3月18日(土)は神奈川県横須賀市にある千代ヶ崎砲台での見学会がありました。日本城郭史学会主催の見学会です。
 今回の見学会は史学会評議員の坂井尚登さんが計画して関係先に手配してくれました。これまでは中世から近世の城郭の見学会が多かったですが、今回は明治期に築城された東京湾要塞の一つ千代ヶ崎砲台での見学会でした。今回は史学会では珍しい近代遺構の見学会です。

 

千代ヶ崎砲台砲座

 

 この日の天気はあいにくの雨でした。悪天候時ながらも30人近い参加者の見学会でした。当日は最寄り駅の京浜急行浦賀駅に集合でした。

 

 

集合場所の浦賀駅

 

 集合時間になり、この日の見学会の簡単な説明がありました。砲台までは少し離れているのでバスでの移動になりました。砲台近くを通るバスは本数が少なかったので乗り損なうと大変でした。

 

見学会開始

 

 最寄りバス停より少し歩けば砲台に着きます。高台にあるので少し登りました。強い雨ではなかったですが雨はなかなか止みませんでした。海に近い高台だったので雨より風の方が大変でした。

 

砲座を上から見る入口

 

 千代ヶ崎砲台は明治25年(1892)から明治28年にかけて日本陸軍によって築城された砲台です。1894年は日清戦争、1904年は日露戦争が行われたので、清国、ロシアとの緊張や脅威が高まるにつれて建設されました。

 

砲台敷地内

 

 千代ヶ崎砲台は国指定史跡になっています。ガイダンス施設もあり、資料を展示していて、ボランティアガイドの方が案内してくれます。この日も砲台内はガイドの方が案内してくれました。

 

ガイダンス施設

 

砲台内入口

 

砲台内に入ります

 

 砲台では雨水を集め、ろ過して生活用水に利用していました。現在でも貯水所が残っていて、水が貯まっています。

 

貯水所

 

 明治中期に建設された千代ヶ崎砲台は煉瓦を多用して作られました。風雨にさらされる箇所の煉瓦は高温で焼いて撥水性が高いように作るなどの工夫がありました。

 

砲弾弾薬庫

 

 千代ヶ崎砲台が最初に築城されたときは3ヶ所の砲座がありました、一つの砲座に28サンチ榴弾砲2門を設置して合計6門設置していました。

 

千代ヶ崎砲台砲座

 

 当時の戦艦は1隻で25から30センチの主砲を4門搭載していました。ちなみに日露戦争の武勲艦の三笠は30センチ連装砲を2基搭載して4門持っていました。ここ千代ヶ崎砲台の6門の28サンチ榴弾砲は当時の戦艦1隻以上の火力でした。

 

砲座を上から見る

 

 砲座は掘り下げられて作られているので、ここに設置した榴弾砲は上に向いて射撃します。榴弾砲は海上の艦船からは直接見ることが出来ません。

 

砲座を上から見る2

 

 28サンチ榴弾砲は日露戦争では203高地の戦いや旅順要塞攻略戦で使用されて、活躍した火砲です。220キロの砲弾を最大射程は7800Mで発射する事が出来ました。

榴弾砲は元はドイツのクルップ社製の砲ですが、クルップ社製の砲を参考にイタリアで製造されました。イタリア製の大砲を参考に日本の大阪砲兵工廠で製造されました。

 

千代ヶ崎砲台砲座

 

砲台通風口

 

 いくら強力な榴弾砲でも命中しなければ意味がありません。目標物までの距離や方角、速度、進行方向を測定するための観測所が砲座の外にありました。観測所で使用していた機器はイタリア製でした。

 

 

観測所跡

 

 明治期に作られた砲台ですが、敷地内には堀跡がありました。近くに上陸した敵兵が至近距離まで来ても少しでも砲台に接近させないように穿った堀だと思われます。

 

堀跡

 

 千代ヶ崎砲台には戦艦の主砲塔を転用した砲台があります。主砲塔から名前を取って砲塔砲台と言われています。日露戦争後に就役した戦艦鹿島の30センチ砲を使用した砲台です。

 

砲塔砲台遠景

 

 砲塔砲台の30センチ砲の動力は水圧でした。水の力を利用して砲塔を動かしていました。砲台の下にはそのための動力室がありました。水をくみ上げてポンプの水圧で砲塔を動かす施設です。大和級戦艦も含めて日本の戦艦の主砲は水力を動力として動かしていました。

