5月25日(土)は東京都青梅市にある勝沼城の見学会がありました。日本城郭史学会主催の見学会です。今回の見学会は青梅市教育委員会の伊藤博司さんが案内してくれました。

 今回の見学会は勝沼城だけではなく、勝沼城主三田氏の菩提寺の天寧寺や城周辺のスポットを見学します。当日は最寄り駅東青梅駅に集合して、途中のスポットを寄りながら勝沼城に向かいます。

 

勝沼城遠景

 

勝沼城見学会の一景

 

 今でも青梅街道沿いに勝沼の町名が残っています。青梅街道は武蔵台地の北辺を通っています。かつては少し青梅側に行くと宿場街があり、東京側に進むと街道は二つに分岐していて右は青梅街道、左は入間方面に行く道になっています。今では区画整理で入間方面の道は途中で途切れています。
 師岡城は勝沼城の別名で今でも師岡の町名は青梅市に残っています。

 

青梅街道(旧道)

 

 城に行く途中に霞川が市街を流れています。この霞川は下流で入間川、荒川に合流します。青梅市は多摩川が横切って流れているので多摩川に印象が強いですが、多摩川からそれほど離れていない場所に荒川水系の川が流れています。青梅市は多摩川と荒川の分水嶺でもあります

 

霞川

 

 青梅市内の霞川沿いには雨堤の地名があります。ここで3本の流れが合流して霞川を形成しています。

 

霞川合流点

 

 城の南側にある農林高校の演習林からは勝沼城がよく見えます。勝沼城を紹介する写真はこの周辺から撮ることが多いとの事でした。

 勝沼城は青梅周辺の国人領主三田氏の居城です。三田氏は平将門の末裔を称しましたが詳細は不明です。

 

演習林越しに見える勝沼城

 

 戦国時代、天文年間半ば(1540年代)三田氏は後北条氏の勢力が強くなると後北条氏に従います。永禄3年(1560)上杉謙信の関東侵攻時は謙信に従います。謙信が越後に戻ると後北条氏が反撃して三田氏を攻撃します。永禄4年または6年に三田氏最後の当主綱秀は勝沼城から辛垣城に移り抵抗しますが、内応もあり落城して綱秀も自刃します。三田氏の一族は残りますが、青梅の国人領主三田氏はこれで事実上滅亡します。

 

 

勝沼城東側曲輪

 

 勝沼城南東の麓にある妙光院から城内に入ります。四の丸相当の曲輪4は現在は墓地と駐車場なっています。曲輪4の東側には空堀があったみたいですが、現在は道路になっていて分かりませんでした。

 三の丸曲輪は墓地になっていますが、大きな破壊はなく曲輪の旧状が残っています。三の丸南側には空堀、虎口、馬出があります。

 

三の丸南の馬出

 

 三田氏滅亡後に後北条氏は勝沼城を改修していますが、詳細は不明です。天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東平定より前に勝沼城は廃城となったみたいです。

 南曲輪からは見晴らしがよくて青梅市街地がよく見えます。天気がいいと南東12キロにある八王子市の滝山城の狼煙が見えるとの事でした。

 

勝沼城から見える青梅市街地

 勝沼城は城内の最高所に本丸があり、本丸北西に二の丸、本丸東側の一段低い場所に三の丸、三の丸東側の一段低い場所に四の丸の曲輪があります。

 本丸は今でも断片的に土塁が残っていますが、当時は土塁に囲まれていたのではと思われます。

 

本丸北側土塁

 

 本丸の北西には空堀を挟んで二の丸があります。二ノ丸は断片的ですが土塁が残っています。北西部分は櫓台規模の土塁があります。

 

二の丸櫓台

 

 北西より勝沼城を出て天寧寺に向かいます。勝沼城の北東にあり、天寧寺は秩父に続く道の入口にあります。天寧寺は曹洞宗の名刹で文亀年間(1501~1504)に三田弾正政家が再興します。天寧寺の入口にある総門は格式高い四脚門の冠木門です。

 

天寧寺総門

 

 天寧寺は都内で唯一の七堂伽藍の配置をした寺院で境内全体が東京都指定史跡となっています。七堂伽藍は禅宗の場合で山門・仏殿・法堂・庫院・僧堂・浴司・東司になります。

 

天寧寺山門

 

 今回の見学会では法堂に入る事ができ、お寺の方からお話も聞けて、通常は非公開の文化財を見学出来ました。法堂の裏側には霞ヶ池があり霞川の源流の一つになっています。

 

