている次の文を根拠としている。

 

応永二十七年十一月宮平村(三河加茂郡)八幡宮に大般若経をおさめ給う。

三州加茂郡宮平村八幡宮所蔵大般若経巻第一百九十初分難信解品奥書

三河國加茂郡足助庄奥下山郷

右神宮大般若経也

応永二十七年

十一月八日           徳阿弥

 

しかしこれには徳阿弥とあるだけで親氏とは書かれていない。時宗の阿弥号は、世阿弥、観阿弥のように一字を以って表す。誰もが良い字を使いたいから、善阿弥とか徳阿弥という名は特に多かった。徳阿弥は同時代に何人も居たのである。

これだけでは「どこかの」徳阿弥が経を納めた、ことしかうかがえないものだが、この文に尾張藩士天野信景が著書「塩尻」のなかで尾ひれをつけた。

曰く、松平親氏公は大般若経を書写して三州諸所の寺社に奉納した。

その奥書には新田左京亮親氏と書かれた。今現に直筆が残っていると信景は記しているが、大嘘である。新田に付会したのは家康以降のはずであるから、それよりずっと以前の応永二十七年の文書に「新田」という言葉が登場するはずがない。

さすがに朝野旧聞裒藁は天野信景のこの文に注釈をつけ、そういうもの(新田左京亮親氏と書かれた直筆)は、これまで見たことが無いと断じている。しかし世人は「塩尻」のこのくだりだけを見て親氏の実在を信じたのである。

わが国の史学に画期をもたらしたとされる信頼性の高い朝野旧聞裒藁はさすがに騙されなかったが、林述斉は親氏が永享年代の人であったことをかたくなに認めようとしない。これは、親氏が永享の人であると、家康の創った系図の年代が説明できなくなるという別の理由があった。これが松平氏創業研究に困難をもたらしている一因になっている。

述斎は寛政期、幕府による大規模な編纂事業が相次いだ際に編纂を主宰した中心人物である。したがって朝野旧聞裒藁をはじめ、御実紀、史料、寛政重修家譜、などは彼の考え方の影響下にある。

 

祐金の実在証明

 

結局これまで「徳阿弥・親氏」の確たる存在証明はこれまで発見されていない。

それでは祐金(泰親)はどうであろうか。

泰親の場合若一神社の棟札名にその名がある。

棟札に記された文は、

三河国額田郡岩津若一王子霊社一宇を造立し奉ります

時に応永三十三年丙午年一四二六年十二月十三日、

大檀那用金・大工家重

 

という簡素なものであった。

しかし現物は存在せず、それを写した板が残されている。

その板には若一神社禰宜の書き加えた造像銘もあった。

曰く

若一王子を造立して供養し奉ります

本地仏の十一面観音は迷界にある生きとし生けるものを救うために若一王子となって顕れるので、願主である松平太郎左衛門入道用金は子孫繁昌・心中所願成就円満のため若一王子像を造立します

応永三十四年(丁未年)卯月二十七日、沙弥用金敬って申します。当禰宜三郎太夫

 

この話の中で「現物は存在せず、それを写した板が残されている」という部分がいかにも怪しい。写しなら、何とでも書けるからである。

禰宜の書き加えた造像銘では大檀那用金という部分が松平太郎左衛門入道用金に意図的に変更されている。これはどう考えても神社の格を上げようとした禰宜三郎太夫の作り話だろう、

たまたま泰親の法名が「祐金」であることを知っていた禰宜が「大檀那用金」と書かれた、似たような名の棟札を発見し、実物は失くしたものとして新たな板をつくり、それらしく見せかけた可能性が高い。江戸時代、将軍家の先祖とこのような由緒があれば寺領獲得に大きく影響したからである。少なくとも本物が無いのだから否定も肯定もしようがないと言えよう。

岩津にたまたま大檀那用金という人物が居たのかもしれないが、その人物が親氏の子あるいは兄弟とされる(泰親)祐金であると想像したのは棟札を書き、所蔵していた当の禰宜なのである。

実際、朝野旧聞裒藁には泰親の事蹟とされる事柄がこれ以外にも数多く載っているが、歴史家の考証で、そのどれもが信頼のおける存在証明にはなっていないとされている。筆者にはこの棟札がそれらの記録や伝承と比べ特に確実性の高い物証とも思えない。

しかしこの棟札に対し新行紀一氏は、この発見により神話の向こうにいた親氏・泰親を歴史的事実として浮かび上がらせたと高く評価されておられる。応永三三年ならば応永一二年に鎌倉公方に就任した持氏がまだ健在で、親氏が鎌倉を離れたのは持氏が滅ぶ永享十一年以降の事だから、まだ親氏も泰親も三河に居るはずがないことになる。

嘉吉元年に武節城城主山田貞俊に出合った後に山田氏の兄弟の名を借用して徳阿弥、祐金がそれぞれ親氏、泰親と名乗ったことが否定しようのない事実としたら、親氏の大般若経の奥書と、泰親の若一神社の棟札は、二人の事蹟として成立しないことになる。

もうひとつ泰親には、勅勘を蒙って三河に流された公家が許されて今日の都へ帰るところに、選ばれて某大臣の先導を泰親が行ったという記述が三河記、御年譜附尾、関野済安聞書、武徳大成記、酒井本三河記、三河記大全、三河榮秀記、御先祖記、御当家御代々記、塩尻、三州八代記古伝集、浪合記、松原大譜系、三河記摘要、三家考などに記されている。

このうち浪合記、松原大譜系、三河記摘要、三家考には、永享のころ洞院大納言實煕卿と実名が入っている。

これに対し朝野旧聞裒藁は洞院大納言實煕卿の公家補任の記録などから年代が合わないと否定的である。

結局、親氏の奥書も泰親の棟札も存在証明になっていないことになる。