 動力室は今でも残っていますが、資材置き場になっていました。

 

砲塔砲台動力室

 

東京湾を望む

砲塔砲台遠景2

 

 この日はあいにくの悪天候でしたが、史学会では珍しい近代の遺構を見ることが出来て満足な見学会でした。東京湾や房総方面を望める立地にある砲台なので、せっかくの景色が見えなかったのが残念でした。

 

 

 2月25日(土)は栃木県鹿沼市にある鹿沼城見学会がありました。日本城郭史学会主催の見学会です。
今回の見学会は史学会委員の笹崎明さんが案内してくれました。栃木県での見学会は
2021年7月以来の1年5か月ぶりです。鹿沼城は市役所整備に伴う発掘調査で堀障子が発見されて話題になりました。

 

千手山の城郭遺構(竪堀)

 

 当日はJR鹿沼駅に集合です。日光線は本数が少ないので集合時間に合わせるには
乗る電車が決まります。鹿沼駅は閑散としている事が多いですが、この日は見学会の参加者であふれていました。今回の参加者は37人でした。集合時間になり、案内講師の笹崎さんから今回の見学会の説明があり、バスで移動しました。

 

当日集合のJR鹿沼駅

 

 JR鹿沼駅は鹿沼城と城下町から2キロほど東側にあります。まちの駅・新鹿沼で
バスを降りて、見学会は始まりました。
最初に今宮神社に向かいます。神社には鹿沼城の土塁が残っています。基底部の広いかなり大きな土塁です。神社にある土塁は鹿沼城全体から見れば一部だけですが、土木量の多い土塁だと今でも分かります。

 

今宮神社土塁

 

 その後は市役所前に移動します。現在は駐車場になっていて何も残っていませんが、令和に入っての工事でここから堀障子が発見されました。畝の高さは60センチほどでそれほど高くありませんが、この堀の地層は粘土層で少しでも水が貯まると想像以上にぬかるみます。ここに堀があった事は以前から知られていましたが堀障子が発見されたことは予想外でした。栃木の城郭で堀障子が発見されたのはここ鹿沼城が初めてです。

 

鹿沼城堀跡

 

 壬生氏は天正年間前半の徳雪斎の時は、北条氏と対立することが多かったです。次の義雄の時の天正13年(1585)以降に北条方に味方しました。おそらくその時に北条氏の助力を受けて鹿沼城は堀障子を含めて改修されたと思われます。

 

鹿沼城堀跡2

 

 堀障子跡を見学したら主郭を目指します。

壬生氏は公家出身と言われていましたが、最近では宇都宮氏の一族だとも言われています。出自については詳細が分からない一族でした。宇都宮氏の家臣ながら戦国時代に徐々に力を付けて、鹿沼から壬生周辺を勢力圏とする国人領主となりました。

 

市役所横を通り主郭を目指す

 

 毛利家文書に掲載されている天正18年の豊臣秀吉の関東平定時の北条家人数覚書には後北条氏や北条方の諸将、反北条の諸将の関東の主立った大名や国人の城や拠点、動員兵力が記されています。
 壬生中務(義雄)は壬生城、かのまの(鹿沼)城、日光山の三箇所の拠点を持ち、1500騎動員できると記されています。下野では宇都宮氏が3000騎、那須氏が1500騎と記されています。豊臣方では壬生氏は宇都宮氏の半分くらい、那須氏と同等の勢力だと認識されていました。壬生氏の石高は最低でも十万石前後から最大で日光山も含めば十五万石くらいでしょう。

 

主郭東側入口

 

 鹿沼城主郭跡は野球場になっていますが周辺に遺構が残っています。野球場を避けるように城の南側を歩きます。少し歩くと空堀跡があり堀底を歩きます。堀は少しずつ深くなり最後は深さ10M以上あり傾斜もきついかなり険しい空堀でした。

 

左手は主郭

 

主郭南側堀跡

 

主郭南側堀跡2

 

主郭南側堀跡

 

主郭内

 

 主郭から岩上左京殿曲輪跡が見えました。一画にはコンビニが建てられていますが、建設時に発掘調査が行われて土塁や曲輪の存在が確認されました。

 

