三河の山の中には尾張三河と信州、甲州、関東を結ぶ大動脈である飯田街道が通っている。東海道に対し中山道が第二東海道とも呼ぶべき公道だが、飯田街道はちょうど東海道と中山道の間を縫って尾張三河と信州、関東を結ぶ道である。

公道は安全であるが多数の関所があり、手続きが煩雑で、商いの荷物を運ぶには適さない。したがって飯田街道は商いの道として大いに栄えた時期があった。足助は飯田街道の重要拠点に位置し、ここに居を構えた足助氏、鈴木氏は通行の商品に税をかけ、街道から上がる莫大な通行税を手にしていた。

さらに足助は水運の最終揚陸地に近く、舟で運ばれた荷物の終結地でもあった。三河の国には矢作川という河川交通の大動脈が走っている。舟は馬や馬車の数倍の荷を積むことが出来、費用も馬に比べ四分の一で済む。舟運は中世の主要な輸送手段だった。

三河湾で採れた海産物や塩は、矢作川舟運によって足助に集められ、海の無い信州、甲州へ運ばれた。

矢作川を遡上した舟は、岡崎の先で支流の巴川に入り、足助の手前にある九久平という川湊(土場)で舟から下ろされ、馬の背に積まれて陸路を足助に向かう。九久平は川湊として大いに賑わい、この地の領主に莫大な川湊税がもたらされた。この金の成る木の九久平は、実は松平領にあったのだ。松平氏は鈴木氏と深い関係があり、松平領に定着することを許された。あわせて九久平の川湊税徴収業務を任されていたものと考えられる。

そう考えると松平氏が徳阿弥の入り婿以前に裕福な家だったことが説明できる。九久平は、海のない国、信濃や甲斐に向う三河の海産物や塩が矢作川の川舟にのって遡上し、荷物が下ろされるところである。

三河の海産物の中で当時最も収益率が高かったのは「塩」である。三河の塩の浜値は一升二文にも満たなかったが、山国へ運ばれるとこれが一升百文にも売れた。慶長期、信濃・甲斐の人口は四十万人にも達し、現在の金額に換算して年間数百億円もの塩が消費されていた。当時の塩を運ぶ馬は、一頭で七貫目の塩四袋(約百五キログラム)を馬の背に振り分けにして運んだというから、甲斐・信濃四十万人の住人が消費した年間二千六百二十八トンもの塩は、延べ二万五千頭という、大変な数の馬で運ばれていたことになる。

鎌倉時代から南北朝時代にかけ、足助氏はこの塩などの荷に税を掛け莫大な資力を手にして威勢を張った。当時足助には塩蔵が立ち並び、足助塩の名で全国に知られていた。それを継承した鈴木氏も当然信濃・甲斐向けの塩で潤った。

もちろん、国一番の金持ちは足助の鈴木氏であったが、その一族(か、もしくは家臣)の松平氏もかなりの金持ちであったと考えても間違いはないであろう。

徳阿弥が信州林屋敷で知り合った鈴木一族の山田貞俊もまた足助と信州を結ぶ中間点の要衝武節で塩税を徴収していた。そして山田氏と縁故を結んだ小笠原一族林氏も、信濃南部を勢力下におき、飯田街道を通過する塩の荷に課税していた一族だった。