12月18日(土)は埼玉県小川町での日本城郭史学会主催の見学会があり、参加しました。腰越城見学会は9月に予定されていましたが、12月に延期になりました。今回の見学会は史学会委員の阿部和彦さんが案内してくれました。

 

腰越城遠景

 

 当日は東武東上線の小川町駅に集合です。駅からバスで腰越城を目指します。いつもはそれほど混まないバスですが、見学会の参加者で混雑しました。10分ほどで最寄りのバス停に着きました。

 

麓の腰越城案内図前

 

 腰越城の麓には説明板があります。腰越城を目の前に見ながら、ここでこの日の見学会の説明がありました。

 

正面の山が腰越城

 

腰越城の入口には「県指定史跡 腰越城跡」の案内があります。この細い道を進むと徐々に登り坂になります。

 

 

腰越城入口

 

腰越城に向かう

 

 最初に城北側の二重堀切を目指します。比高100Mの山城なので麓から少し登ります。滑りやすい木道がありましたが、それ以外は歩きやすかったです。腰越城の堀切は斜面まで続いて竪堀になっているケースが多かったです。東側の帯曲輪経由で城の中心を目指します。

 

腰越城腰曲輪

 

 腰越城の遺構には囮小口があります。堀に誘い込まれて、その先は行き止まりで敵の攻撃を受ける小口に似せた構造になっています。

 

 

腰越城囮小口

 

 腰越城の見所の一つである囮小口を見学したら、三ノ郭、二の郭経由で主郭を目指します。城内には何本かの竪堀がありますが、それぞれ離れた箇所にあり畝状竪堀を形成するまでにはなっていません。現地だと竪堀だと分かりますがそれほど幅がない竪堀が多かったです。

 

小口から入る

 

 二の郭から少し登った箇所に主郭があります。主郭は城内最高所にあり麓からの比高は100M程です。主郭の西側には土塁がありますが、低い土塁なので分かりにくいです。

 

腰越城主郭

 

 主郭からは木が少し邪魔ですが見晴らしがよく、城の西側が見渡せます。戦国時代前期は腰越城は扇谷上杉家の最前線でした。城の北側から西側は山内上杉家の勢力圏でした。腰悟城西側の山内家の領国を見渡す役目を果たした城だったのでしょう。

 

主郭からの眺め1

 

 

主郭からの眺め2

 

 

腰越城石碑

 

 腰越城を見学した後はバスで移動して中城を目指します。中城は小川町駅から近くで歩いて行く事が出来ます。周辺は市街地ですが、高台の地形と土塁、櫓台、空堀、小口が残っています。

 

中城二重土塁

 

 北側から南側にかけて土塁と空堀がよく残っています。曲輪に沿って空堀が掘られ、堀は幅と深さもあり意外と土木量のある堀です。空堀の内側と外側には土塁があり二重土塁を形成しています。土塁も折れがあり横矢を浴びせられる構造になっています。

 

中城喰い違い小口

 

 櫓台も残っていて現在では神社が建てられています。後世の改変もある可能性もありますが、櫓台の規模は大きいです。

 

中城櫓台

 

 中城は曲輪内にはテニスコートがあります。この日は誰もいませんでした。説明板もない城ですが遺構は意外とよく残っています。隠れた名城と言えるでしょう。

 

中城土塁と空堀

 

 中城見学後は後は大梅寺に向かいます。数分歩いたら着きました。大梅寺には二連板石塔婆があります。板碑が二基分の塔婆で頂部が二つの山形になっている塔婆は珍しく埼玉県では二基しか確認されていません。その一つがここ大梅寺にあります。

 

 

大梅寺の二連塔婆

 

 二連板石塔婆を見学したら小川町駅に戻ります。駅で解散となりこの日の見学会は終了です。今回は天気がよくて山城も支障がなく見学出来ました。

 11月27日(土)は千葉県佐倉市での日本城郭史学会主催の見学会があり、参加しました。6月の見学会以来の五ヶ月ぶりのイベントでした。今回の見学会は史学会委員の大橋健一さんが案内してくれました。