岩上左京殿曲輪跡

 

 岩上左京殿曲輪を通り北側にある千手山を目指します。千手山は遊園地になって観覧車などの遊戯施設があり、安価に遊べます。

 

千手山竪堀

 

 

千手山

 

 千手山には三重竪堀や曲輪の城郭遺構が残っていますが、城としては認識されていません。御殿山、坂田山、岩上左京殿曲輪の北側にあります。鹿沼城を北から守るには絶好の位置にあります。

 千手山は北側から東側の見晴らしがいいです。北には板橋城、北東には多気山城が見えます。多気山城は北条氏、壬生氏と敵対する宇都宮氏の本城であります。千手山から7キロしか離れていないのでお互いよく見えます。

 

千手山から多気山方面を見渡す

 

 千手山の後は雄山寺を目指します。御殿山にある三の郭近くを通りました。案内板は一切ないですが、ここには土塁や空堀が残っています。意識していないと見逃しそうな遺構でした。

 

三の郭南側土塁、堀跡

 

三の郭南側土塁、堀跡2

 

 その後は雄山寺に向かいます。ここには壬生氏五代目で最後の当主である壬生義雄の宝篋印塔の墓があります。今では雄山寺本堂から離れた場所に墓はありますが、明治期までは本堂は壬生義雄の墓のすぐ北側にありました。明治期の火事で本堂は今の場所に移動しました。

 

壬生義雄の墓

 

 江戸時代歴代将軍の日光参拝の時に使用された御殿が鹿沼にありました。宿泊のための御殿は壬生にあったので鹿沼の御殿はお昼休憩のための御殿でした。寛文3年(1663)を最後に壬生経由での参拝はなくなり、鹿沼の御殿は使用されなくなりました。現在の中央小学校周辺が御殿跡です。

 

鹿沼御殿跡(現中央小学校)

 

 御殿跡を通り、程なくまちの駅・新鹿沼宿に着きました。ここで今回の見学会は終了です。ちょうど夕陽の西日にかざされながらの解散になりました。

 

まちの駅・新鹿沼宿

 

 鹿沼城は江戸時代前に廃城となりましたが、城下町は残って今に至ります。鹿沼城は市街化されてあまり遺構が残っていない印象ですが、土塁や空堀が意外と残っている事が分かりました。栃木城の城郭では貴重な堀障子跡も今では駐車場になっていて説明版すらありません。千手山の三重竪堀も見事ですがここにも何も案内はなかったです。鹿沼市はせっかくの城郭遺構を活かしきれていないのが残念でした。今回の見学会は要所要所を見学して、鹿沼城の遺構が意外とよく残っている事が分かった見学会でした。

 

 

 1月28日(土)は東京都と神奈川県の多摩川沿いにある小沢城と菅寺尾城の見学会がありました。日本城郭史学会主催の見学会です。
 今回の見学会は史学会委員の大竹正芳さんが案内してくれました。この見学会は当初は2020年春に予定されていましたが、新型コロナの影響で延期になりました。3年近く遅れての見学会になりました。

 

小沢城石碑

 

 小沢城は東京都と神奈川県の県境にある城です。城の西側は東京都、東側は神奈川県になります。東京方面からは天神山と呼び、神奈川方面からは小沢峰と呼びます。城のすぐ北側には多摩川の支流である三沢川が流れ、さらに北側には多摩川が流れています。

 

小沢城のすぐ北側を流れる三沢川

 

 この日は京王線のよみうりランド駅に集合して城に向かいました。一つ前の稲田堤駅からでも小沢城に行けます。小沢城はよみうりランドと稲田堤のほぼ中間に位置します。

 

集合場所の京王よみうりランド駅前

 

 小沢城は鎌倉時代の初期に源頼朝の家臣・稲毛三郎重成の子である小沢太郎の居城だったといわれるが真偽は不明です。(新編武蔵風土記稿)

 稲毛重成は北条時政の娘婿で、建久9年(1198)に相模川に橋を作りました。橋の落成式に源頼朝が参加して、帰路に落馬して体調をくずします。頼朝はその後ほどなく亡くなります。
 今残っている小沢城は鎌倉時代の城ではなく戦国時代の城だと思われます。

 

ここはまだ城内ではないです

 

