9月15日(日)に静岡古城研究会主催で歴史シンポジウム in BiViふじえだが開催されました。テーマは「今川氏の城郭と合戦」です。室町時代から戦国時代の今川氏をテーマとした基調講演と静岡古城研究会からの研究発表があります。今回の基調講演をされる小和田哲男さんは城郭史学会の設立以来の委員でもあります。今回のブログはシンポジウムの観覧記です。

 

 

 この日のシンポジウムは藤枝駅前にあるBiVi藤枝での開催です。開場時間には既に何名の人が今や遅しと並んでいました。定員は100人を予定していましたが、一ヶ月前には満員になりました。当日は100人以上の椅子を用意していましたが、開始時間の10時にはほぼ満席になりました。

 

 

 10時になりシンポジウムが開始です。最初に静岡古城研究会の望月保宏会長からの挨拶がありました。

 2019年は今川義元生誕500年、伊勢宗瑞こと北条早雲没500年との事でした。戦国時代を代表する歴史人物二人がちょうど500年に生まれ、死んだ年です。

気になって調べましたが北条早雲は1519年永正16年8月15日に死去しています。今川義元は同じ1519年に生まれていますが、生まれた月や日までは分りませんでした。早雲、義元は少しでも同じ時期に生を得ていたのか、入れ違いでこの世に生を受けたのかは分りません。

 

望月会長の開始の挨拶

 

 次に静岡大学名誉教授の小和田哲男さんからの基調講演です。今川氏館を中心とした講演でした。

 今川氏館は江戸時代の地誌にも記載はなくて、正確な場所が分らず幻だと言われてきました。1568年永禄11年に女戦国大名と言われた今川氏親の正妻の寿桂尼が死去したときに遺言で館の北東に埋葬するようにいわれ、寿桂尼は龍雲寺に埋葬されています。これらの事から館のあった場所は推測できます。ちょうど駿府城周辺が今川氏館だったとの事です。
 駿府城の二の丸跡で県立美術館建設で発掘調査を行ったら、80センチ掘ったら明治期の
陸軍34連隊関連の遺構が出てきました。さらに5センチ掘ると江戸期の遺構、さらに20センチで慶長年間の家康時代の遺構、さらに1M掘ったら今川氏の遺構が出てきたとの事です。
 

小和田哲男 静岡大学名誉教授

 

 今川時代は駿府城という名称を使いたくないとの事でした。庭園の正確な場所は分らないが推定は出来きます。今川氏館跡には池があり、池のそばには建物がありました。阿波守護所の勝瑞城でも池のそばに建物がありました。今川氏館は富士山を借景として池や庭園があったのではと思われます
 今川氏の領国の駿河、遠江、三河は太閤検地では石高が70万石しかなくて、意外と米の生産量は低かったです。
 領国内には安倍金山などがあり金が算出されました。義元時代の公家の日記では今川氏から金を貰った記述があります。今川氏は商人を優遇したので商品流通経済が発達しました。磐田の見附では商人の自治が認められて、商人から多数の運上金を取っていたとの事です。今川義元は70万石の領国に金山と流通経済を加えて富国強兵を成し遂げました。
 

小和田さんの講演の様子

 

 次は静岡古城研究会の前会長で今は名誉会長になられた水野茂さんの発表です。テーマは永享の乱と謎の狩野氏城郭です。

 1433年永享5年、今川範政が嫡子の範忠ではなく、末子の千代秋丸に家督を譲ろうとします。千代秋丸の母は関東の上杉氏の一族・扇谷氏定の娘でした。6代将軍義教は関東と血縁関係のある人物が関東との最前線の駿河守護になるのを好ましくなくて反対します。結局は嫡子の範忠が今川家の家督を継ぎます。

 範忠に反対した駿河の国人、狩野氏、興津氏、富士氏らが一揆を起こして駿河は内乱が勃発します。これを永享の内乱(内訌)と呼びます。

 

水野さんの講演の様子1

 

 駿河国人の内乱は遠江、三河援軍を得て狩野氏の居城の湯嶋城と奥城の陥落で鎮圧されます。奥城は奥池ヶ谷城だと言われています。静岡市葵区羽鳥と磁悲尾の間にある安倍城は南北朝時代の狩野氏の居城だと言われてきました。