天寧寺境内の霞池

 

 天寧寺銅鐘は大永元年(1521)に鋳造されて今でも現存して見学する事が出来ます。戦時中の金属供出にも免れた貴重な文化財で国指定重要美術品になっています。鐘には「大檀那平氏朝臣将門之後胤三田弾正忠政定刻鐫大工源定次 大永元年辛巳孟冬十日」と刻印されています。

 

天寧寺境内

 天寧寺を出て、東青梅駅に向かいます。途中のスポットを通り東青梅駅で見学会は解散になりました。

 今回の見学会は城だけではなく、三田氏縁の天寧寺も見学できました。貴重な文化財も見ることができました。城跡だけではなく市街地にも戦国時代や近世の名残があることが分かる見学会でした。

 

 2024年4月27日(土)は日本城郭史学会で総会・大会が開催されました。これまで通りに今年も4月後半に開催されていました。

 今回の会場は去年と同じ板橋区のグリーンカレッジホールです。12月のセミナーと同じ会場です。

 

熊本城天守と本丸御殿

 

 午前は史学会会員が集まり総会が開催されました。前年度の活動の確認、今年度の予定を発表して総会は終わりました。

 お昼休憩をはさんで午後からは大会です。こちらは会員以外の一般の人も参加できます。
 今回のテーマは「名築城家と言われる武将たち」です。3人の方を講師に招いて3人の武将と築城をテーマにしてお話しされます。最初は熊本城顕彰会理事の鶴嶋俊彦さんが「加藤清正の城づくり」について発表されました。

 

 

鶴嶋 俊彦 氏(熊本城顕彰会理事)

 

 加藤清正は天正13年(1585)から15年にかけて豊臣氏の蔵入地代官や闕所地管理の役を務めています。当時は武勇を誇った武将というより財務官僚の役目を果たしました。。後に清正の官途名となる主計頭はこの時の経歴から付けられたのではとの事でした。

 

隈本古城跡

 中世の隈本城と加藤清正が築城した熊本城は別の場所にある城です。現在の天守がある場所から南西800Mほどの場所、第一高校の周辺に中世の隈本城がありました。

慶長4年(1599)加藤清正は現在の場所に新城として熊本城の築城を開始しました。 清正は朝鮮出兵時に半島に築城された倭城から築城術を学んだのではとの事でした。

 

熊本城二葉の石垣

 

 慶長12年(1607)に隈本から熊本と改名されました。

 宇土櫓は築城当初の江戸時代は平左衛門丸櫓と呼ばれていました。清正の重臣・加藤平左衛門が管理していたことからこの名が付きました。江戸時代後期からは宇土櫓と呼ばれました。

 

宇土櫓と高石垣

 

 清正は熊本城築城だけでなく、江戸城、名古屋城の普請もしました。名古屋城には清正像が城内にあります。

 清正死後の時点では小天守はありませんでした。寛永9年(1633)の細川氏が熊本城に入った後も熊本城の改修は継続されて現在の熊本城となりました。

 

名古屋城にある加藤清正像

 

 次は三重大学特任教授の藤田達生さんが藤堂高虎の都市プランの発表をされました。

 

今治城と藤堂高虎像

 

 近江出身の藤堂高虎は浅井氏、阿閉氏、津田氏に仕えるも長続きせず、豊臣秀吉の弟秀長(大和大納言)に仕えます。主君に恵まれた高虎はここで才覚を発揮します。

 

藤田 達生 氏(三重大学特任教授)

 

 三重県熊野市の赤木城は大和大納言家に仕えた藤堂高虎が築城に初めて関わった城です。今でも石垣がよく残っています。その後の高虎の築城した城と違い、城下町はありませんでした。

 

赤木城

 大和大納言家断絶後は高虎は一時出家するも秀吉に召還されて伊予宇和島の大名となります。関ヶ原の軍功で伊予20万石に加増されて今治城を改修します。この時に層塔型の天守を築きます。今治城の鉄御門の造りは津城の大手門に似ています。今治城天守は解体されて丹波亀山城に移築されました。

 

今治城

 

 高虎の城造りは築城スピードが早いのが特徴でした。外観を早く造り、中身は後からしっかり造りました。

 津城改修時は伊勢街道は城に西側を通っていたが、北側に街道を変更します。安濃津の港を津に移します。伊賀上野城も同じように城近くの街道の位置を変えています。高虎は城造りと一緒に城下町も大きく改修しています。