 

臼井城主郭から見る臼井田宿内内砦

 

 当日は京成臼井駅に集合して、最初の目的地である上杉謙信の一夜城公園を目指します。市街地を数分歩くと一夜城公園に着きました。公園にはひときわ目立つ一夜城の石碑があります。

 

一夜城公園石碑

 

 一夜城公園の周辺は住宅地で、発掘調査では中世城郭の遺構が発見されましたが、現在では地表面には土塁や空堀の遺構はありません。石碑がなければ普通の公園です。石碑には永禄9年(1566)の上杉謙信の臼井城攻めの事が書かれています。石碑の文章には1ヶ所だけ間違いがありました。臼井城主原胤定と書かれた箇所が間違いで正しくは「胤貞」になります。

 

一夜城公園入口

 

 一夜城公園の次は臼井城を目指します。臼井城は内郭部、外郭部、さらに外側に広がる惣構からなる城です。臼井城がある台地全体を惣構とすると南北1キロ以上になる広大な城です。最初に惣構大手門跡を目指します。

 

臼井城惣構大手門跡

 

 惣構大手門跡は発掘調査で堀や土塁が発見されていますが、現在では遺構はのこっていません。名称版もないので分かりにくいです。

 

臼井城惣構大手門跡2

 

惣構跡に入る

 

 惣構大手門跡から北に向かい、臼井城の主要部分を目指します。臼井城は台地になるので惣構に入るときに少し登ります。今でも台地の地形はよく残っています。

 

妙見社(現在 星神社)

 

 臼井城の三の丸には今でも星神社があります。星神社は以前は臼井妙見社でした。妙見信仰は北極星信仰であります。北極星=星という経緯で今では星神社になりました。

 

太田図書の墓

 

 臼井城では大きな戦いが2回ありました。1回目は文明11年(1479)の享徳の大乱に伴う、千葉氏一族の戦いでした。武蔵千葉氏の自胤と太田道灌の弟(甥ともいわれる)図書助資忠が臼井城を攻めました。臼井城には千葉孝胤、臼井持胤、臼井俊胤が入り守っていました。臼井城は落城するも太田図書他53人が討ち死にしたと言われています。

 

臼井城二の郭西側空堀

 

臼井城二の郭

 

 もう1回の戦いは永禄9年(1566)の上杉謙信の関東侵攻に伴う臼井城攻めです。

後世の軍記物では臼井城では白井入道浄三が軍師となり、見事な采配で上杉謙信を破ったと記されています。当時の資料には白井入道浄三の事は書かれていません。白井入道浄三は軍記物の創作か、話を盛った可能性があります。攻める上杉方が損害を出して、撤退したのは当時の資料からでも間違いないです。軍神上杉謙信が生涯で二度敗北してます。その一つがここ臼井城の戦いでした。

 

主郭西側櫓台

 

主郭南側土塁跡

 

 臼井城は公園化されていて主郭、二の郭がよく残ります。曲輪間の幅の広い空堀もよく残っています。土塁、櫓台も各所に残っています。主郭北側からは印旛沼や対岸に師戸城が見えます。当時の印旛沼は今より大きくて臼井城のすぐ北側まで沼でした。                                                                                                          

臼井城主郭

 

 臼井城の次は臼井田宿内砦に向かいます。臼井城は惣構を守る五つの砦がありました。今では都市化されて臼井田宿内砦のみが残っています。

 

臼井田宿内内砦の主郭相当の曲輪

 

 臼井田宿内砦は近年公園化されて整備されています。主郭曲輪、腰曲輪、土塁が残っています。砦といってもどの曲輪は意外と大きいです。

 

臼井田宿内砦東側腰曲輪

 

 臼井田宿内砦の見学が終わり、ここで現地解散なりました。この日は天気はよかったですが夕方に近づくと寒くなってきました。

 

臼井田宿内砦で解散

 