 永享の内乱で範忠に抵抗した狩野氏は安倍郡に領土を持っていました。今の安倍城の北の松野周辺に黒山の地名がありました。黒山は境界地名で狩野氏の勢力圏の境界であった可能性もあります。今でも葵区の玉川地区は狩野姓が多いです。今の安倍城は狩野氏の勢力範囲から外れた場所にあり、狩野氏の居城としてはおかしいとの事でした。

 

水野さんの講演の様子2

 

 安倍郡の見月山の南に大篠山城があります。この山城は3本の堀切で防御されていて、標高1000Mを越えて人を寄せ付けない険しい地形になっています。南北1キロ以上あり、静岡県でも最大級の山城になります。ここが南北朝時代の安倍城で永享の内乱のときの奥城ではないかとの事でした。深い堀や高い土塁で防御された城ではないですが、険しい地形が天然の要害となっています。

 水野さんはこの城の調査に命がけで行ったとの事でした。今後この城の調査を続けてくれる人を募集しているとの事でした。

 

水野さんの講演の様子3

 

 水野さんの発表が終了して、午前の部が終わり昼食休憩です。

 午後の部の最初は静岡古城研究会会長の望月保宏さんの発表です。テーマは義忠・氏親の遠江侵攻を城郭です。

 今川一族で九州探題にもなった今川貞世が遠江と駿河の半国守護となるも、応永19年に斯波氏が遠江守護となり今川氏は駿河一国の守護に縮小します。貞世の子孫は遠江に所領を持ち、遠江今川氏となり、後の堀越氏として続きます。遠江奪還を目指す今川氏とって応仁の乱は好機でした。東軍に付いた今川義忠はが西軍の斯波氏を討つ名目で遠江侵攻を始めます。

 

望月さんの講演の様子1

 

 1576年文明8年、今川義忠が遠江に出兵して横地氏の横地城を攻略して、駿河への帰路の塩買坂で横地、勝間田氏の残党の攻撃を受けて流れ矢が当たり戦死します。実際は義忠が横地城の攻略に失敗して、退却中に攻撃を受けて戦死したのではとの事でした。

 1487年長享元年、子の氏親が小鹿範満を討って今川家の家督を正式に継いで、遠江侵攻が再会します。

 1494年明応3年に氏親の叔父伊勢宗瑞(北条早雲)が今川家の軍勢を指揮して遠江に侵攻して、原氏の高藤城を攻めます。高藤城はゴルフ場開発で消滅したが城域が広い城で斯波氏が助力して築城したのではとの事でした。

 

望月さんの講演の様子2

 

 斯波氏は信濃小笠原氏を味方にして反撃するが、今川氏の侵攻で徐々に遠江領国を失います。1508年永正5年、今川氏親は遠江守護に補任されますが、遠江での戦いは終わりませんでした。

 1517年永正14年の引馬城の攻防では今川氏親は安倍山の金掘衆を使い、水の手を絶って城攻めをして攻略します。金堀衆を使って城攻めをしたのは武田信玄が有名ですが、信玄が生まれる前に同じ事例があったのは驚きでした。金堀衆の城攻めは信玄オリジナルではなくて氏親の城攻めを真似たのかもしれません。

 

望月さんの講演の様子3

 

 次は静岡古城研究会副会長の平井登さんの発表です。テーマは"花蔵の乱"城郭から見る真相です。

 1536年天文5年、今川氏親と弟の彦五郎が急死して、その跡目をめぐって弟の栴岳承芳(せんがくじょうほう)と玄広恵探との間で戦いが起こります。これを花蔵の乱と呼びます。栴岳承芳が勝利して今川家の家督を継いで今川義元になります。

 

平井さんの講演の様子1

 

  花蔵の乱の原因となった氏輝、彦五郎の同時死亡は当時の史料である高白斎記や為和集に書かれています。義元と恵探の間では方ノ上城、遍照光院、花倉城と3箇所で戦いがあったとの事です。

 葉梨村誌に出ている遠見番所は本丸の先が丸くなって土塁で囲まれています。入野支塁は街道封鎖を目的として、高所ではなくて中腹に造られています。

 曲輪が奥にあり、その外側に土塁、空堀が続いて空堀の外側に出撃できるようにするのが城の基本的な構造になります。桂島陣場はこの構造にそのまま当てはまる構造との事でした。

 

平井さんの講演の様子2

 

