信光は従五位下和泉守という正式な官位を取得して、幕府政所執事の被官になった。これが松平氏躍進の大きな原動力となったことは新編岡崎市史も認めるところである。
しかしそれまで諸国を流浪し出自の定かでないものが官位を取得することはきわめて難しい。婿入り先の松平家も胸をはれるような家歴をもっていなかった。信光にはそれなりの血筋、血統に連なる必要があった。そこで信光は信州林藤助光政の屋敷で出合った山田貞俊の系図を利用しようとしたのではないかと考えられる。信光は父の名を山田系図にある親氏とし、父の兄弟の名を泰親とした。父と叔父は故あって諸国を流浪したが自分は生まれながら松平郷郷敷城の城主であるとしたのである。
山田系図の中の誰かの兄弟につながる親氏泰親という兄弟を創作して自分はその親氏の子であるとした。これは偽系図つくりの常套で、系図にある昔の人物の名を採用するともっともらしく見えるのである。後年最初の申請を却下された家康の例が示すように、通常このようなことは通らないことであるが武節山田氏の当主が「相違無い」と認めたならば誰も疑問をさしはさむ余地の無いものになる。
親氏と泰親は信光の時代には実際には存在していなかった。だからいくら調べても彼らの経歴は何も残っていないのである。松平氏由緒書によると親氏は三人の子を成した後、早死にしたことになっている。泰親も信光を三年半ばかり助けたとしか伝わっていない。二人ともほとんど存在感が無いのである。