 見学終了後は京成臼井駅に戻りました。ここ臼井では毎年8月には臼井ふるさとにぎわい祭りが開催されます。

臼井ゆかりの人物の巨人軍の長嶋茂雄名誉監督と江戸時代の伝説の最強力士「雷電」のねぶたが祭りで披露されます。駅前の商業施設にはねぶたが展示されています。有志何名かでねぶたを見て見学会はこれで終了です。

 

雷電と長嶋茂雄のねぶた

 

 6月26日(土)は栃木県佐野市での日本城郭史学会主催の見学会があり参加しました。4月の大会は何とか開催出来ましたが、5月の見学会は中止となり、二ヶ月ぶりのイベントでした。今回の見学会は史学会委員の笹崎明さんが案内してくれました。

 

植野陣屋移築門

 

 当日は東武鉄道佐野市駅に集合です。東武鉄道も都内は本数が多いけど、佐野線は1時間に一本しか走っていないローカル線でした。佐野市駅に着いたら駅舎内は見学会の参加者で賑やかでした。集合時間になり、この日の予定を説明してから、最初の目的地である東光寺を目指します。

 

佐野市駅前

 

 佐野市駅から10分ほど歩いたら、東光寺に着きました。ここ東光寺には植野陣屋で使用された二門が移築されて残っています。一門は東光寺の中門で使用されています。すぐ隣に説明板があるので移築門である事が分かります。もう一門は少し離れた所にあり、案内が一切ないので移築門である事を見逃しそうです。

 

 

植野陣屋移築門

 

 東光寺は敷地が広く、大規模な寺院でした。歴史も古く、延暦年間(782~806年)伝教大師最澄を開基として創建されたと言われています。その後は衰退するも、鎌倉時代に康元元年(1256)に天台宗から臨済宗に改宗して再興されました。植野陣屋の堀田氏によって領内の菩提寺として保護されました。そういう経緯もあって陣屋の門が移築されました。

 

東光寺前

 

 東光寺を出て少し歩いたら植野地区公民館に着きました。昭和を代表する歴史作家司馬遼太郎は昭和20年佐野に滞在していました。司馬が所属する戦車連隊が本土決戦に備えて佐野に駐屯したので、昭和20年8月の終戦までの短い期間でしたが佐野で過ごしていました。ここで司馬は今後の人生の方向性を左右するような強烈な体験をすることになりました。

ある日、作戦について説明するために大本営から将校が訪れて、戦車連隊の士官を集めます。説明を受けたのちに司馬はこの将校に質問しました。「戦車連隊が上陸した米軍相手に進撃するときに途中で避難してくる住民と数遇して、戦車が立ち往生するのでこの場合はどうしたらいいか」という質問です。それに対して大本営の将校は「(住民を戦車で)ひき殺してゆく」と答えました。

 司馬は国民をひき殺せといった将校の話を聞いて、民衆を守るのが目的ではなく、民衆の命よりも軍の任務のほうが大事なのかと大きなショックを受けました。「こんな愚かな戦争を日本人はどうしてやってしまったのか」との問いが司馬の大きな疑問となっていき、その謎を解くために多数の小説を書きました。ここ佐野での体験が小説家司馬遼太郎の原点とも言えます。

 この司馬のエピソードは有名ですが、佐野での話だった事を知る人は意外と少ないかと思います。

 

 

司馬遼太郎石碑

 

 公民館を出て、南に1キロちょっと歩いたら、植野陣屋跡に着きました。ここ植野陣屋は江戸時代に堀田氏の陣屋がありました。堀田氏は佐倉の堀田氏の庶流で江戸時代初期に佐野植野に1万石に入封していましたが、その後転封となりました。江戸時代後期の文政9年(1826)に再び佐野に戻ってきました。堀田氏は城主格に上がった事もあり植野陣屋は佐野城と呼ばれるようになりました。堀田氏は植野に陣屋をおいて統治しましたが、佐野周辺の所領は佐野南部の植野、赤坂、田島の三村6000石ほどでした。現在の佐野市役所がある中心地は堀田氏の所領ではありませんでした。