 小沢城は東西に細長い尾根の自然地形を利用した城です。土塁や空堀、枡形虎口等の重厚な防御はあまり使われずに最低限の普請で造った、戦国前期(天文年間前半まで)の城だと思われます。山の尾根を利用した城ですが、尾根部分が狭くて、小さい曲輪しか造れません。山頂からは多摩川以下の北側は見晴らしがよくて、見張り台等の施設があったと思われます。

 

小沢城西側の堀切

 

これより城内に入ります

 

井戸跡

 

山の峰を進む

 

 小沢城の北側は河川だけではなく、鎌倉街道が通っていました。城周辺は河川と交通の要衝でもありました。鎌倉幕府、室町時代の鎌倉府は多摩川を北側の防衛線にしていました。小沢城より少し上流の分倍河原では鎌倉幕府滅亡時には新田義貞以下の討幕軍と鎌倉幕府軍、享徳の乱時には古河公方と関東菅領との間で大きな合戦がありました。

 

場内最高所の浅間山山頂

 

 享禄3年(1530)後北条氏と扇谷上杉氏との間で小沢原の合戦がありました。北条氏康の初陣といわれている合戦で後北条氏が勝利しています。小沢原の名前が示す通りにこの合戦では北条方は小沢城に布陣した可能性が強いです。

 

物見台に向かう

 小沢城北東4.5キロには扇谷上杉家の深大寺城があります。天文年間初期(1532から)には後北条氏の小沢城と扇谷家の深大寺城は多摩川を境に対峙していました。

 

小沢城東側

 

 山の南側中腹に一定の大きさの複数の曲輪が配置されています。ここが居住地域でったと思われます。東側と西側に堀切があり、堀切の内側が城域になります。
 

小沢城東側横堀

 

小沢城南側の曲輪群

 

 小沢城を出たら、菅寺尾城に向かいます。その途中に切通がありました。この切通は法泉寺の敷地にあります。法泉寺は以前は極楽寺でした。一時期は荒廃していましたが周辺の神社と共に戦国時代に小田原の後北条氏によって再興されました。
 切通の道は二重の土塁の間にあります。二重の土塁と堀は城郭遺構にも見えますが、切通との事でした。

 

切通を進む1

 

切通を進む2

 

 旧三沢川沿いに進むと20M以上の高さのある高台が見えます。ここが菅寺尾城です。川崎市には寺尾城がもう一城あります。区別する意味もありこちらの寺尾城は
地名を付けて菅寺尾城と呼ばれています。城の北側は今でも馬場と呼ばれ、バス停の名前も馬場です。
 

菅寺尾城の堀底道

 

 城跡には麓から土塁の間にある堀底道を登ります。途中に小さな曲輪があります。
高台斜面には切岸も残りますが、崩落防止のネットがかけられています。高台に登るまでは土塁、曲輪があり厳重に守られています。

 

途中にある小さな曲輪

 

 城跡になる高台部分の大部分は団地造成で削られています。それでも北側の一画は造成されずに緑地になっています。
 曲輪みたいに平坦な箇所は少なく城として利用された雰囲気はあまりありません。
戦国時代は堀切で曲輪を分けた連郭式の城だと思われますが、早くから堀は埋められて、城の詳細は不明です。高台部分は面積が広く、軍勢を駐屯させるのに最適であります。一時使用の陣城として使用されたのではと思われる城です。

 

高台山頂部分

 

 団地造成時の発掘調査で八角堂と思われる建物跡が出てきました。平安時代の建造物で、現在はその跡地に建造物の規模が分かるように整備されています。城郭遺構ではないが当時は目立つ建物であったと思われます。菅寺尾城は城跡でもあり寺院跡でもあります。寺院として使用された期間の方が長いかもしれません。
 

八角堂の説明石碑

 

八角堂跡

 

 八角堂跡を見学したら現地解散になりました。いつもより集合時間も少し早くて、それだけ内容も濃い見学会でした。起伏のある場所もありましたが、天気には恵まれました。

 予定より3年遅れた見学会でしたが、その間に城跡が破壊改変されたり、立入禁止になったりする事はなく予定通りの見学会が出来ました、東京都と神奈川県の都市化された街中でしたが、意外と遺構が残っていました。

 