 

 

伊賀上野城

 

 高虎と朝廷との関係についてのお話もありました。大和大納言家時代に朝廷とのつながりがあり、その後もそれをいかしました。

 有名な話では元和6年(1620)徳川秀忠の娘和子が後水尾天皇に入内するときに高虎が露払い役を務めて尽力しています。

 

津城

 

 次は中津市歴史博物の浦井直幸さんが豊前統治時代の黒田官兵衛の城郭の発表をされました。

 

浦井 直幸 氏(中津市歴史博物館副主任研究員)

 

中津城模擬天守

 


 中津城と高森城は国人一揆平定後の天正16年(1588)以降に築城されます。中津城は黒田氏時代に天守があったかは不明です。天正年間後期の官兵衛時代の石垣が残りますが、算木積みはまだ未発達でした。黒田氏時代と細川氏時代の石垣が見比べる事が出来る場所が中津城にあります。

 

中津城石垣(左が細川時代、右が黒田時代の石垣)

 

一ッ戸城本丸

 

 一ッ戸城は官兵衛が豊前に入ると当時の城主中間統胤は官兵衛に従います。統胤は黒田姓を与えられてそのまま一ッ戸城に入りました。細川時代に総石垣の城に改修されます。遺構がよく残る城ですが、黒田氏時代の遺構は少ないです。

 他にも平田城、矢部城山城、上伊藤田城、清水村山城、光岡城を取り上げて解説されました。

 

一ッ戸城石垣

 

 今回取り上げた城は西日本が多かったです。織豊期から近世の石垣を使った城を主に取り上げました。全国的に有名な城からあまり知られていない隠れた名城が上げられました。 加藤清正、藤堂高虎、黒田官兵衛の三人の有名武将ですが、専門家から改めて話を聞くと意外な事実が分かりました。

 

 

 3月24日(土)は埼玉県嵐山町にある杉山城での見学会がありました。日本城郭史学会主催の見学会です。今回の見学会は史学会評議員の奥田好範さんが案内してくれました。

 集合場所は東武東上線の武蔵嵐山駅でした。集合時間になって参加者はタクシーに分乗して杉山城に向かいます。この日の参加者は杉山城現地集合も含めて33名でした。武蔵嵐山駅から延べ7台のタクシーに分乗して杉山城に向かいました。

 

東郭からみた杉山城本郭、南郭方面

 

 天気予報ではこの日は雨のち曇りであまりよくありませんでした。雨天決行の見学会なのでどうなるか心配していましたが、ほとんど雨は降ることなく無事に見学会が出来ました。この日は関東では雨が降った場所は多かったですが、杉山城周辺は大丈夫でした。

 

当日の見学会の様子

 

出郭

 

 タクシーで杉山城の入口にある積善寺を目指します。積善寺の裏山が杉山城になります。積善寺の入口でタクシーを降りて一時集合してから杉山城に向かいます。

 

出郭2

 

 杉山城の南東から城内に入ります。積善寺から少し登った場所は出郭で城内になります。ここには説明板やパンフレットが置いてあります。出郭は曲輪になっていて、西側には土塁や空堀がありますが、東側は削平が不十分です。出郭全域が城として機能したかは疑問です。

 

大手口に向かう

 

 出郭のすぐ先に大手口があります。大手の虎口は土橋、空堀、土塁で守られていて、なかなかの重防御です。

 

大手口土橋と空堀

 

外郭

 

 杉山城は遺構がよく残り、喰い違いや枡形の多様な虎口、随所に見せる横矢、横堀、竪堀の巧みさの縄張りから「戦国時代の城郭の最高傑作、山城の教科書」といわれてきました。永禄年間以降(1558から1570)に後北条氏によって築城されたと考えられていました。

 

外郭北側

 

 杉山城では平成14年から19年に発掘調査が行われて、山内上杉家の特徴を持つかわらけが発見されました。一緒に出土された物は15世紀末から16世紀初頭にかけての遺構だと判断されました。後北条氏時代の遺構は発見されませんでした。

 古河公方の足利高基の書状写に「椙山の陣」の記述があり、書状の内容から椙山の陣は永正9年(1512)から大永3年(1523)の出来事だと想定されました。発掘調査と文献史料が一致したことにより永正の終わりから大永にかけて(1520前後)に山内上杉家によって築城された城だという一応の結論がでました。

 

西側馬出

 

