それでも徳阿弥という人物が信光とは別に確かに存在したのかどうかをもう少し検証する必要がある。徳阿弥の存在証明として良く引き合いに出されるのは、大般若経の奥書の件である。

朝野旧聞裒藁の親氏君御事蹟第二に載っている次の文を根拠としている。

 

応永二十七年十一月宮平村(三河加茂郡)八幡宮に大般若経をおさめ給う。

三州加茂郡宮平村八幡宮所蔵大般若経巻第一百九十初分難信解品奥書

三河國加茂郡足助庄奥下山郷

右神宮大般若経也

応永二十七年

十一月八日           徳阿弥

 

しかしこれには徳阿弥とあるだけで親氏とは書かれていない。時宗の阿弥号は、世阿弥、観阿弥のように一字を以って表す。誰もが良い字を使いたいから、善阿弥とか徳阿弥という名は特に多かった。徳阿弥は同時代に何人も居たのである。

これだけでは「どこかの」徳阿弥が経を納めた、ことしかうかがえないものだが、この文に尾張藩士天野信景が著書「塩尻」のなかで尾ひれをつけた。

曰く、松平親氏公は大般若経を書写して三州諸所の寺社に奉納した。

その奥書には新田左京亮親氏と書かれた。今現に直筆が残っていると信景は記しているが、大嘘である。新田に付会したのは家康以降のはずであるから、それよりずっと以前の応永二十七年の文書に「新田」という言葉が登場するはずがない。

さすがに朝野旧聞裒藁は天野信景のこの文に注釈をつけ、そういうもの(新田左京亮親氏と書かれた直筆)は、これまで見たことが無いと断じている。しかし世人は「塩尻」のこのくだりだけを見て親氏の実在を信じたのである。

わが国の史学に画期をもたらしたとされる信頼性の高い朝野旧聞裒藁はさすがに騙されなかったが、林述斉は親氏が永享年代の人であったことをかたくなに認めようとしない。これは、親氏が永享の人であると、家康の創った系図の年代が説明できなくなるという別の理由があった。これが松平氏創業研究に困難をもたらしている一因になっている。

述斎は寛政期、幕府による大規模な編纂事業が相次いだ際に編纂を主宰した中心人物である。したがって朝野旧聞裒藁をはじめ、御実紀、史料、寛政重修家譜、などは彼の考え方の影響下にある。

 

祐金の実在証明

 

結局これまで「徳阿弥・親氏」の確たる存在証明はこれまで発見されていない。

それでは祐金(泰親)はどうであろうか。

泰親の場合若一神社の棟札名にその名がある。

棟札に記された文は、

三河国額田郡岩津若一王子霊社一宇を造立し奉ります

時に応永三十三年丙午年一四二六年十二月十三日、

大檀那用金・大工家重

 

という簡素なものであった。

しかし現物は存在せず、それを写した板が残されている。

その板には若一神社禰宜の書き加えた造像銘もあった。

曰く

若一王子を造立して供養し奉ります

本地仏の十一面観音は迷界にある生きとし生けるものを救うために若一王子となって顕れるので、願主である松平太郎左衛門入道用金は子孫繁昌・心中所願成就円満のため若一王子像を造立します

応永三十四年(丁未年)卯月二十七日、沙弥用金敬って申します。当禰宜三郎太夫

 

この話の中で「現物は存在せず、それを写した板が残されている」という部分がいかにも怪しい。写しなら、何とでも書けるからである。

禰宜の書き加えた造像銘では大檀那用金という部分が松平太郎左衛門入道用金に意図的に変更されている。これはどう考えても神社の格を上げようとした禰宜三郎太夫の作り話だろう、

たまたま泰親の法名が「祐金」であることを知っていた禰宜が「大檀那用金」と書かれた、似たような名の棟札を発見し、実物は失くしたものとして新たな板をつくり、それらしく見せかけた可能性が高い。江戸時代、将軍家の先祖とこのような由緒があれば寺領獲得に大きく影響したからである。少なくとも本物が無いのだから否定も肯定もしようがないと言えよう。

岩津にたまたま大檀那用金という人物が居たのかもしれないが、その人物が親氏の子あるいは兄弟とされる(泰親)祐金であると想像したのは棟札を書き、所蔵していた当の禰宜なのである。

実際、朝野旧聞裒藁には泰親の事蹟とされる事柄がこれ以外にも数多く載っているが、歴史家の考証で、そのどれもが信頼のおける存在証明にはなっていないとされている。筆者にはこの棟札がそれらの記録や伝承と比べ特に確実性の高い物証とも思えない。

しかしこの棟札に対し新行紀一氏は、この発見により神話の向こうにいた親氏・泰親を歴史的事実として浮かび上がらせたと高く評価されておられる。応永三三年ならば応永一二年に鎌倉公方に就任した持氏がまだ健在で、親氏が鎌倉を離れたのは持氏が滅ぶ永享十一年以降の事だから、まだ親氏も泰親も三河に居るはずがないことになる。

嘉吉元年に武節城城主山田貞俊に出合った後に山田氏の兄弟の名を借用して徳阿弥、祐金がそれぞれ親氏、泰親と名乗ったことが否定しようのない事実としたら、親氏の大般若経の奥書と、泰親の若一神社の棟札は、二人の事蹟として成立しないことになる。

もうひとつ泰親には、勅勘を蒙って三河に流された公家が許されて今日の都へ帰るところに、選ばれて某大臣の先導を泰親が行ったという記述が三河記、御年譜附尾、関野済安聞書、武徳大成記、酒井本三河記、三河記大全、三河榮秀記、御先祖記、御当家御代々記、塩尻、三州八代記古伝集、浪合記、松原大譜系、三河記摘要、三家考などに記されている。

このうち浪合記、松原大譜系、三河記摘要、三家考には、永享のころ洞院大納言實煕卿と実名が入っている。

これに対し朝野旧聞裒藁は洞院大納言實煕卿の公家補任の記録などから年代が合わないと否定的である。

結局、親氏の奥書も泰親の棟札も存在証明になっていないことになる。