 恵探が籠もる葉梨城の東側に桂島陣場、遠見番所、村良支塁、入野支塁、朝日山城、朝比奈城、上野山城の城や陣城があり、これらの城の配置は鶴翼陣形にも見えます。志太郡誌に記されている義元軍の鶴翼陣形はこの事をいっているかもしれません。

 これらの城や陣城からの攻撃を支えられなくて葉梨城は落城して、恵探は自害します。

 

平井さんの講演の様子3

 

 次は静岡古城研究会会長の川村晃弘さんの発表です。テーマは河東一乱と城郭です。

1536年天文5年の花蔵の乱に勝利した義元は今川家の家督を継ぎます。義元はこれまで敵対関係であった甲斐の武田信虎から娘を貰って結婚します。これに対してこれまで同盟関係にあった相模の北条氏綱との間で関係が大幅に悪化して、氏綱は富士川以東を攻めます。この出来事を河東一乱といいます。

 

川村さんの講演の様子1

 

 河東一乱は長い間続いていた割には激しい戦いはなかったそうです。隣の家同士でにらみ合っていたのがいい例えかもしれません。今川、北条の川中島と言われることがありますが、武田、上杉が無数の城や砦を川中島周辺に築城したのに比べると、河東一乱は周辺にあまり城はなくて、縄張りも期待できないとの事でした。

 

川村さんの講演の様子2

 

 1541年天文10年に武田と北条でそれぞれ家督が変わって、関係改善が図られるようになります。これで今川と北条で争う意味がなくなります。

 1545年天文14年に第二次河東一乱が起こり、今川義元は7月24日に駿府を出陣してその日のうちに善得寺に入ります。1日で40キロの距離を移動してかなりの行軍スピードでした。今川義元は馬に乗れないほど太っていたと言われているが、そのような史料は全くなくて、龍造寺隆信の話をごちゃ混ぜになっているのではとの事もでした。太って遅いイメージの義元ですが、1日で40キロも移動して実像は全く違います。

 1554年天文23年の甲相駿三国同盟成立まで河東一乱は続きました。本来ならば三国同盟はもっと早い時期に成立できたのでとの事でした。

 

川村さんの講演の様子3

 

 川村さんの発表が終わったら、これまでの発表者がパネリストになっての討論会です。ここまで司会役だった松野輝洋さんが討論会のコーディネーターを務めてくれました。松野さんは前藤枝市長で元静岡放送キャスターでもあります。 

 討論会の最初にシンポジウムに参加されていた本多隆成静岡大学名誉教授から駿府城の天守台についてのお話しがありました。最近発掘された天守台は中村時代のものではなく、天正時代の家康のものだという事でした。天守台は諸説があり何時の時代のものか確定するにはもう少し検証が必要みたいです。

 

討論会の様子

 

 司会の方からパネリストにオススメの今川氏の城を一つあげて下さいとの質問がありました。沓掛城、葉梨城、花沢城との答えがありました。水野さんと小和田さんは同じ賤機山城を上げられました。賤機山城は今川氏の詰めの城と言われていますが、文献史料には全く記述がありません。武田氏が改修した可能性がありますが、武田氏が改修した資料もありません。静岡市の市街地にある山城ですが、意外と謎の城です。

 他にも質問があり、それぞれのパネリストが答えて討論会は進みました。

 

パネリストの方々

 

 望月会長から今川氏の城郭は明確な特徴がないのが特徴だというお話しがありました。

 戦国時代の軍忠状や手合注文等の文章に鉄砲での死傷者が記されているので1561年永禄4年が最初です。1575年天正3年の長篠合戦で大量の鉄砲を使った織田徳川方が勝利をして、城郭にも鉄砲での戦いを想定するようになってきました。そして城の造りも変わってきます。その前に今川氏は大名家として滅亡しています。今川氏の城は本格的に鉄砲が使用される前の城郭で、鉄砲での戦いを城造りに取り入れることはなかったです。

 

水野茂名誉会長

 

 パネリストの方の討論会も予定時間になったので終了です。6時間以上に渡るシンポジウムですが終わってみると短かったです。今回は今川氏がテーマですが、今川氏はこの後に今川義元のもとで最盛期を迎えます。桶狭間合戦の敗北、そして大名家としては滅亡します。これらのテーマは次回以降になることかと思います。

 今回にシンポジウムを聞いて、これまで静岡県の城あっちこっちを行きましたが、今川氏の城に行った事は少なかったです。オススメの城も行ったことがない城が多かったです。静岡県の城の奥深さ改めて感じたセミナーでした。