 杉山城を見てみると巧みな縄張りに目を引きますが、土塁や空堀との距離はそれほどありません。鉄砲の使用を想定していない城に思えます。古河公方の政氏、高基親子間での永正の乱のときに一時的に使用された陣城ではないかとの事でした。

 

井戸郭土橋と虎口

 

 杉山城井戸跡

 

 南二の郭から土橋を通り井戸郭に入ります。井戸郭の名称ですが井戸跡はここにはなく、すぐ西側の数M低い曲輪にあります。井戸跡には破城の印として巨石がおかれていました。井戸郭のすぐ東側は本郭があります。空堀があり直接入れないので東側にまわってから本郭に入ります。

 

本郭東虎口から入る

 

 杉山城の中心にある本郭(本丸)は東西南の三方向に虎口がありました。現在でも東虎口と西虎口から入れます。東虎口は発掘調査から幅1.8M、高さ43センチ石列が発見されました。虎口は内部の郭に向かって「ハ」の字の形で広がる作りでした。

 

本郭東虎口

 

本郭南虎口

 

 本郭南側は「コ」の字型の土塁であり、西側の土塁の切れた箇所には虎口があります。虎口の正面には空堀があり先には井戸郭があります。ここは木橋でつないでいたと思われます。

 

本郭西虎口から北の郭に向かう

 

 本郭には三箇所虎口があり、西側の虎口から北側を目指します。

 

北二の郭虎口と空堀

 

 北側は北二の郭と三の郭の二つの曲輪があり、枡形虎口や土塁、空堀で守られています。南側に比べると少し雑な縄張りに見えます。

 

北三の郭

 

 北の郭を見学した後は本郭経由で東の郭に向かいます。ここも二つの曲輪から成り土塁、空堀、土橋、枡形虎口があります。城北側、東側は以前より整備されて、遺構が分かりやすくなり、見学しやすくなっていました。

 

本郭方面から東郭に入る

 

東二の郭土橋

 

東三の郭の土塁

 

 杉山城を見学したら杉山城の模型や史料を展示している嵐山町役場を目指します。役場に着いて史料や模型を見て、この日の見学会は終了です。現地集合の人とはここでお別れです。役場から嵐山駅まで少し距離があるので奥田さんに駅まで案内していただきました。

 

杉山城模型

 

 嵐山駅に着いたらここで見学会は解散です。杉山城は土の城で雨が降ったり、地面が濡れていると斜面部分の移動は難儀したことでしょう。当日の天気はいつ雨が降ってもおかしくなかったですが、ほとんど雨は降らずに支障なく見学出来ました。見所の多い杉山城を効率よく見学出来た見学会でした。
 

 2月27日(土)は茨城県笠間市にある笠間城での見学会がありました。日本城郭史学会主催の見学会です。今回の見学会は史学会評議員の坂井尚登さんが案内してくれました。

 この日の天気は晴天で山城見学には絶好の天気でした。つくばエクスプレスの研究学園駅に集合してバスで笠間に向かいました。バスの定員の関係もあり参加者は二十数名でした。笠間城の見学がメインですが、同じ笠間市内にある宍戸陣屋の移築門と土塁を先に見学します。

 

 

笠間城八幡台櫓(麓に移築)

 

 最初の目的地である宍戸陣屋移築門までは少し時間がかかりました。途中で以前史学会で見学した小田城を間近に通り、筑波山を車中から見ながら移動しました。坂井さんから途中にある城跡や地形の説明を聞きながらの車中でした。

 

宍戸陣屋移築門

 

 宍戸陣屋は水戸徳川家の支藩である宍戸藩の陣屋です。天和2年(1682)水戸徳川家の初代頼房の七男頼雄が1万石で宍戸に入り、幕末まで続きます。明治に入って廃藩置県を経て陣屋の西側にあった表門が現在の場所に移築されて今に至っています。江戸時代後期の安政5年(1858)に建てられた長屋門です。

 

宍戸陣屋移築門の葵家紋

 

 宍戸陣屋は中世の宍戸城を再利用した陣屋です。宍戸城の本丸周辺を陣屋としました。今でも断片的ですが土塁が残っています。宍戸城は鎌倉時代初期の有力御家人である八田知家の末裔である宍戸氏の居城でした。天正18年の豊臣秀吉の小田原征伐時に対応を誤り所領を失いました。

 

宍戸陣屋土塁跡1

 

宍戸陣屋土塁跡2

 

