津久井城見学会の様子は一回でまとめる予定でしたが、写真が多かったので二回に分ける事にしました。後半が始まります。

 

家老屋敷の石積み

 

 大手道を何とか登って、山頂の城域に着きました。山頂の本城曲輪の一段低い場所にある米曲輪でしばし休憩です。

 

米曲輪

 

 米曲輪の斜面には畝状竪堀群があるが、近くにいって見学するのは大変との事でした。それでも見学したい人はどうぞという事なので、半分ほどの人が竪堀を見るために斜面を降りていきました。道が全くなくて降りれそうな場所を探しながら何とか堀跡に着きました。

 

畝状竪堀群を求めて

 

 写真だと分かりにくいですが、現地だと何本かの竪堀がはっきりと分かりました。説明板や案内板は一切ないので知っている人の案内がなければ竪堀まで行くのは難しいです。

 

津久井城畝状竪堀群

 

 道がない斜面を降り、畝状竪堀群を見た人達は皆一応に満足された事でしょう。行きの下りも、帰りの登りも大変でしたが、見学した人達は何とか無事に帰ってきました。

 

畝状竪堀群を見学中

 

 津久井城の見所の一つである畝状竪堀を見学したら、米曲輪内の見晴らしがいい場所に移ります。

 

米曲輪からの眺め

 

 米曲輪からは北側方面がよく見えて、津久井湖越しに高尾山、八王子城方面が見えます。直線距離で高尾山まで5.5キロ、八王子城まで8キロと意外と近いです。天正18年(1590)に八王子城が落城して黒煙があがる様子は津久井城からはっきり見えた事でしょう。

 

米曲輪からの眺め2

 

 米曲輪を見学したら山頂の本城曲輪に行きました。本城曲輪は鉄塔が以前建てられていて、そのため発掘調査をしても詳細は分からなかったそうです。曲輪の東側に虎口があり、門跡に礎石建物があったとの事でした。

 

本城曲輪にて

 

土蔵曲輪の倉跡

 

 本城曲輪群を東側から出て、途中にある堀切を横切り、家老屋敷を目指します。

 

堀切を縦断中

 

 家老屋敷には石積みが残っています。八王子城や太田金山城の石積みに似た積み方です。曲輪の下側の斜面に残っているので分かりにくいですが、石積みを見るために斜面を降りる人が多かったです。

 

家老屋敷にて

 

 家老屋敷見学後は飯綱曲輪群を目指します。

 

飯綱曲輪に向かう

 

 飯綱曲輪群の中心に飯綱神社があります。飯綱権現は長野県の飯綱山に対する山岳信仰を発祥としています。関東では高尾山が飯綱権現の総本山になります。津久井城にある飯綱神社は高尾山から分祀したものです。飯綱権現は不動明王の化身みたいに思われて、戦国時代に人気がありました。

 

飯綱神社

 

 飯綱曲輪群の奥に行けば相模原市や東京、横浜方面が見渡せるミハラシがありました。

 

飯綱曲輪群ミハラシからの眺め

 

 最後に飯綱曲輪群の端にある宝ヶ池に向かいました。宝ヶ池は本来は今の半分くらいの池でしたが、近年に拡張されました。今でも水が湧き出ていて、水は枯れた事はありません。水は白く濁っていました。

 

宝ヶ池にて

 

 飯綱曲輪群を見学後は津久井湖方面を目指して下山開始です。

 

下山中

 

 最初は緩やかな道でしたが、途中から少し急な道になりました。遊歩道の途中には何本かの竪堀跡がありました。遊歩道を下りしばらくすると津久井湖畔の観光センターが見えてきました。観光センターからでも竪堀が見えるとの事なので最後に竪堀を見ました。

 

麓にある竪堀

 

 今回の見学会は観光センターで解散です。今回案内してくれた中川氏と野口氏の両名からお話しがありました。麓の根小屋、山頂の曲輪群と見学しましたが、これでも津久井城の7割ほどしか見学していないとの事でした。

 

今回の案内人のお二人

 

 今回の見学会は山城で楽ではなかったですが、個人では行きにくい場所に行けました。通常は入れない大手道から城に行けて、案内が一切なくて分かりにくい畝状竪堀群、石積みを見学できて、とても満足いく見学会でした。

 