 静岡古城研究会の今川氏に対する愛着も感じました。

 なお、今回のシンポジウムのブログの掲載は静岡古城研究会の了承を得ています。

 

 8月17日(土)は日本城郭史学会の2019年度第2回城郭史セミナーがありました。テーマは「改元と大嘗祭 奥山家文書から」です。今回のセミナーは城郭史学会委員の伊藤一美さんを講師に招きました。伊藤さんは鎌倉考古学研究所の理事や横須賀の三浦一族研究会の会長を勤め、地元葉山、藤沢、逗子で教育、文化財に携わってきた方でもあります。
 

 

グリーンンカレッジホール

 

 この日のセミナーは先月と同じ板橋区グリーンカレッジホールで開催です。8月17日はとても暑くて東京では最高気温が35度でした。セミナー会場は冷房があるので外の暑さは関係なく快適でしたが、会場に着くまでが暑かったです。

 

講師の伊藤一美さん(城郭史学会委員)

 

 今年は平成から令和への改元で、春には即位礼があり、秋には大嘗祭があります。城郭史研究のセミナーですが、即位の儀と大嘗祭は今が旬の今年だけの話題でもあるので、敢えてテーマにしたとの事でした。城を中心とした歴史ならばある程度分かります。即位の儀と大嘗祭は言葉は聞いたことがありますが、具体的な内容はあまり知りません。

 今回のセミナーは未知の話題がテーマでした。

 

セミナーの様子1

 

 最初に即位の礼と大嘗祭の歴史と内容について解説しました。

新嘗祭の元は4から5世紀の古代大王時代の収穫祭でした。当時の大型宮殿跡から稲粟、栗、鯛、鯖、桃が発見されています。桃は悪魔を祓う役目があり特別でした。神への捧げ物に使ったそうです。
 新嘗祭が天皇の即位とつながり大嘗祭となっていきました。

 

セミナーの様子2

 

 即位の儀の形は中国風だが内容は日本独自のものになっています。即位式はオープンな儀式であり、春または正月に行われます。朝から開始されて、皇后陛下も同伴されます。文武百官が参加するので多数の人が参加します。
 古来の即位式では近衛府、兵衛府の軍勢が掛け声とともに行進して衛府長官が旗を振って万歳を唱えました。中国では万歳の発声は外国の使者の役目でした。
 令和の即位式では安倍首相が国民の代表として万歳を唱えました。
 

大嘗宮の説明をする伊藤一美さん

 

 大嘗祭は天皇と神だけの人目にふれない儀礼であり、神への報告でもありました。霜月11月に開催されて、裏方は多いですが大嘗宮に入るのは采女と内膳司官人だけで参加人数は少ないです。皇后陛下の出番はありません。

 現在、江戸城の本丸で大嘗宮の建設が始まっています。中には入れませんが、大嘗宮の外からは建物や工事の様子を見ることが出来ます。

 

セミナーの様子3

 

 大嘗祭は大嘗宮で行われて悠紀殿(ゆきでん)と主基殿(すきでん)から成り立ちます。
悠紀殿にはトイレがあり、昔は使ったらしいが、今は使う事はありません。平城京では悠紀殿のトイレ跡が発掘されました。現在は儀式に参加する人は前日、前々日から水を最小限しか取らないで大嘗祭に備えています。
 主基殿の「すき」は次の意味があり、悠紀殿での大嘗祭の次は主基殿で挙行される。
 大嘗祭1日目は夜21時から開始されて、2日目の夜中3時から主基殿にて行われます。

 

 セミナーの終盤になって、下館藩石川家の家老だった奥山家に伝来する文章を使っての大嘗祭の解説になりました。

 

奥山家文書の大嘗會調度図絵巻

 

 1687年貞享4年10月28日に東山天皇の大嘗祭が挙行されました。この絵巻は大嘗祭で出された料理や調度品の絵図と簡単な解説が記されています。大嘗祭の詳しい様子はほとんど知られていません。今思うとこの絵巻は貴重な絵巻でした。惜しいことに終了時間が迫っていたので早足で絵巻を見ました。

 

用意される料理の一覧

 

 様々な料理が出て来ますが、中には変わった料理もありました。その一つに大根を使った人型をした料理があります。

 

人形の野菜とねじり2本

 