 

植野陣屋跡

 

 植野陣屋跡には説明板や石碑があって、ここが陣屋跡だと分かりやすくなっています。陣屋跡は開発されて住宅地になっていて、遺構は土塁の一部と庭園跡しか残っていません。

 

 

植野陣屋平面図

 

 植野陣屋の庭園には御泉水(おせんすい)と呼ばれた池がありました。今でも池が残っていて整備されています。御を付けて読むとあまり綺麗そうではない名前になってしまいますが、庭園の池なので本来は綺麗な池でしょう。当時の池は今より一回り大きかったみたいです。

 

御泉水跡

 

 陣屋南側には土塁の一部が残っています。周辺より高くなっているので分かりやすいです。陣屋時代に北東にあった稲荷が土塁上に移されて堀田稲荷になっています。残っている土塁はここだけですが意外と高い土塁でした。

 

植野陣屋土塁跡

 

植野陣屋土塁跡から

 

 植野陣屋の次は佐野城を目指します。佐野城まで北に3キロはどあり、今回の見学会で一番歩きました。途中から北に向かって一直線の道なので分かりやすかったですが、なかなか佐野城には着きませんでした。こちらの佐野城は佐野氏が築城した城で、佐野駅のすぐ北側にあり佐野市の中心部に位置します。別名で春日岡城、春日山城とも言われています。佐野城といったらこちらの佐野城を連想する人が多いと思います。

 

万葉の里城山記念館前

 

 こちらの佐野城は比高20Mの独立丘陵に築城されています。慶長7年(1602)に佐野信吉が唐沢山城からここ春日岡山に築城を開始して居城を移しました。佐野氏は慶長19年(1614)に改易になったので、佐野城はこの時に廃城となります。城の歴史が10年ちょっととあまりにも短かったためか、城の様子を描いた絵図は残されていません。江戸時代初期の史料である下野一国に佐野城の事が記されています。

 

本丸と二ノ丸の堀切

 

 佐野城はこれまで17次にわたる発掘調査が行われて来ました。石垣、石畳の通路、礎石建物跡や石組の溝が発見されました。これらの遺構は一部を除いて保存のために埋められています。

 

春日岡城本丸虎口周辺

 

 佐野氏は藤原秀郷を祖とする下野の藤姓足利氏の一族で、治承寿永の乱で藤姓足利氏が没落した後に佐野氏は台頭しました。鎌倉、南北朝、室町、戦国時代と本貫の地である佐野周辺の所領を守りながら佐野氏は続いてきました。豊臣秀吉側近の富田一白の子信吉を養子にもらって存続を図るも、江戸時代初期に改易となりました。 兄である伊予宇和島の大名である富田信高の改易に連座して改易となりました。富田信高も大久保長安事件の連座と言われています。佐野氏は連座の連座で改易なのでかなり無理があるように思えます。北関東に豊臣系の大名がいたのを幕府が気にしての改易ではなかったのかと想像します。

 

本丸南側虎口跡

 

 佐野城の独立丘陵の地形はよく残っていて、今でも城山と呼ばれています。城山公園として整備されていますが、整備され過ぎているのが少し残念です。それでも曲輪間の堀切は今でもよく残っています。各曲輪も整備され過ぎていて、城跡というより公園になっています。

 

 

本丸、北出丸の堀切

 

北出丸跡

 

本丸と二ノ丸の堀切

 

三の丸南側

 

 今回の見学会は二つの佐野城ですが、江戸時代後期堀田氏の佐野城は城と言うより陣屋の印象が強いです。佐野市の中心からも外れた場所にあります。江戸時代初期で廃城になった佐野氏の春日岡城の方が、今でも佐野市の中心にあり、佐野城の印象が強いです。

上記の事から堀田氏の佐野城を植野陣屋、佐野氏の春日岡城を佐野城と記しました。

 

 