宍戸陣屋土塁跡3

 

 宍戸陣屋を見学した後は笠間城に向かいます。笠間城は山城ですが途中まで車で行くことが出来ます。今回は麓から笠間城に登ります。西側の笠間市街地側から登るのが一般的ですが、今回は北側の坂尾土塁から登ります。

 

坂尾土塁

 

 坂尾土塁は今でも土塁がよく残っています。左右の二つの土塁があり、土塁はそれぞれ少しずれていて喰い違い虎口を形成しています。今でも喰い違い虎口は残っています。土塁の外側には堀がありましたが、今では埋められています。正保城絵図にも笠間城の坂尾土塁の喰い違い虎口は記されています。虎口を通り城に向かう現在の道は当時の登城路の一つでした。

 

北側から城内に入る

 

 当時の登城路に近いルートである遊歩道を登っていくと車道と合流しました。車道に沿って進むと巨大な大黒石があります。大黒石は戦いの時に攻め手に対して落とした伝承がありますが、真実ではありません。石の周りが風化して堅いところだけが残り今に至りました。

 

大黒石

 

 大黒石を通り車道を進むと、千人溜跡に着きました。千人溜は曲輪の広さを活かして現在は駐車場になっています。多少の改変や破壊はされていますが曲輪の広さは今でも体感できます。ここまでは車で来ることが出来ます。笠間まで乗ってきたバスはここで待機しています。

 

大手門跡

 

 笠間城は鎌倉時代初期に宇都宮氏一族の笠間氏によって築城されたといわれています。建武4年(1337)に烟田氏の軍忠状に笠間城の記述があり、これが資料での初見です。宍戸城と同じく笠間氏の城として使用されますが、笠間氏の所領没収後は宇都宮氏や蒲生氏が入ります。江戸時代に入っても笠間城に入る大名は短い期間で転封が多くて落ち着きませんでした。江戸時代中期に譜代大名の牧野氏が笠間城に入り、幕末まで続きます。

 

本丸に入る

 

笠間城本丸

 

 本丸には八幡台櫓跡の石碑がありますが、実際はこの場所には建てられていませんでした。石碑がある場所から数Mほどずれた場所に建てられていました。

 

笠間城八幡台櫓跡の石碑

 

実際に八幡台櫓があった場所

 

 城内には門跡や建物跡だと思われる場所に複数の礎石が残っていました。貴重な遺構ですが名称版や説明板がないので気がつきにくいです。

 

礎石跡

 

 本丸を見学した後は、天守曲輪に向かいます。天守曲輪は2011年3月の東日本大震災で石垣や建造物が破損して、修復がなかなか進まずに今でも途中から立入禁止になっています。この日の見学会も立入禁止の看板の所までの見学でした。

 

天守曲輪石垣(震災前)

 

 天守曲輪にある神社の社殿は笠間城の天守を解体した時に部材を流用しています。柱をよくみると関係ない場所に穴があったりして、以前天守だったときの名残があります。

 

佐志能神社社殿(震災前)

 

 本丸に戻り、行きとは違うルートでバスの停まっている千人溜跡を目指します。途中には櫓跡や石垣がありました。

 

穴ヶ崎櫓跡

 

 笠間城見学後は麓の真浄寺に向かいます。ここには寺院には似つかわしくない二層の櫓があり、これは笠間城八幡台櫓の移築建造物です。

明治13年(1880)に城内から現在地に移築されました。原形のまま移築されたと言われていますが、出っ張った箇所などは移築後に改変されたのではと思われます。

 

真浄寺

 

 今回の見学会では櫓内にも入れました。今でも2階建て構造ですが、二階は荷物置き場になっているので入れませんでした。外観は少し大きく感じる櫓でした。

 

移築櫓内

 

 真浄寺見学で今回の見学会は終了です。バスで集合場所の研究学園駅を目指します。天気にも恵まれ、それほど寒くもなく冬の山城見学には最適な天気でした。笠間までは少し遠かったですが、笠間城と宍戸陣屋の2城を見学でき、それぞれの城の移築建築物も見学できたので、予想以上に濃い内容の見学会でした。

 12月9日(土)は日本城郭史学会の2023年度第3回城郭史セミナーがありました。テーマは「小牧山城の最新の発掘調査から」です。今回は小牧市教育委員会小牧山課の田中芳樹さんを講師にお招きしました。田中さんは今年放送されたNHKBSプレミアム「絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城 徳川家康の城(後編)」に出演して小牧山城を案内しています。