 カワラケの箸置きは最高のもてなしだそうです。下の絵図の箸置きは神様をもてなすためのものです。

 

箸置き

 

 鮑、鯛、鰯、鯵の御菜(読みは「おさい」、意味は「おかず」)を平盤一杯に高盛ります。神様に出す料理なので山盛りで出されるそうです。

 

鮑、鯛、鰯、鯵の御菜の絵図

 

 スライドの最後に天皇陛下が皇太子時代に書かれた書籍を紹介しました。皇太子時代のご講演をまとめた本で題名は「水運史から世界の水へ」です。書店でも購入できます。

 

天皇陛下の著書

 

 「即位の儀と大嘗祭」の言葉は知っていても詳しいことは分かりませんでした。西ヶ谷代表も始めて聞く話があったそうです。今年の11月に大嘗祭が行われますが、その時はこの日のセミナーの内容を思い出して、大嘗祭を見ることになるでしょう。 

 なお、当ブログの写真の掲載は伊藤一美氏と日本城郭史学会の了承を得ています。

 最初に江戸城見学会のブログを書いたときは二部に分けて書く構想がありました。

面倒くさくなり、諸事情で結局は後半部分は簡単にまとめてブログは一部にしました。今回は新しいブログに書くので幻となった後半部分は思い出しながら書きます。

 

江戸城富士見櫓

 

 再度集合して地下鉄で九段下に向かいます。九段下駅を出て田安門から城内に入るかと思ったら、田安門にはいかずに内堀通りを南に進みます。途中、九段会館前を通りました。見学した2018年5月は工事が始まる前なので歴史のある建造物の外観を見ることができましたが、その後は取り壊し予定で歴史ある建物も大幅に変わります。

 

九段会館(2018年5月)

 

内堀通りを少し進むと清水門に着きました。清水門から江戸城の城内に入ります。

 

清水門入口

 

清水門の櫓門前で西ヶ谷代表の解説がありました。

 

清水門前で説明する西ヶ谷代表

 

 清水門を入ったら、階段がありますが、高さや幅がそろっていません。登りにくいようにした工夫です。

 

清水門雁木坂

 

江戸城に石垣には多数の刻印があります。所々で刻印の解説もありました。

 

五目の刻印入り石垣

 

刻印入り石垣

 

 北桔梗門を見てから竹橋に向かいます。竹橋周辺にも石垣に刻印があり、代わる代わるで見ていました。たまたま通った小学生が何も見ているか気になって、一緒に見ていました。江戸時代の文字だと分かってキョトンとしていました(笑)

 城の事を知らない人から見れば40人の集団は怪しいと思われたかもしれません。

 

竹橋周辺

 

 平河門から江戸城本丸に入りました。ここでは荷物検査があり、団体だったので少し時間がかかりました。当初の予定では平河門で解散予定でしたが、せっかくここまで来たので江戸城の本丸まで見学しました。見学者にしてみればこれは僥倖でした\(^o^)/

 平河門を入ると土塀があります。土塀の下部には鉄砲で狙撃しやすいように狭間があります。狭間部分は石で出来ている石狭間です。土塀の下部に狭間があるのは寝て鉄砲を射撃するためです。

 

平河門石狭間

 

 平河門を入るとすぐそばに高麗門があります。この門は江戸城の不浄門と言われている事が多いです。江戸城内の死人や罪人をこの門から船に乗せて城内に出します。赤穂浪士の浅野内匠頭もこの門から船で出されて田村家の屋敷に運ばれて切腹したと言われています。

この高麗門を出ると平河壕の水堀に出ますが、この水堀は城外にはつながっていません。

 この高麗門は不浄門ではないという西ヶ谷代表の解説がありました。

 

不浄門と言われた高麗門

 平河門の後は三の丸から二の丸に入り、本丸に行きました。途中では何ヶ所かで西ヶ谷代表の解説がありました。天守台そばを通り、多門櫓を見学して、富士見櫓に向かいます。

 

本丸天守台をのぞむ

 

 富士見櫓は内側部分にも窓があり、どこから見ても同じように見えるので八方正面櫓だという説明もありました。百人番所を通り、大手門に向かいます。

 

江戸城富士見櫓

 

 江戸城見学終了の時間も近づいてきました。最後は大手門から出て、ここで本日の江戸城見学会は解散しました。

 

大手門前で解散

 