 先日11月26日に千葉県本佐倉城で城郭史学会主催での城見学会がありました。案内人は城郭イラストレーターの第一人者の香川元太郎さんでした。香川さんは城郭史学会の委員でもあります。本佐倉城は千葉県で城郭遺構として初めて国指定史跡なった城跡です。佐倉の名称ですが佐倉市と酒々井町の境にあり、大佐倉駅は佐倉市にありますが、本佐倉城の大部分は酒々井町にあります。

 

本佐倉城俯瞰図(香川元太郎氏作成)

 

香川元太郎さん

 

 当日は京成電鉄大佐倉駅に集合です。大佐倉駅周辺はそれほど大きくない集落で店は全くありません。あまり乗降客もない駅で駅周辺には今回の見学者以外はいませんでした。この日は天気は悪く、午前中は本佐倉城周辺は雨が降っていました。幸い見学会が始まる午後は雨が止んでいました。
 

今回の見学会の説明中

 

 集合時間になったら今回の見学会の説明があり、京成電鉄の線路に沿って城を目指します。少し歩くと集落を出て、本佐倉城が見えました。本佐倉城の北側は一面田んぼで、城が使用された戦国時代は湿地帯でした。

 

本佐倉城周辺の田んぼ

 

 本佐倉城は戦国時代前期文明年間(1469から1487)に千葉氏によって築城されました。源頼朝時代からの続く千葉氏は鎌倉時代、室町時代を通じて下総を中心に大勢力を持っていました。享徳3年(1454)に勃発した享徳の乱に伴い、千葉氏の家中は公方方と管領方に分かれて対立して、大きな抗争がありました。管領方であった千葉氏の宗家は敗北して滅亡しました。千葉一族の岩橋輔胤が千葉氏の家督を継承して、その後は居城を本佐倉城に移しました。

 

本佐倉城に向かう

 

本佐倉城遠景

 

 

東光寺ビョウ

 

 城の北側からセッテイの空堀に入ります。セッテイは接待の事でこの曲輪は接待のための場といわれています。ここの空堀は幅も深さもあり遮断性が高い堀です。堀底は遊歩道が整備されて歩くことが出来ます。

 

東光寺ビョウから入る

 

 セッテイの曲輪内は倒木もあり立入禁止でした。堀底も直前までの雨で濡れて歩きにくい箇所もありまいしたが、大丈夫でした。

 

セッテイの空堀を歩く1

 

セッテイの空堀を歩く2

 

 本佐倉城は下総にある城です。戦国時代の下総北部は今と全く河川の流れが違いました。霞ヶ浦、北浦は今より大きく、香取海として内海でした。印旛沼の今より大きくて香取海とつながっていました。利根川は当時は江戸湾に流れていました。本佐倉城の北側は印旛沼で当時は水運でつながっていた城です。

 

本佐倉城から見た北側

 

 セッテイの空堀を歩いた後は城の北側から城内に入ります。東山虎口から入りました。この虎口は左右に土塁があり、折れ曲がって枡形を形成しています。かなり堅固は虎口です。

 

東山虎口

 

 本佐倉城は続百名城に選ばれたこともあり、最近見学者が増えています。ガイダンス施設も今年4月に開設された新しい施設です。施設内には本佐倉城や千葉氏の資料展示して、ビデオも流しています。城や歴史のパンフレットも置いています。
 

本佐倉城ガイダンス施設

 

 千葉氏は妙見を信仰しています。妙見は北極星や北斗七星を神としたもので、勝利を導く神とさえていました。元服も妙見宮で行います。去年、見学した臼井城も千葉氏の城なので城内に妙見神社がありました。千葉氏の一族の城も城内または城の近くに妙見の神社があります。ここ奥の山は妙見郭ともいわれています。周辺より一番高い基壇があり、当時はここに妙見宮があたっといわれています。

 

妙見郭(方角は南側)

 

妙見郭2(方角は西側)

 

 妙見郭を経由して、最後に城山こと主郭に入ります。曲輪の周りは土塁で囲まれて防御されています。本佐倉城は曲輪間が空堀で分かれています。空堀間には土橋はなく、木橋で結ばれていたと思われます。

 

城山1

 

城山2

 

 城山を出て城の南側に移動します。本佐倉城の少し南側の高台には向根古谷と呼ばれ城郭遺構があります。次はそちらに向かいます。

 