 

小牧山城土塁

 

 小牧山城が信長の居城だったのは永禄6年(1563)から永禄10年(1567)の5年弱でした。その後、天正12年の小牧・長久手の合戦の時は小牧山城は家康の陣城でした。これまで信長は4年しか小牧山城にいなかったので、その後の岐阜城や安土城に比べると見劣りするたいした城ではなかったという認識が地元の人を中心にありました。最近の発掘調査で信長時代の遺構が多く発見され、これまでの認識と違う城だと分かりました。

 

セミナー当日

 

セミナー当日2

 

  小牧山城はほぼ山全体が国指定史跡になっています。小牧山は中生代のチャートの岩山で標高86Mです。今は木が生い茂っているが堆積岩の岩山です。小牧山周辺は堆積岩が浸食しないので山の地形が残りました。
 小牧山は中世以前は不明ですが、寺院があったと考えられます。小牧山北西にある間々龍音寺に小牧山にあった堂宇(四方に張り出した屋根(軒)をもつ建物)が移転した伝承があります。

 

小牧山城遠景1

 

 織田信長が居城としたときに小牧山城の城下町は形成されました。規模は南北1.3キロ、東西1キロの規模で東西南北に延びる道路がありました。道路によって東西120M、南北80Mの長方形街区に分かれていました。道路の面した間口が6から7M、奥行きが55から65Mの短冊形の地割の街並みでした。

 

小牧山城遠景2

 

 平成10年(1998)から平成14年(2002)に城麓東側の小牧中学校跡地で発掘調査が行われました。浅い地表面の遺構は破壊されて確認出来ませんでしたが、深い場所の遺構は残っていました。
 ここに一辺40M前後の方形の形の曲輪が12発見されました。一定の区画だったので家臣の屋敷があったのではと考えられます。発掘調査後は史跡公園として整備されました。小牧山城の麓東側は幅2.5Mの堀と内側に土塁があったと考えられます。


 

 

麓東側土塁

 

土塁断面1

 

 徳川方は小牧長久手の合戦前の改修で麓を一周する土塁と堀を築きました。さらに5ヶ所の虎口も造りました。山頂に続く道を曲げて麓から登りにくくします。この時の改修は短期間で一説では5日間と言われています。時間短縮のために土塁は版築をしないで一気に盛り上げて構築しました。
 江戸時代は尾張藩によって「御勝利御開運の御陣跡」として領民の立入禁止として保護されたので遺構はよく残っていますが、昭和2年(1927)の国指定史跡後に麓に中学校や市役所が造られて一部が破壊改変されました。昭和43年(1968)に山頂に小牧歴史館の模擬天守を建てられます。この時は許可も調査もなく造られたので周辺の遺構は破壊改変されたと考えられました。

 

 

土塁断面2

 

 麓北西にある屋敷跡伝承地でも昭和63年(1988)から平成元年(1989)に発掘調査が行われました。中世期、永禄期、天正期の三期の遺構が発見されました。中世期からは土抗、柱穴、永禄期からは土塁、石列、天正期からは永禄期の土塁をさらに高く盛り足した高い土塁が発見されました。

 

屋敷跡伝承地土塁

 

屋敷跡伝承地水堀

 

 平成16年(2004)から19年(2007)に主郭周辺で試掘調査が行われ、その後発掘調査が行われて現在も継続中です。主郭から三段の石垣が、礎石建物、玉石敷き、庭園跡が発見されます。石垣は裏込め石から高さを推定しました。1.2Mから3.8Mの高さの石垣があったと推定されます。

 

主郭石垣裏込め石

 

主郭石垣

 

 石垣に使用された石は大半が小牧山の堆積岩ですが、一部は花崗岩や河原石も使用されています。花崗岩は近くの岩崎山から採掘されて搬入されています。小牧長久手の合戦時は岩崎山周辺は秀吉方の陣だったので、石垣は信長時代に造られたと考えられます。小牧山城の石垣は野面積みの平積みです。主郭の搦手側から礎石が発見されました。搦手門跡ではないかと思われます。

 

主郭石垣跡

 

模擬天守からの眺め

 

 小牧山城は国指定史跡になった後に遺構が破壊改変されたのは残念ですが、昭和の終わりから発掘調査を行い、破壊された遺構も復元されました。今でも発掘調査が行われて整備されている小牧山城は今後どんな風になるのか楽しみに思えたセミナーでした。