 午前中は船で外堀と中堀を見学、午後は内堀から三の丸、二の丸、本丸の主要部分の見学で内容のとても濃かった見学会でした。

 

 知っている人がいない初めての史学会の見学会は最初は緊張していました。船では西ヶ谷代表の隣の席に座って緊張はいきなりMAXでした。それでも時間が経って慣れてきました。城や歴史の好きな同好の士と一緒の城見学は楽しかったです。一人で行く城見学もいいですが、詳しい人に任せて後をついていくだけの城見学もよかったです、

 2018年5月12日(土)は貸切船での江戸城外堀と中堀の見学会があり参加しました。日本城郭史学会が開催の見学会です。このブログは別のブログで書いたものを追記修正して投稿しました。そういうわけで他のブログと時系列が合っていません。

  日本城郭史学会は城郭研究者と一般愛好者による全国的な団体です。昭和57年から 学術調査を行う団体として活動が始まりました。現在は城郭研究の第一人者であり、考古学者の西ヶ谷恭弘先生が代表を務めます。

 今回の見学会は城郭史学会の西ヶ谷恭弘代表自らが案内をしてくれます。

 

お茶の水手前の仙台堀

 

 今回は城郭史学会の不良会員兼幽霊会員であった不肖ワタクシが初めて参加する見学会でもありました(^_^;)

 当日は船の乗船場のある日本橋に集合です。不肖ワタクシは少しハラハラドキドキしながら集合場所を目指します。集合10分前に着いたらほとんどの参加者は既に到着していました。受付をして会費を払って、乗船までしばらく待ちます。どんな場所が集合場所かと思ったら道路と船乗り場の間で武者溜りみたいな場所でした(笑)

 

この船で見学しました。

 

当日の集合場所

 

 出発時間になって船に乗り込みます。不肖ワタクシは空いている席を目指して前に行ったら、何と通路越しの隣は西ヶ谷代表の座る席に座ってしまいました(@_@)

何とも恐れ多い席に座ってしまい、いきなり緊張はMAXでした(笑)

定員に達したので船も満員で出発です。屋根のない船だったので、雨天時は合羽を着て乗船見学でしたが、この日は天気に恵まれました。 

 

一橋門周辺の石垣1

 

 貸切船でしたがガイドの人が付いていました。ガイドが江戸の歴史の案内をして、西ヶ谷代表が所々で補足説明するツアーになりました。ガイドの人も今回は城や歴史の専門家、研究家の団体なので緊張すると言っていましたが、なかなか妙を得たガイドでした。

 最初は西ヶ谷代表が全て解説してくれる筈だった思い込んでいたので訝しがっていましたが、日本一の城郭研究家と史学会の猛者揃い相手になかなかよいガイドでした。

 しばらく進むと一橋門に近づきました。向かって左手に見事な石垣が見えてきました。

 

一橋門周辺の石垣2

 

 ここで憧れの西ヶ谷代表からの説明がありました。城好きになってウン十年、西ヶ谷先生から城の説明が聞ける感動の一瞬です。ますは石垣についての説明がありました。ここは関東の大名に分担させた石垣で東伊豆の石を使用したとの事でした。少し先は東北の大名が造った石垣との事でした。

 江戸城は何度も行っていますが、ここの石垣を見るのは始めてでした。日本一の城郭研究家の説明を聞きながらの城見学、感動の時でした(^o^)

 史学会に復帰してよかった(*^_^*)

 自分の知らない城の情報を聞いて新鮮に聞こえました。

 

一橋門周辺の石垣3

 

一橋門周辺の石垣4

 

 船は日本橋川を北上して、神田川と合流します。しばらく東に進むと水道橋です。神田川を通過する観光船は珍しかったみたいでした。通行人の視線を浴び、少し恥ずかしさを感じながら水道橋を通過します(〃゚д゚〃)

 

水道橋周辺

 

 さらに東に進むとお茶の水です。中央線や総武線で無数の通過した場所ですが、神田川から水路で通るのは始めてでした。新鮮の気持ちで通過するお茶の水です。船から見ると神田川の両岸が高くてなかなかな渓谷美でした。この地形は自然の物ではなく江戸時代初期に幕府が仙台の伊達家に命じて築かせました。伊達政宗の時に工事は始まり、曾孫の綱村の代まで40年ほどの大工事でした。

 

渓谷美のお茶の水周辺

 