 1月25日(土)は日本城郭史学会主催で神奈川県津久井城見学会がありました。今回の見学会は神奈川県立公園協会の野口文史氏と相模原市立博物館学芸員の中川真人氏の両名が案内講師でした。史学会では二年前に中川氏の津久井城発掘調査の城郭セミナーがありました。今回はセミナーの続編とも言うべき津久井城の見学会です。

 

津久井城遠景

 

 橋本駅に集合してバスで津久井城を目指します。津久井城は整備されているとはいえ険しい山城です。今回の見学会は30人近くの参加者がいました。山城なので雨が降ると見学会に支障が出ますが、この日の天気は大丈夫でした。

 

相模原市立博物館の中川真人氏

 

公園協会の野口文浩氏

 

 見学する前に津久井城の麓にあるパークセンターに入りました。津久井城の立体模型があるので模型を使って津久井城の事を説明してくれました。

 

津久井城パークセンター

 

 パークセンターを出て、まずは麓の根小屋を見学します。牢屋があったといわれる沢を通り、しんでん地区に入ります。江戸時代の絵図に沢に橋があり、しんでん地区を結んでいました。しんでん地区の入口には土塁と虎口があった事が確認されています。

 

しんでん地区

 

 根小屋を下って城坂曲輪群5号曲輪に向かいました。5号曲輪は根小屋の一番南側にある小さな曲輪ですが、最近発掘調査が行われました。

 

5号曲輪

 

 発掘調査によって5号曲輪から庭園跡、池跡が発見されました。池底からはびっしりと石が敷き詰められていました。建物跡は発見されませんでしたが、すぐそばを流れる尻久保川を借景とした庭園ではないかとの事でした。庭園のみの曲輪は後北条氏の城郭では他の例がなく珍しいです。この庭園も天正18年の豊臣秀吉の小田原攻め前に埋められて籠城に備えました。

 

5号曲輪での説明

 

 遊歩道は歩いていると途中に竪堀がありました。写真だと分かりにくいですが、現地で見れば竪堀だとはっきり分かります。根小屋の遊歩道は幅の広いスロープで歩きやすいです。地表面から離れて空中に設置されているので竪堀等の遺構を壊すとこはありません。

公園整備と遺構保存の両方をうまく考えて整備されています。

 

竪堀を見学中

 

津久井城竪堀

 

 次は御屋敷曲輪を見学します。津久井城の城主である内藤左近屋敷があった曲輪です。

東西60M、南北70Mの根小屋では最大級の曲輪です。虎口は2ヶ所あり、東側虎口は向かって右手には石積みがあり、左手には1M越える大きな石が4個並んでありました。この巨石は城主の権威を示すものであったかもしれません。

 御屋敷曲輪では金の精製が行われていた痕跡が確認されています。どの程度の金の量かは不明です。北条氏からみれば内藤氏は外様の家臣ですが、この金のおかげで家臣の中では序列が高かったかもしれません。

 

 

御屋敷曲輪

 

 麓の根小屋を見学したら、城山山頂の遺構を目指します。山頂に行くには距離は短いが急な男坂と距離は長いが緩やかな女坂がありますが、今回は伝大手道といわれている馬道から登ります。

 

山頂に向かう1

 

 伝大手道は津久井城が使用された戦国時代の登城路ですが、現在では使わない道です。道には案内が一切ないのでどこにあるのか分かりません。イベント等で使う事がありますが、今回の見学会では特別に伝大手道で城に登る事になりました。

 

山頂に向かう2

 

 いつもは使えない道で登れるのはとても有り難いですが、あまり整備されていないので少し登りにくい道でした。男坂を登るより大変でしたが、本来の登城路で城に行ける事を思えば貴重な体験ができたと思います。

 

更に険しくなるも山頂に向かう

 

 途中で竪堀を二本越えて、山頂を目指します。竪堀部分は当時は橋があったみたいですが、今はありません。当時より堀は埋もれているので何とか通れました。

 

後半に続く

 12月21日(土)は日本城郭史学会の2019年度第3回城郭史セミナーがありました。テーマは「赤色立体地図に見る城郭」です。今回はアジア航測の千葉達朗氏を講師に招きました。千葉氏は赤色立体地図の発明者であり、日本火山学会の副会長、日本大学の非常勤講師を勤められています。

 

今回のテーマ

 

 赤色立体地図はNHKのブラタモリでもよく使われて、千葉氏はブラタモリに出演された事もあります。ちなみに赤色立体地図は登録商標されていません。

 