城山虎口

 

 向根古谷は南側に馬出があり、馬出北側には独立した大きな曲輪があります。先ほどまで見学した本佐倉城とは少し違った構造です。本佐倉城とは違った時代、違う築城者によって造られた城に見えます。小田原の後北条氏が作り、本佐倉城の千葉氏を監視するために兵を駐屯する目的で造ったのではといわれています。ここは本佐倉城から少し離れていています。ここは本佐倉城とは別の城にも見えます。

 

向根古谷遠景

 

向根古谷の馬出と土橋

 

 この日の天気予報は雨で当日は午前中は雨が降っていました。見学中は雨がパラパラ降ってきたことがあったけどすぐ止みました。これまでの雨で地面が濡れていて歩きにくい箇所がありましたが、大きな支障はなく無事見学会は終了しました。
俯瞰図を描かれている香川さんは城の構造もよく理解されていました。その香川さんの丁寧な城解説に満足な本佐倉城の見学会でした。
 

 5月28日(土)は神奈川県小田原城で日本城郭史学会主催の見学会がありました。小田原城は本丸跡に復興天守があり、小田原を代表する観光名所です。天守に目が行きがちですが、土塁や空堀もよく残っています。今日は小田原城大外郭(総構)の土塁空堀を見学します。今回は城郭史学会会員の岩本誠城さんが案内してくれました。

 

小峰御鐘ノ台大堀切
 

 当日は小田原駅に集合でした。今回の見学会は49人の参加者でした。岩本さんから今回の見学会のコース、概要の説明がありました。

 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めでは守る後北条氏は全長9キロに及ぶ総構を築いて豊臣方を迎え撃ちました。小田原城を中心とした小田原の街を総構で囲って3ヶ月籠城戦を繰り広げました。総構は空堀、土塁から成り立ち、今でも市内各所に残っています。報告書等の文章には「惣構」と記されていますが、最近のパンフレット等には「総構」と表記されるのが一般的です。

 

集合場所の小田原駅

 

 最初に小田原駅隣にある商業施設のミナカ小田原に行きます。2020年に開業した飲食店、店舗、図書館、公共施設、ホテル、温泉の複合型商業施設です。城見学なのになぜ商業施設に行くのか最初は訝しく思いましたが、その理由に展望台に着いたら納得しました。

 

小田原城と笠懸山(一夜城)

 

 ミナカ小田原の14階には無料の展望台があります。ここからは小田原城と笠懸山(一夜城)が一望できます。東曲輪と現在の小田原城天守の本丸の間に東海道線が通っていますが、鉄道建設で曲輪を削っています。この展望台からは東郭もよく見えます。小田原高校周辺が西曲輪で東曲輪と共に江戸時代より前の旧城の主郭であったといわれています。

 

ミナカ小田原14階より

 

 次に八幡山古郭東郭に向かいます。

当初はここにマンション建設計画がありましたが、撤回されて公園になりました。ここは6万年前の箱根火砕流が固まった丘陵です。崩れにくいので東曲輪のすぐそばに家があっても大丈夫である。八幡山、天神山、谷津の3つの丘陵を利用して小田原城の外郭が形成されています。3つの丘陵の分岐点にあるのが小峰山です。

 外郭は山側の遺構が比較的よく残っています。海側は市街地になっているのでごく一部が残るだけです。総構は土塁、空堀で堀は堀障子のある畝堀、土塁は堀を掘った時の土を利用して掻揚土塁である。
 東曲輪は発掘調査が行われ、竪穴式住居、半地下式建物、縄文時代の遺構が発見されています。15世紀末の大森氏時代は東曲輪が小田原城主郭で、その後はここから東に小田原城は拡張されたといわれています。

 

古郭東曲輪

 

 

清閑亭入口

 

 次に清閑亭に向かいます。ここは黒田官兵衛、長政父子の子孫である福岡藩の黒田長成侯爵の別亭です。今年3月で耐震問題で閉館されました。土塁上に数奇屋書院造りの建物が建てられて、敷地からは相模湾を見渡せました。

 

清閑亭内の様子

 

 次は天神山回遊路を通って、新堀外郭土塁を目指します。

 

天神山回遊路

 