 お茶の水に入ると、聖橋と地下鉄丸の内線の線路を通り過ぎます。本当にすぐ真上を線路がありました。幸か不幸か通過したとき丸ノ内線の電車は来ませんでした。以前は神田川は大雨でよく氾濫して、川も汚かったです。その後の治水工事や浄化で今では氾濫することはなくなり、水もきれいになりました。西ヶ谷代表の隣の席に座り緊張がMAXでしたが、この頃になるとだいぶ落ち着いていました(^^)

 

聖橋通過

 

 お茶の水の聖橋を通過したら、参加者は一斉に聖橋の写真を撮りました。地下鉄丸ノ内線は神田川で地上に出て橋を渡ります。丸ノ内線の橋の真下を船が通過します。

 

丸ノ内線線路真下

 

万世橋駅跡

 

 船は東に進み、万世橋を通り秋葉原に入ります。秋葉原に入ったら対岸に柳森神社が見えました。室町時代に太田道灌が江戸城を築城したとき鬼門避けに創建したと言われています。

 

柳森神社

 

 

浅草橋周辺の神田川

 

 浅草橋を通過すると柳橋を通り神田川もここまでです。柳橋でも西ヶ谷代表のお話がありました。川沿いの柳を植えたことから柳橋と名前が付いたというのが一般的ですが、西ヶ谷代表はそれとは違うお話をされました。これも始めて聞く話でした。

 隅田川に入ると神田川よりはるかに大きな川なので流れも速くて少し揺れました。左手に総武線の橋梁が見え、スカイツリーが橋越しに見えるビューポイントでした。タイミングよく電車が来たのでシャッターチャンスでした。

 

 

総武線とスカイツリー

 

永代橋と佃島

 

 永代橋の手前で日本橋川に入りました。しばらく進むと頭上に首都高速が通ります。ガイドの説明によると2020年の東京オリンピック後に日本橋周辺の首都高速を地下に潜らせて、日本橋から空を見えるようにするそうです。工期は10年で総工費は5000億円との事です。

 

日本橋周辺

 

 船は出発した桟橋に戻り、船での見学は終了しました。この日は午前は船で午後は九段下に移動しての江戸城見学です。午後の集合場所に案内されてから一旦解散して、各自で昼食を食べてから再度集合して午後の部が始まります。

 

日本橋に戻りました

 

 

後半に続く

 7月27日(土)は日本城郭史学会で2019年度第1回城郭史セミナーがありました。テーマは「城柵と山城 古代国家の東西軍事施設の実像」です。今回のセミナーは古代山城研究会の代表向井一雄氏を講師に招きました。

 

今回のセミナーのテーマ

 

 日本の城は中世戦国時代から近世江戸時代までの期間が有名ですが、飛鳥、奈良、平安時代にも城はありました。古代山城は1980年前後に遺跡が発掘された事もあり一時期ブームになりました。日本百名城に古代山城である大野城、鬼ノ城が選ばれた事もあり、最近でも注目されています。

 この日のセミナーは板橋区グリーンカレッジホールで開催です。今回のセミナーは50人近くの参加者がいました。遠くは京都、福島から参加された方がいました。

 

本日のセミナー会場

 

 古代山城の呼び方ですが、史跡、文化財としての名称分類での呼び方は「こだいさんじょう」との事でした。古代山城があった日本各地の町で古代山城サミットが開催されています。こちらでは「こだいやまじろ」と呼ばれています。「さんじょう」でも「やまじろ」でもどちらでもいいとの事ですが、正式な場所では「さんじょう」と呼ぶ方が間違いないでしょう。

 

セミナーの様子1

 

 2年前に向井一雄氏を講師に招いて城郭史セミナーがありました。その時の内容は少し難しかったとの事で、今回は少し平易なセミナーになるとの事でした。史学会の人が聞いても難しい内容のセミナーはどんなのだったか気になりますが、この日のセミナーの内容はとても分かりやすかったです。

 

 

古代山城研究会代表 向井一雄氏

 

 これまでは文献史料に記載されている城を朝鮮式山城、記載のない城を神籠石系山城と分類しています。現在は朝鮮式山城と神籠石系山城を合わせて古代山城と呼ぶようになってきています。文献史料のあるなしでの城の分類を見直す時期に来ているとの事でした。

 

セミナーの様子2

 

