永享十二年(一四四〇年)に、林氏の隠棲先で献兎賜杯の故事が生まれ、その翌年松平太郎左衛門家に婿入りしたとすると、その頃徳阿弥の年齢は二十歳から三十歳の間と考えるのが妥当だろう。

献兎賜杯の話は永享の乱とセットになっている関係で、永享十二年(一四四〇年)の出来事であったということは動かせない。

ところが親氏の子とされている三代信光が生まれたのは一四一三年頃と言われているから、献兎賜杯の頃には二十七歳になっていることになる。そうすると徳阿弥は松平郷に現れたとき五十過ぎの当時としてはすでに老人で、三十近い子連れだったことなる。

これを認めてしまうとどうしても系図がつながらないので徳川家は徳阿弥が松平郷へ現れた時期を永享の乱より三十年以上前に設定した。そして信光は徳阿弥の婿入り後に松平郷で生まれた事にしたのである。それだと徳阿弥と信光の年齢の説明はつくが、

今度は徳川家編纂史書にある

 

新田一族の徳川親氏は永享の乱で敗者の持氏に加担し、追及の手を逃れるために得度して僧形となり徳阿弥と号した

 

という記述が成り立たなくなってしまう。もちろん優秀な学者の揃っていた史書編纂作業であったから、このことは誰もが気がついていたと思うのだが、家康が作った系図が災いして、どうしてもこの部分が訂正できず残ってしまった。徳阿弥の事蹟が曖昧模糊としている理由の一つはこの年代問題にあったのだ。

 

信光は生年、没年がほぼ判明しているが、実は比較的明確といわれている信光の生まれた年にも、三説ある。

(一の説) 応永二十年一四一三年生れ

長享二年亡 享年七十六歳説

(二の説) 応永十一年一四〇四年生れ

長享二年亡 享年八十五歳説

(三の説) 応永八年 一四〇一年生れ

長享三年亡 享年八十九歳説  

 

第一の説をとってみると、一四四一年(嘉吉元年)に、信光は二十八歳。

第二の説では三十七歳。

第三説は四十歳となる。

どの年に生まれても一四四一年に松平郷で子を成すことは可能であろう。

 

嘉吉元年に婿入りした親氏が青年であったなら、比較的生没年が判明している信光と年齢が重なってしまう。つまり、徳阿弥(親氏)と信光は、同じ時代に生きていたことになる。となると徳阿弥と信光は同世代に生きた同一人物ではなかったかという考え方が出てくる。確かにそう考えれば今まで解決できなかった多くが解決される。

徳阿弥と信光が同一人物だったとしたら?という仮定の下に松平創業期の物語を再構築すると以下のようになる。