 天神山回遊路は大学の敷地の一画を利用した遊歩道です。遊歩道はちょうど新堀外郭土塁を通っています。最近整備された遊歩道で、この遊歩道のおかげで総構見学がしやすくなりました。

 

天神山回遊路2

 

 さらに進むと短大の敷地内に三の丸土塁があります。土塁の裏側にアンマ池があります。今でも水は湧き出て池に水を注いでいます。水は枯れることはなく、ここに水堀があったかもしれない伝承があります。

 

三の丸新堀外郭土塁

 

 アンマ池は大学の敷地内にありますが、外からでも池は分かりました。案内は何もないので意識しないと見落とすかもしれません。

 

アンマ池

 

 次に三の丸新堀外郭土塁に向かいます。昭和35年(1960)にMRAハウスのアジアセンターがここに建てられました。MRAとは「日本とアジアの未来」に貢献する一般財団法人です。当時は一般市民は立ち入り禁止でした。平成20年に返還されて整備化されて今に至っています。敷地内に大きな穴があり城郭遺構にも見えますが、MRAの建物跡であり紛らわしいです。

 

三の丸外郭新堀土塁

 

三の丸外郭新堀土塁2

 

三の丸外郭新堀土塁3

 

 三の丸外郭新堀土塁のすぐ下に家が建ち並んでいます。ここは堀跡でした。小田原は空堀跡に家が建つことが多いです。

 

三の丸外郭新堀跡

 

 三の丸外郭新堀土塁の次は小峰山鐘ノ台大堀切を目指します。新堀土塁を出たら大堀切はすぐそばにありました。岩本さんの地元ならではの話を聞きながら大堀切の堀底を歩きます。

 

小峰御鐘ノ台大堀切を進む

 

 住宅地から離れたこの周辺は空堀、土塁がよく残っています。破壊改変された箇所が多少ありますが、当時の堀や土塁の形状や雰囲気をよく残しています。今回の見学会の見所の一つでした。

 

大堀切西側

 

 土塁の上にさらに土塁を築く二重土塁がありました。

 

二重土塁

 

 総構の最西端である水之尾台を目指します。水之尾台には櫓台があり鉄塔周辺だといわれています。ここからは見晴らしがよくて東側がよく見えました。

 

水之尾口櫓台周辺からの眺め

 

 次に稲荷森を目指します。稲荷森は孟宗竹の竹林ですが空堀、土塁がよく残っています。

 

稲荷森

 

 稲荷森の空堀は以前は堀底に降りれましたが今は降りれません。今回は上から堀跡を眺めました。堀跡がよく残っているのが分かりました。堀の上部にも掻揚土塁が残っていますが、岩本さんの説明がなければ見落としそうでした。掻揚土塁は土を盛って築いた土塁です。

 

稲荷森の空堀と掻揚土塁

 

谷津丘陵堀切

 

 百姓曲輪跡を経由して城下張出を目指します。

百姓曲輪は古図にも百姓曲輪と記されていますが、謎の曲輪です。畑仕事の人を集めた曲輪ではないかといわれています。曲輪跡には説明は何もありませんでした。

 

城下張出

 

 城下張出は北側に突出した正方形の形に近い曲輪です。突出しているので攻めてくる敵に対して横矢を浴びせられますが、攻撃目標にもなりやすそうです。張出の外側三方向は堀で囲まれています。

 

城下張出と堀跡

 

城下張出と久野口の間の堀跡

 

 今回の見学会最後の目的地である岩槻(岩付)台を目指します。岩付台は北条氏政四男の氏房が布陣したといわれる曲輪です。
岩付太田氏の当主太田氏資が上総三船山合戦で討ち死にして、氏房は岩付太田氏の名跡を乗っ取る形で養子となりました。
岩付太田氏は太田道灌の末裔であります。天正18年の秀吉の小田原攻めでは太田氏房が岩付からの兵を率いて事から岩付台と呼ばれました。以前はここに岩付台と書かれた立て札がありましたが今は何もありません。ちなみに今では岩槻と表記されますが当時は岩付と表記されています。

 

岩槻台

 

 岩槻台で今回の見学会は終了です。当初の予定より1時間かけての総構の見学会でした。それだけ見所が多かった見学会でした。今回の見学会は東海道線の西側の総構を見学しました。東側の総構を見学すれば総構を一周したことになります。第2回の総構見学会があるかどうか気になりました。