 古代山城の解説をしながら城柵との比較を解説しました。古代山城からは発掘調査で武器はあまり出てきません。兵が駐屯した痕跡も少ないとの事でした。実際の戦いがなかったためか古代山城は城と言っても軍事色が少なかったです。

 城柵では武器が多く発見されて、数百から千人以上の兵員が駐屯した住居跡が発見されています。何ヶ所かの城柵では実際に戦いがありました。柵と呼ばれていますが、軍事色が強く、実際は城としても役割を果たしていました。

 

 スライドを使って解説中1

 

 セミナーは事前に用意した資料をスライド化してプロジェクタに投影しました。スライドを交えての解説だったので地図や小さい図面、写真も分かりやすかったです。

 

スライドを使って解説中2

 

 高安城は以前に自然石を勘違いして、石垣を発見したと騒いだ事がありました。古代山城の遺構を見たことがない人が石垣を見て古代遺跡だと勘違いする事がこれまで多々ありました。

 

高安城の説明中

 

 現在の麹智城は城内に平屋建ての兵舎が復元されています。当時はあんな立派な建物が兵舎だったことはあり得なく、当時の兵舎は竪穴式住居だったとの事でした。

 

麹智城の復元兵舎?

 

鬼ノ城

 

 古代山城の解説が終わったら、東北城柵の解説が始まりました。

 東北の城柵は征夷大将軍坂上田村麻呂や蝦夷の英雄アテルイが活躍する平安時代初期の印象が強いですが、実は647年に渟足柵が設置されています。古代山城の文献史料の初見は664年です。実は古代山城よりも城柵の方が記録だけで見ると古くからあります。

 宮城の伊治城は大和文化と蝦夷の文化の境目になります。伊治城は古墳文化の最北端で、伊治城より北は蝦夷文化になります。。蝦夷と呼ばれるようになった理由は6世紀の国造制に入っていなかったためとの事でした。

 

東北の城柵の説明中

 

 最後に古代山城、東北の城柵がその後どういう歴史をたどったかを解説してくれました。

 古代山城の大野城は70軒の倉庫を建てられて、倉庫は米蔵でした。城から倉庫になり、876年の記録では大野城は40人が90日交代で常時10人で守備していました。城とは思えない少人数で管理していたの事でした。
 麹智城も多数の倉庫を建てられて、その後、12世紀まで四王院になったとの事でした。

 

大野城

 

 東北の城柵は10世紀に入っても6城残り、878年の元慶の乱後は蝦夷の記録はなくなりました。11世紀には蝦夷の末裔である俘囚の安倍氏や清原氏の内紛があり、源頼義、義家父子が内紛に絡み前九年の役、後三年の役が起こり、乱後は清原氏の後継者として奥州藤原氏が東北を治めます。

 

大鳥井山遺跡の二重土塁と堀


 1189年文治5年、源頼朝と奥州藤原氏の戦いである阿津賀志山での戦いが東北の城柵の
最後との事でした。二重堀と二重土塁の築城技術は11世紀後半の後三年の役の時に出羽の大豪族の清原氏の大鳥居山遺跡に存在していました。奥州藤原氏はその築城技術は継承して、本拠地平泉の伽羅御所に二重堀を築きました。

 源頼朝との戦いであった阿津賀志山防塁でも二重空堀と土塁はあり、阿津賀志山防塁は東北の城柵の最終形態との事でした。阿津賀志山防塁を最後に中世に入っていきます。

 

 

阿津賀志山防塁

 

 途中休憩なしで1時間30分を越えるセミナーでした。興味深い話の連続だったので終わってみるとあっという間でした。古代山城より東北の城柵の方が軍事色が強く城らしかったのは意外な事実でした。もう少し東北の城柵の話を聞きたかったです。

 解説が終わった後は質疑応答がありました。質疑応答の最後に西ヶ谷代表から東北の城柵はどれくらいの家があったかの質問がありました。志波城では竪穴式住居が千棟あったとの事で最低でも千名以上、千単位の人員が常駐したと考えられるとの事でした。 西ヶ谷代表の質問を最後に今回の城郭史セミナーは終了しました。

 古代山城は何城か行ったことがありますが、中世や近世の城ほどの知識はなかったです。今回のセミナーで断片的だった古代山城の知識の空白を埋める事が出来ました。

 なお、当ブログの写真の掲載は向井一雄氏と日本城郭史学会の了承を得ています。