6月24日(土)は神奈川県鎌倉市の玉縄城の見学会がありました。日本城郭史学会主催の見学会です。
今回の見学会は史学会委員の大竹正芳さんが案内してくれました。玉縄城の主要部分は清泉女学院になっていて、なかなか見学できない城です。
玉縄城復原図(大竹正芳画)
当日は最寄り駅の大船駅に集合です。今回の見学会は見学しにくい城という事もあり、前日当日キャンセルの人もいましたが48名が参加されました。人数が多いので二組に分かれて清泉女学院行路線バスで移動します。バス停を降りればそこは既に玉縄城内でした。
先行組と合流
先行組と合流して見学会は始まりました。今回の見学会の概要を説明してから、遺構のよく残る諏訪壇を目指します。
玉縄城入口
本丸北東側は現在は花壇ですが当時は空堀がありました。この堀は北側にも続き、北側は一部水堀になっていました。水堀の名残で今でも池が残っています。玉縄城は山城ながら地下水脈が豊富な城でした。
水堀跡(現在は池)
諏訪壇には玉縄城の守り神の諏訪社がありました。見た感じでは遺構がよく残っているように見えますが、実際には重機が入って遺構は少し改変されています。今は平坦な場所ですが、当時はもう少し起伏がありました、諏訪壇は本丸より20Mほど高いです。
諏訪壇埋め門跡
諏訪壇を通り本丸南側に行きました。本丸は現在学校の敷地で校舎が建てられています。大幅に改変されていますが、本丸の広さを活かして校舎が建てられています。本丸の大きさは今でも分かります。
本丸南端
本丸南側から一段低い場所にある二ノ丸相当の御厩曲輪がありますが、現在は住宅地でほとんど遺構は残っていません。ここからは太鼓櫓跡も見えます。周りより一段高い場所で今も一軒家が建っています。櫓跡は実際はもう少し高く一階屋根部分までの高さでした。住宅建設時に地形が少し削られています。
太鼓櫓跡と御厩曲輪跡
本丸内
城内を歩く
次は蹴鞠場を目指します。相模風土記に蹴鞠場の記述があり、蹴鞠場東側には土塁があり、その下には空堀があります。きれいに整備されているわけではないですが遺構はよく分かりました。
蹴鞠場跡
乗ってきたバスのバス停の背後に出ました。この辺も東側の曲輪でした。ここから城の北側のお花畑という名前の曲輪が見えます。現在は校舎の裏側にあり森になっていて、見学はできません。当時は薬園がありお花畑と名付けられたではとの事でした。お花畑には堀切が残り、遠いがここから見えました。
案内人に説明がなければお花畑も堀切も見逃していたでしょう。
お花畑遠景
お花畑堀切
次に三角平場に行きました。途中は少し藪でした。三角平場は正式な名称ではなく、三角形の形の曲輪なので便宜上三角平場と名付けたとの事です。ここは登城路の七曲坂の上部にあり、見下ろす事ができました。七曲坂の監視警固のための曲輪だったと思われます。
三角平場
堀底を歩く
学校入口に巨石があり、この石が唯一城内から発見された石です。何も案内がないので説明がなければ分からなかったでしょう。これで清泉女学院を出ました。
学校入口にある巨石
城の南東側の斜面を削ってマンションが建てられて隣に小さな公園があります。マンションは城の遺構を含めた斜面を削られて造られました。公園には建設前の地形の模型があります。何も説明がないので何の模型か分かりにくかったです。
玉縄城東側
入口に立派な冠木門がある植木小学校を通りました。この小学校の建設時に発掘調査が行われて屋敷跡の遺構が確認されました。
小学校のすぐ南側に今でも諏訪神社があります。この諏訪神社は江戸時代初期に玉縄城が廃城となったときに地元の村人が城内の諏訪壇にあった諏訪社をこちらに移して今に至っています。
植木小学校前
その後は龍宝寺を目指します。今回は参加者が多かったので境内にある玉縄歴史館と旧石井家住宅に分かれて昼食休憩を取りました。
休憩後は玉縄歴史館、龍宝寺を見学しました。玉縄歴史館は玉縄城のジオラマ模型や昭和30年前後の学校が入る前の城の旧状がよくわかる写真や出土品や資料を展示しています。2階には、江戸時代以降に玉縄地域の農民たちが使用していた農機具が展示されています。
玉縄歴史館
龍宝寺は玉縄六代城主の北条氏勝が四代城主氏繁を弔うため香華院を現在の地に移し、大応寺として建立しました。玉縄北条氏の菩提寺として栄えます。龍宝寺と名前を変えて現在まで続いています。
龍宝寺前
旧石井家住宅は建築年代は17世紀末ごろといわれて、国の重要文化財に指定されています。石井家は戦国時代の玉縄周辺の地侍で、江戸時代には名主を務めました。
石井家住宅
七曲坂は周辺に北条綱成の奥方の七曲方の屋敷があった伝承から七曲坂と呼ばれるようになりました。実際に発掘調査で溝や屋敷に付随する小さな建物跡が発見されています。
七曲坂(前半部分)
七曲坂は今でも生活道路として利用されています。途中までは当時と同じ道順でしたが、後半部分は現在の道順とは違い左に曲がり、城内につながっていました。
七曲坂(後半部分、当時の道ではない)
煙硝倉跡
清泉女学院の南側には当時は大手門がありました。今は遺構はほとんど残っていません。
大手門跡
円光寺曲輪
大船駅に移動して、駅周辺の玉縄城関連の遺構を見学して、今回の見学会は終了です。
前日は悪天候でしたが、梅雨のこの時期に天気に恵まれました。少し蒸し暑かったですが、この時期では過ごしやすかったと思います。
見学会途中では「玉縄城址町づくり会議」の方々のご協力をいただき、ありがとうございました。
なかなか見学できない玉縄城に入れて、玉縄城に熟知した大竹さんの解説、午前から夕方までじっくり玉縄城を見学できた、内容の濃い見学会でした。