講師の千葉達朗 氏(アジア航測)

 

当日のセミナーの様子

 

 セミナーの前半は赤色立体地図が開発された経緯や地図についての説明でした。赤色立体地図は開発された当初は赤い地図が内蔵に見える事からポリープ地図、内蔵マップと言われたそうです。

青木ヶ原樹海

 

 富士山噴火に備えて、富士山の溶岩流からなる青木ヶ原樹海を調査するために赤色立体地図は開発されました。樹海内は遭難する事があるので中に入っての調査はなかなか出来ません。樹海内でも木々の間から空は見えます。そういうわけで樹海上空から航空機によるレーザー測量が考えられました。航空レーザーだと緩やかな場所や急傾斜の場所は表示しにくい問題がありました。陰影図や斜度図を利用、応用して赤色立体地図が生み出されました。

 

新たに発見された火口

 

 山梨県の旧上九一色村周辺では赤色立体地図から新しい火口が発見されました。

 

ダムと赤色立体地図

 

 赤色立体地図は水中でも音波を使って探索する事ができます。今はダムに沈んだ場所でも調べてみると、ダムの底にはダムが出来る前の時代の川の地形が残っている事が分かります。

 

古墳と赤色立体地図

 

 赤色立体地図は古墳の調査にも使えます。古墳内は立入禁止になっている事が多いですが、上空からレーザーで調査すると、生い茂った木の中にある古墳の形状がよく分かります。

 

三原山噴火のシミュレーション

 

 伊豆大島の三原山も赤色立体地図から模型を作り、噴火のシュミレーションをしました。シャンプーを熔岩代わりにして熔岩が流れる場所を予測しました。これだと安価にシュミレーションできます。

 

月の赤色立体地図

 

 セミナー前半の最後に月の赤色立体地図を紹介しました。月の地図はネット上で後悔されているので誰でも見る事が出来ます。月の表面があまりにもよく見えるので少しグロテスクに見えてしまいます。ここで休憩となりセミナー前半が終了しました。

 

セミナーの様子2

 

今回のセミナーで紹介する城

 

 今回のセミナーでは奈良県高取城、滋賀県小谷城、岐阜県飛騨市の城郭を紹介します。

 

飛騨市傘松城

 

 赤色立体地図で城跡を見れば平坦な場所、曲輪は白く表示されます。曲輪でも見晴らしがいい曲輪は白く輝きます。赤色立体地図から飛騨の城は稜線を分断する堀切はあまりなくて、自然と調和した城だという事が分かりました。

 

小谷城1

 

 次は滋賀県長浜市の小谷城を紹介しました。NHKの番組で使った赤色立体地図の動画を使って小谷城を説明しました。

 

小谷城2

 

 赤色立体地図から小谷城に東側が岩盤が剥き出しの急傾斜だと分かります。西側は比較的緩やかな坂です。これらの事から天正元年に羽柴秀吉が小谷城の京極丸を急襲して攻め落としたのは西側から攻めたと思われます。

 

高取城

 

 最後は奈良県高取城を紹介しました。国土地理院のホームページから赤色立体地図は見る事が出来ますが、公開している地図情報では高取城の詳細は分かりません。橿原考古学研究所とアジア航測共同で開発した赤色立体地図だと高取城の詳細な情報が分かります。

 

最後に

 

 赤色立体地図は単眼の人でも立体に見る事が出来ます。人間の網膜は赤が多いので赤の地図の方が分かりやすいとの事でした。

 今後は赤色立体地図を使った城郭調査を考えた方がいい事、富士山の熔岩調査は既に赤色立体地図を利用しての調査になっているとの事でした。

 近く将来に日本の城郭研究を大きく変えるであろう赤色立体地図の仕組み、凄さがよく分かったセミナーでした。

 

 

 11月16日(土)は日本城郭史学会主催で千葉県稲村城と館山城見学会がありました。

今回の見学会は里見氏研究の第一人者で千葉市史編集委員でもある滝川恒昭氏が案内講師でした。史学会では一年前に滝川氏の房総里見氏の歴史と城郭のセミナーがありました。今回はセミナーの続編とも言うべき里見氏の城である稲村城と館山城の見学会です。

 

稲村城遠景

 

