5月28日(土)は神奈川県小田原城で日本城郭史学会主催の見学会がありました。小田原城は本丸跡に復興天守があり、小田原を代表する観光名所です。天守に目が行きがちですが、土塁や空堀もよく残っています。今日は小田原城大外郭(総構)の土塁空堀を見学します。今回は城郭史学会会員の岩本誠城さんが案内してくれました。

 

小峰御鐘ノ台大堀切
 

 当日は小田原駅に集合でした。今回の見学会は49人の参加者でした。岩本さんから今回の見学会のコース、概要の説明がありました。

 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めでは守る後北条氏は全長9キロに及ぶ総構を築いて豊臣方を迎え撃ちました。小田原城を中心とした小田原の街を総構で囲って3ヶ月籠城戦を繰り広げました。総構は空堀、土塁から成り立ち、今でも市内各所に残っています。報告書等の文章には「惣構」と記されていますが、最近のパンフレット等には「総構」と表記されるのが一般的です。

 

集合場所の小田原駅

 

 最初に小田原駅隣にある商業施設のミナカ小田原に行きます。2020年に開業した飲食店、店舗、図書館、公共施設、ホテル、温泉の複合型商業施設です。城見学なのになぜ商業施設に行くのか最初は訝しく思いましたが、その理由に展望台に着いたら納得しました。

 

小田原城と笠懸山(一夜城)

 

 ミナカ小田原の14階には無料の展望台があります。ここからは小田原城と笠懸山(一夜城)が一望できます。東曲輪と現在の小田原城天守の本丸の間に東海道線が通っていますが、鉄道建設で曲輪を削っています。この展望台からは東郭もよく見えます。小田原高校周辺が西曲輪で東曲輪と共に江戸時代より前の旧城の主郭であったといわれています。

 

ミナカ小田原14階より

 

 次に八幡山古郭東郭に向かいます。

当初はここにマンション建設計画がありましたが、撤回されて公園になりました。ここは6万年前の箱根火砕流が固まった丘陵です。崩れにくいので東曲輪のすぐそばに家があっても大丈夫である。八幡山、天神山、谷津の3つの丘陵を利用して小田原城の外郭が形成されています。3つの丘陵の分岐点にあるのが小峰山です。

 外郭は山側の遺構が比較的よく残っています。海側は市街地になっているのでごく一部が残るだけです。総構は土塁、空堀で堀は堀障子のある畝堀、土塁は堀を掘った時の土を利用して掻揚土塁である。
 東曲輪は発掘調査が行われ、竪穴式住居、半地下式建物、縄文時代の遺構が発見されています。15世紀末の大森氏時代は東曲輪が小田原城主郭で、その後はここから東に小田原城は拡張されたといわれています。

 

古郭東曲輪

 

 

清閑亭入口

 

 次に清閑亭に向かいます。ここは黒田官兵衛、長政父子の子孫である福岡藩の黒田長成侯爵の別亭です。今年3月で耐震問題で閉館されました。土塁上に数奇屋書院造りの建物が建てられて、敷地からは相模湾を見渡せました。

 

清閑亭内の様子

 

 次は天神山回遊路を通って、新堀外郭土塁を目指します。

 

天神山回遊路

 

 天神山回遊路は大学の敷地の一画を利用した遊歩道です。遊歩道はちょうど新堀外郭土塁を通っています。最近整備された遊歩道で、この遊歩道のおかげで総構見学がしやすくなりました。

 

天神山回遊路2

 

 さらに進むと短大の敷地内に三の丸土塁があります。土塁の裏側にアンマ池があります。今でも水は湧き出て池に水を注いでいます。水は枯れることはなく、ここに水堀があったかもしれない伝承があります。

 

三の丸新堀外郭土塁

 

 アンマ池は大学の敷地内にありますが、外からでも池は分かりました。案内は何もないので意識しないと見落とすかもしれません。

 

アンマ池

 

 次に三の丸新堀外郭土塁に向かいます。昭和35年(1960)にMRAハウスのアジアセンターがここに建てられました。MRAとは「日本とアジアの未来」に貢献する一般財団法人です。当時は一般市民は立ち入り禁止でした。平成20年に返還されて整備化されて今に至っています。敷地内に大きな穴があり城郭遺構にも見えますが、MRAの建物跡であり紛らわしいです。

 

三の丸外郭新堀土塁

 

三の丸外郭新堀土塁2

 

三の丸外郭新堀土塁3

 

 三の丸外郭新堀土塁のすぐ下に家が建ち並んでいます。ここは堀跡でした。小田原は空堀跡に家が建つことが多いです。

 

三の丸外郭新堀跡

 

 三の丸外郭新堀土塁の次は小峰山鐘ノ台大堀切を目指します。新堀土塁を出たら大堀切はすぐそばにありました。岩本さんの地元ならではの話を聞きながら大堀切の堀底を歩きます。

 

小峰御鐘ノ台大堀切を進む

 

 住宅地から離れたこの周辺は空堀、土塁がよく残っています。破壊改変された箇所が多少ありますが、当時の堀や土塁の形状や雰囲気をよく残しています。今回の見学会の見所の一つでした。

 

大堀切西側

 

 土塁の上にさらに土塁を築く二重土塁がありました。

 

二重土塁

 

 総構の最西端である水之尾台を目指します。水之尾台には櫓台があり鉄塔周辺だといわれています。ここからは見晴らしがよくて東側がよく見えました。

 

水之尾口櫓台周辺からの眺め

 

 次に稲荷森を目指します。稲荷森は孟宗竹の竹林ですが空堀、土塁がよく残っています。

 

稲荷森

 

 稲荷森の空堀は以前は堀底に降りれましたが今は降りれません。今回は上から堀跡を眺めました。堀跡がよく残っているのが分かりました。堀の上部にも掻揚土塁が残っていますが、岩本さんの説明がなければ見落としそうでした。掻揚土塁は土を盛って築いた土塁です。

 

稲荷森の空堀と掻揚土塁

 

谷津丘陵堀切

 

 百姓曲輪跡を経由して城下張出を目指します。

百姓曲輪は古図にも百姓曲輪と記されていますが、謎の曲輪です。畑仕事の人を集めた曲輪ではないかといわれています。曲輪跡には説明は何もありませんでした。

 

城下張出

 

 城下張出は北側に突出した正方形の形に近い曲輪です。突出しているので攻めてくる敵に対して横矢を浴びせられますが、攻撃目標にもなりやすそうです。張出の外側三方向は堀で囲まれています。

 

城下張出と堀跡

 

城下張出と久野口の間の堀跡

 

 今回の見学会最後の目的地である岩槻(岩付)台を目指します。岩付台は北条氏政四男の氏房が布陣したといわれる曲輪です。
岩付太田氏の当主太田氏資が上総三船山合戦で討ち死にして、氏房は岩付太田氏の名跡を乗っ取る形で養子となりました。
岩付太田氏は太田道灌の末裔であります。天正18年の秀吉の小田原攻めでは太田氏房が岩付からの兵を率いて事から岩付台と呼ばれました。以前はここに岩付台と書かれた立て札がありましたが今は何もありません。ちなみに今では岩槻と表記されますが当時は岩付と表記されています。

 

岩槻台

 

 岩槻台で今回の見学会は終了です。当初の予定より1時間かけての総構の見学会でした。それだけ見所が多かった見学会でした。今回の見学会は東海道線の西側の総構を見学しました。東側の総構を見学すれば総構を一周したことになります。第2回の総構見学会があるかどうか気になりました。