 佐野駅北口に集まってこれで今回の見学会は終了です。梅雨の時期に開催で天気は心配でしたが、大丈夫でした。7月、8月は史学会の予定はありません。次回は9月に埼玉県の腰越城の見学会を予定しています。

 

 

 3月27日(土)は埼玉県さいたま市岩槻城での見学会があり参加しました。日本城郭史学会主催の見学会です。昨年の武漢ウィルスの影響で2020年は3月以降の活動は一時中止となり約1年ぶりの城郭史学会の見学会でした。今回の見学会は史学会委員の阿部和彦さんが案内してくれました。阿部さんは2019年6月の小金城以来の案内です。城郭史学会のイベントがなかったので当ブログも久しぶりの更新です。

 

岩槻城址公園の桜

 

 当日は岩槻駅改札外に集合です。集合時間が近づくと参加者は徐々に集まり始めました。1年ぶりに再会する方が多かったです。この日は天気がとてもよくて見学会開催には絶好の日よりでした。岩槻駅を出て最初の目的地である岩槻郷土資料館を目指します。

 

1年ぶりの見学会開始

 

 郷土資料館の前の道は江戸時代は日光御成道でした。徳川将軍家の日光社参専用道路として整備されました。日本橋を起点に途中で本郷追分で中山道と分かれて、岩淵、川口、鳩ケ谷、岩槻を経由して幸手で日光街道に合流する街道でした。

 

旧御成道前

 

 郷土資料館の建物は昭和初期に建築された警察署を利用しています。岩槻の歴史資料を展示していて無料で見学できます。岩槻城の立体模型を見て、これから見学する岩槻城の概要をイメージします。
 

岩槻郷土資料館

 

 郷土資料館を出て西に少し進むと加倉口跡を通ります。ここは岩槻城南西の入口です。今は何も残っていませんが城外は城内より少し低くなっているのが現地に行けば分かります。

 

加倉口跡

 

 次は浄国寺を目指します。浄国寺は江戸時代初期に岩槻城にいた阿部氏の菩提寺であります。浄国寺のお堂の瓦には松平家の葵家紋が記されています。徳川家康の異母弟である久松松平定勝の娘正寿院が岩槻藩の阿部重次に嫁ぎました。家康の姪が嫁いだ事から葵家紋が描かれました。
 

浄国寺の桜

 

浄国寺のお堂の葵紋

 

岩槻藩主阿部氏の墓所

 

 岩槻城はこれまで太田道灌が築城したといわれてきました。鎌倉大草子に「長禄元年(1457)四月上杉修理大夫持朝入道、武州河越の城取立てらる、太田備中入道(道真)は武州岩付城を取立、同左衛門大夫(道潅)は武州江戸の城を取立ける。」の記載があり、これを根拠としてきました。近年の研究では鎌倉大草子の記載内容は疑問視される事があります。最近では岩槻城は古河公方側の成田氏によって築城されたのではといわれています。現地岩槻では今でも太田道灌の城だと顕彰されています。真偽は何れでしょうか。

 

太田道灌像

 

 次は芳林寺を見学します。ここは太田氏ゆかりの寺院で太田氏の供養塔、入り口には騎乗する太田道灌の銅像があります。岩槻太田氏の氏資と母芳林院の霊廟があります。太田氏資は道潅の曾孫である太田資正の長男で小田原の後北条氏と組んで父資正を岩槻城から追い出して岩槻太田家の家督を継ぎました。その後、氏資は上総三船山合戦で討ち死にします。

 

芳林寺前

 

太田氏資と母芳林院の霊廟

 

 岩槻市内には江戸時代後半に開設された岩槻藩藩校の建物が残っています。埼玉県で唯一残る藩校の建物です。1799年(寛政11年)岩槻藩の儒学者児玉南柯(こだまなんか)が創設した私塾として始まり、文化年間に藩校となりました。
 江戸時代中期に大奥で江島生島事件が発生しました。江島生島事件は大奥最大の事件で今でも有名な出来事です。児玉南柯の祖父豊島常慶はこの事件の当事者の江島の弟になります。常慶は江島の血縁者なので連座となり一時期流罪になりました。豊島氏出身の南柯は岩槻藩士児玉氏の養子となりました。