 東京をバスで出発して、アクアライン経由で房総を目指します。最初の目的地は前期里見氏の居城である稲村城です。この日は晴れて少し暖かく城見学には絶好の天気でした。今回の見学会は台風15号の影響で稲村城と館山城は見学しないで、一時は里見氏の寺院の見学に変わりましたが、その後は城内に入れるルートがあったので当初の予定通りに稲村城と館山城の見学になりました。

 

案内講師の滝川恒昭氏

 

 稲村城の駐車場で館山市立博物館の岡田晃司氏と合流します。稲村城に熟知した岡田氏の先導で城を目指します。稲村城は滝川氏と岡田氏で案内してくれました。

 

稲村城を東側から望む

 

 稲村城への本来の見学道は台風15号の土砂崩れで使えなかったですが、城の南側から入るルートがあったのでそちらから城内に入れました。この入口は稲村城に熟知した方しか分からない入口です。

 

稲村城南側の入口

 

 南側から入り丘陵の尾根を北に進むと稲村城に着きます。途中に正木様の社がありました。江戸時代に稲村城周辺に正木家が七軒あり、先祖を祀るために正木様の社を建てました。ここに住む正木家は里見氏の家臣で内房水軍を率いた正木氏の末裔だといわれています。今でも何軒が正木さんが周辺に居住しています。

 

正木様の社

 

 正木様を過ぎて、しばらく進むと稲村城の主郭に着きました。主郭からは見晴らしがよくて北側に館山平野がよく見えます。当時の内房と外房を結ぶ街道は稲村城の北側を通り、稲村城は交通の要衝でもありました。

 

稲村城主郭

 

 稲村城の主郭は発掘調査が行われたが、建物跡は発見できなかったです。岡田氏が稲村城の主郭について説明してくれました。

 

稲村城主郭2

 

 主郭を出て東側に進むと細長い曲輪があり、堀切と土橋がありました。稲村城で今でも残る土橋はここだけです。竹藪になっていますが、土橋と堀切は分かります。

 

稲村城土橋と堀切

 

 主郭の東側は今でも土塁が良好に残っています。稲村城は天文2年(1533)の里見氏の内訌後に廃城となっています。戦国前期に廃城となり、その後は使用されなかったので、稲村城跡は戦国前期の遺構は残しています。

 

稲村城主郭土塁

 

 稲村城を見学後は館山城を目指します。昼食後に館山城市立資料館を見学して、山頂の城跡に向かいます。山頂には千畳敷がありますが、地名だけ残っていて、現在は大幅に破壊改変されていて当時の曲輪の名残は残っていません。

 

館山城千畳敷

 

 山頂には模擬天守があり、周辺は本丸曲輪跡に見えますが、戦前の城山は模擬天守がある辺りは先がとんがっていました。戦時中に海軍が高射砲陣地を城山に築いたときに造成されました、曲輪跡に見えますが本当は高射砲陣地跡です。遺構は残っていませんが山頂からは見晴らしがよく館山市街地から東京湾、天気がいいと富士山まで見えます。

 

城山から市街地を望む

 

 天正18年(1590)里見義康は豊臣秀吉に臣従するも上総の所領は没収されて安房一国の大名となりました。館山城は改修されて、里見氏の居城となりました。慶長19年(1614)に里見氏が事実上の改易になり、館山城は廃城になり破却されました。近世初期の城ですが天守はなかったみたいです。館山城に今あるのは模擬天守で里見八犬伝の資料館になっています。

 

館山城模擬天守

 

 山頂を降りると途中に新御殿の名称の場所を通ります。名前からだと御殿があった場所だと思われますが、発掘調査を行い何本もトレンチを入れて調査しましたが、建物跡は確認できなかったです。

 

館山城新御殿

 

 館山城を見学後は里見氏縁の慈恩院に行きました。慈恩院のそばに溜め池があります。この溜め池は館山城の外堀の一部である鹿島堀跡です。遺構がほとんど残っていない館山城では貴重な遺構ですが、周辺には外堀の案内が一切ないので、ここが堀跡だとは分かりにくいです。

 

館山城鹿島堀跡

 

 鹿島堀跡のそばには青岳尼の供養塔がありました。青岳尼は小弓公方足利義明の娘で鎌倉の太平寺の尼でしたが、還俗して里見義弘の妻になりました。

 

青岳尼供養塔

 

 鹿島堀、青岳尼の供養塔を見学後は慈恩院に戻り、里見義康の墓を見学します。

義康の墓石は江戸時代に築かれましたが、墓石の背後にある小山が義康死去当時の墓との事でした。義康は慶長8年(1603)に31才で死去しました。

 

里見義康の墓

 

 館山城と周辺の寺院の見学が終わり、途中で国指定史跡岡本城が見える地点に停まり、城の遠景を見ました。岡本城は館山城の前の里見氏の居城でした。台風15号の被害が大きくて現在は城内には入れません。

 

岡本城の遠景

 

 日没時間も近かったですが、すぐそばにある光厳寺に立ち寄りました。ここには房総里見氏の七代目義頼の墓があります。義頼は天正15年(1587)に死去しました。

 

里見義頼の墓

 

 里見義康の墓を見学したら見学会は終了です。後は東京に戻るだけです。この日は晴天で城見学に最適な天気でした。帰路のアクアラインで事故渋滞があり、東京着が遅くなり最後は画竜点睛を欠く事になりましたが、一度は諦めた稲村城と館山城を見学できて満足いく見学会でした。

 9月28日(土)は日本城郭史学会主催で山梨県要害城と熊城見学会がありました。今回の見学会は城郭史学会会員の岩本誠城さんが案内してくれました。岩本さんは朝日新聞山梨版で「城の歴史散歩」を連載していました。山梨県の有名な城から無名な城まで二百以上の城を紹介しました。山梨県の城郭に熟知した方で、朝日新聞の連載記事は「山梨の古城」として書籍にもなりました。

 

甲府駅北口にある武田信虎像

 

 集合場所は甲府駅改札口外でした。集合時間の12時が近づくと徐々に参加者は集まりました。険しい山城の見学会でしたが30人近い参加者がいました。参加者がそろったら甲府駅北口に移動します。

 

集合場所の甲府駅

 

 北口に移動したら城見学の案内講師の岩本さんから今回の見学会の簡単な説明がありました。熊城は要害城に着いたら再度、皆の意見を聞いてから行くかどうするか決めるとの事でした。タクシーに分乗して要害山の登山口を目指します。

 

甲府駅北口

 

 要害山の麓に着いたら、登山前に岩本さんから今回見学する要害城と熊城の概要についての説明がありました。

 要害城ではなく要害山が国指定史跡になっていて、その区域内にある要害城も国指定史跡になるとの事でした。高白斎記によると永正17年(1519年)6月に「積翠寺丸山を御城に取立て被普請初る」の記述があります。当時の史料から要害城が永正17年武田信虎によって築城されたことが分かります。

 熊城は文献史料が少なくて正確な築城時期は不明です。要害城の南東側に位置して、両城の間には水の手になる沢があります。要害城築城後に水の手を守るために武田信虎が築城したのが有力だと言われています。熊城は武田信玄、勝頼時代に築城された説もあります。

 

要害山登山口

 

 岩本さんの説明が終わると、いよいよ要害城へ登山開始です。麓の登山口から主郭まで比高は200Mほどで本格的な山城です。途中の遺構を見学しながらゆっくり進みました。

 

要害城へ登山開始

 

要害城へ向かう

 

 しばらく進むと、門跡に入りました。ここは枡形虎口を形成しているのがはっきり分かりました。慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦以降に枡形虎口は門を二門使うようになりました。要害城の頃は外側の門はあっても内側の門はなかったかもしれません。ここの枡形虎口は江戸期の近世の枡形とは少し違うかもしれません。

 

要害城門跡

 

要害城城内

 

 しばらく城内を進むと不動曲輪に着きました。不動明王像があることから江戸時代後期に不動曲輪と名付けられました。不動曲輪から麓の躑躅ヶ崎館まで2.5キロなので館がよく見えるはずですが、木が生い茂っていて見えませんでした。

 

不動曲輪にて

 

 途中の帯曲輪には井戸跡と諏訪明神の祠がありました。

 

井戸跡

 

 要害城の各所には石積みがありました。天正4年(1576年)長篠合戦敗北後に武田勝頼が要害城に改修を命じています。天正18年に加藤光泰が甲斐に転封となり要害城を改修しています。石積みは勝頼時代か加藤光泰時代のどちらかだといわれていますが、天正末期の加藤時代の石積みであるのが有力です。

 

石積みを撮影中

 