 

岩槻藩藩校遷喬館

 

 岩槻には時の鐘が残っていて、今も決まった時間に鐘が鳴り時報の役目をします。同じ埼玉県の川越の時の鐘ほど有名ではありません。あまり目立たず町中にひっそりとありました。江戸時代に「岩槻に過ぎたるものが二つあり、児玉南柯と時の鐘」と言われていました。その二つに関係する建物が今でも岩槻に残っています。

 

時の鐘

 

 次は浄安寺を目指します。ここ浄安寺には江戸時代初期に岩槻城に入った高力清長の墓があります。高力清長は永禄年間に三河三奉行の任命されて「仏の高力」といわれていました。その後、高力氏は島原の乱後に肥前島原へ転封となり岩槻を離れました。ここにある山門は御成街道の田中口にあった門を移築したといわれています。

 

浄安寺山門

 

浄安寺境内

 

 浄安寺の途中に渋江口跡があります。ここで御成道と旧鎌倉街道である中ノ道が合流しています。道の隅にひっそりと石碑があります。

 

渋江口跡

 

 岩槻城は本丸、二の丸、三の丸は都市化されて市街地になっていて石碑があるだけで遺構は全く残っていません。城の南側の新曲輪と鍛冶曲輪の部分が岩槻城址公園になっています。公園内には曲輪と土塁、空堀、馬出、城門が残っています。公園内には岩槻城で使用されていた長屋門と高麗門が移築されています。城のどこで使用されていた門かは不明です。門はよく見ると少し傷んでいるのが分かります。門が修復されるのを望みます。

 

岩槻城の移築門

 

 移築門を見学して岩槻城の新曲輪、鍛冶曲輪に入ります。新曲輪は名前の通りに1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐に備えて築かれた曲輪だと思われます。隣接する鍛冶曲輪もこの時に一緒に築かれた思われます。この二つの曲輪は土塁と空堀がよく残っていました。土塁の上を歩ける箇所があるので土塁上を歩いて見学しました。

 

鍛冶曲輪

 

新曲輪土塁上

 

新曲輪土塁2

 

 新曲輪と鍛冶曲輪の間の空堀には発掘調査の結果で堀障子がある事が確認されています。堀障子は堀底に設けられた畝などの障害物で静岡県山中城の堀障子が有名です。岩槻城の堀障子は発掘調査後に埋められて、今ではその上に土管を配置されていています。

 

堀障子跡

 

 岩槻城には少し分かりにくいですが曲尺(かねの)馬出が残っています。曲尺馬出は角馬出の一種で直角に曲がった塁濠部分にある長方形の馬出です。岩槻城には二つの曲尺馬出が残っていますが、説明板等の案内がないので気がつかずにそのまま通り過ぎる人が多いです。せっかくの城郭遺構が残念です。
 

この先は曲尺馬出

 

 岩槻城新曲輪を見学した後は最後の目的地である愛宕神社を目指します。岩槻城は城下町を大構の土塁で囲んでいました。その長さは8キロにも及んだそうです。現在では都市化された大構の土塁はここ愛宕神社にしか残っていません。土塁の上には愛宕神社が鎮座しています。高さは5M以上ある土塁です。

 

愛宕神社(大構跡)

 

 これで今回の見学会は終了です。この日の見学会は2020年度最初で最後の見学会になりました。5月以降も見学会を予定しているとの事です。予定通り開催される事を期待しながら今回のブログも終了します。
 

 津久井城見学会の様子は一回でまとめる予定でしたが、写真が多かったので二回に分ける事にしました。後半が始まります。

 

家老屋敷の石積み

 

 大手道を何とか登って、山頂の城域に着きました。山頂の本城曲輪の一段低い場所にある米曲輪でしばし休憩です。

 