 途中の遺構を見学しながら要害城の主郭に着きました。主郭は長方形の形をしていて、北が搦手、南が大手になります。

 大永元年(1521年)駿河の今川氏家臣の福島正成が大軍を率いて甲斐に侵攻して、武田信虎はこれを迎え撃ちました。信虎の妻である大井夫人は要害城に逃げ込み、ここで武田信玄を生んだといわれています。実際は大井夫人は要害城ではなく、麓の積翠寺で信玄を生んだのではないかといわれています。麓の積翠寺には信玄公産湯の井戸が今でも残っています。

 要害城主郭には東郷平八郎元帥の書である「信玄公誕生之地」の石碑があります。信玄が要害城で生まれたか怪しいので石碑は「生誕の地」ではなく「誕生の地」で曖昧にしている気がします。

 

要害城の主郭にて

 

 ここで熊城に行くかどうするか参加者に確認しました。熊城見学を諦めて要害城で引き返す人もいましたが、ほとんどの人が熊城に向かいました。山梨の城のスペシャリスト岩本さんが案内してくれて、天気の心配もないので熊城に行くには千載一遇の日でした。

 

要害城の主郭にて2

 

 要害城の東側から城外に出て、熊城に向かいました。山の尾根の遊歩道に沿って進みました。熊城まではあまりいい道はないと事前の説明で聞いていましたが、はっきりとした道が続きました。

 

熊城に向かいます。

 

 しばらく進むと遊歩道を南に曲がりました。この分岐点には唯一の目印となる灰皿がありますが、熊城の案内は一切ありません。熊城への道は何とかありますが、これまでの遊歩道に比べると分かりにくかったです。いきなり少し急な斜面を下りました。

 

熊城に向かって下ります

 

熊城に向かって下ります2

 

 その後は下り道が多く、徐々に下りながら熊城に近づきました。岩本さんの説明では熊城は主郭に着くまでに二本の堀切を通ります。堀切は登り降りしやすいようには整備されていないとの事でした。

 熊城への最初の関門である北側の一本目の堀切に着きました。堀切は当時の比べたら多少は崩れて埋まっていると思いますが、堀の幅と深さは今でも城に侵入する者への障害になっています。ハイキングで熊城を縦断する人が時々いるので登り降りした道が残っています。歩けそうな所を探して堀切を突破しました。

 

堀切を縦断中

 

 一本目の堀切を通過したら、すぐに二本目の堀切がありました。ここを通れば主郭に着きます。一本目の堀切より険しいように思えました。歩けそうな場所を探しながら堀切を突破しました。険しい二本の堀切でしたが、通り抜ける事で険しさを体感することができました。主郭の背後の搦手側を大堀切で城外と分断するのは武田家の築城術でよく見られます。

 

主郭北側の大堀切

 

大堀切を登っています

 

 二本目の堀切を通ったら熊城主郭に着きました。主郭はそれほど大きな曲輪ではなかったです。堀切がある北側の土塁が残っていました。分かりにくいですが主郭の東側には石積みと畝状竪堀がありました。

 

熊城主郭にて

 

熊城主郭東側にある石積み

 

 熊城の主郭を見学したら下山開始です。途中で現地だとはっきり分かる畝状竪堀群がありました。写真だと分かりにくですが現地で見ればよく分かります。熊城は堀切や畝状竪堀は要害山以上見事でしたが、城内には説明板や名称板は一切ありませんでした。道標すらなかったです。草木が生い茂っていて見学に支障が出た要害城より見学しやすかったです。

 

熊城南側の畝状竪堀

 

 途中難路が多くて転んだ人がいましたが、幸い怪我をする人はいませんでした。遊歩道にそって下っていくと舗装された道路に出ました。これで下山が終了です。帰りもタクシーで甲府駅に戻るので駐車場がある積翠寺に向かいます。

 

下山終了

 

 熊城は要害城よりは道が険しくて分かりにくくて、難易度の高い城でした。それでも行く価値は十分ありました。要害城は竪堀や石積み、曲輪は草が生い茂り分かりにくかったですが、熊城の方が石積みや堀切、竪堀が分かりやすかったです。よほど山城に慣れた人でなければ熊城は単独で行くのは難しい城です。今回は山梨の城を熟知した岩本さんの案内だったので、無事に熊城を見学できました。分かりにくい道も間違える心配がなく安心して熊城に行けました。