米曲輪

 

 米曲輪の斜面には畝状竪堀群があるが、近くにいって見学するのは大変との事でした。それでも見学したい人はどうぞという事なので、半分ほどの人が竪堀を見るために斜面を降りていきました。道が全くなくて降りれそうな場所を探しながら何とか堀跡に着きました。

 

畝状竪堀群を求めて

 

 写真だと分かりにくいですが、現地だと何本かの竪堀がはっきりと分かりました。説明板や案内板は一切ないので知っている人の案内がなければ竪堀まで行くのは難しいです。

 

津久井城畝状竪堀群

 

 道がない斜面を降り、畝状竪堀群を見た人達は皆一応に満足された事でしょう。行きの下りも、帰りの登りも大変でしたが、見学した人達は何とか無事に帰ってきました。

 

畝状竪堀群を見学中

 

 津久井城の見所の一つである畝状竪堀を見学したら、米曲輪内の見晴らしがいい場所に移ります。

 

米曲輪からの眺め

 

 米曲輪からは北側方面がよく見えて、津久井湖越しに高尾山、八王子城方面が見えます。直線距離で高尾山まで5.5キロ、八王子城まで8キロと意外と近いです。天正18年(1590)に八王子城が落城して黒煙があがる様子は津久井城からはっきり見えた事でしょう。

 

米曲輪からの眺め2

 

 米曲輪を見学したら山頂の本城曲輪に行きました。本城曲輪は鉄塔が以前建てられていて、そのため発掘調査をしても詳細は分からなかったそうです。曲輪の東側に虎口があり、門跡に礎石建物があったとの事でした。

 

本城曲輪にて

 

土蔵曲輪の倉跡

 

 本城曲輪群を東側から出て、途中にある堀切を横切り、家老屋敷を目指します。

 

堀切を縦断中

 

 家老屋敷には石積みが残っています。八王子城や太田金山城の石積みに似た積み方です。曲輪の下側の斜面に残っているので分かりにくいですが、石積みを見るために斜面を降りる人が多かったです。

 

家老屋敷にて

 

 家老屋敷見学後は飯綱曲輪群を目指します。

 

飯綱曲輪に向かう

 

 飯綱曲輪群の中心に飯綱神社があります。飯綱権現は長野県の飯綱山に対する山岳信仰を発祥としています。関東では高尾山が飯綱権現の総本山になります。津久井城にある飯綱神社は高尾山から分祀したものです。飯綱権現は不動明王の化身みたいに思われて、戦国時代に人気がありました。

 

飯綱神社

 

 飯綱曲輪群の奥に行けば相模原市や東京、横浜方面が見渡せるミハラシがありました。

 

飯綱曲輪群ミハラシからの眺め

 

 最後に飯綱曲輪群の端にある宝ヶ池に向かいました。宝ヶ池は本来は今の半分くらいの池でしたが、近年に拡張されました。今でも水が湧き出ていて、水は枯れた事はありません。水は白く濁っていました。

 

宝ヶ池にて

 

 飯綱曲輪群を見学後は津久井湖方面を目指して下山開始です。

 

下山中

 

 最初は緩やかな道でしたが、途中から少し急な道になりました。遊歩道の途中には何本かの竪堀跡がありました。遊歩道を下りしばらくすると津久井湖畔の観光センターが見えてきました。観光センターからでも竪堀が見えるとの事なので最後に竪堀を見ました。

 

麓にある竪堀

 

 今回の見学会は観光センターで解散です。今回案内してくれた中川氏と野口氏の両名からお話しがありました。麓の根小屋、山頂の曲輪群と見学しましたが、これでも津久井城の7割ほどしか見学していないとの事でした。

 

今回の案内人のお二人

 

 今回の見学会は山城で楽ではなかったですが、個人では行きにくい場所に行けました。通常は入れない大手道から城に行けて、案内が一切なくて分かりにくい畝状竪堀群、石積みを見学できて、とても満足いく見学会でした。