12月9日(土)は日本城郭史学会の2023年度第3回城郭史セミナーがありました。テーマは「小牧山城の最新の発掘調査から」です。今回は小牧市教育委員会小牧山課の田中芳樹さんを講師にお招きしました。田中さんは今年放送されたNHKBSプレミアム「絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城 徳川家康の城(後編)」に出演して小牧山城を案内しています。

 

小牧山城土塁

 

 小牧山城が信長の居城だったのは永禄6年(1563)から永禄10年(1567)の5年弱でした。その後、天正12年の小牧・長久手の合戦の時は小牧山城は家康の陣城でした。これまで信長は4年しか小牧山城にいなかったので、その後の岐阜城や安土城に比べると見劣りするたいした城ではなかったという認識が地元の人を中心にありました。最近の発掘調査で信長時代の遺構が多く発見され、これまでの認識と違う城だと分かりました。

 

セミナー当日

 

セミナー当日2

 

  小牧山城はほぼ山全体が国指定史跡になっています。小牧山は中生代のチャートの岩山で標高86Mです。今は木が生い茂っているが堆積岩の岩山です。小牧山周辺は堆積岩が浸食しないので山の地形が残りました。
 小牧山は中世以前は不明ですが、寺院があったと考えられます。小牧山北西にある間々龍音寺に小牧山にあった堂宇(四方に張り出した屋根(軒)をもつ建物)が移転した伝承があります。

 

小牧山城遠景1

 

 織田信長が居城としたときに小牧山城の城下町は形成されました。規模は南北1.3キロ、東西1キロの規模で東西南北に延びる道路がありました。道路によって東西120M、南北80Mの長方形街区に分かれていました。道路の面した間口が6から7M、奥行きが55から65Mの短冊形の地割の街並みでした。

 

小牧山城遠景2

 

 平成10年(1998)から平成14年(2002)に城麓東側の小牧中学校跡地で発掘調査が行われました。浅い地表面の遺構は破壊されて確認出来ませんでしたが、深い場所の遺構は残っていました。
 ここに一辺40M前後の方形の形の曲輪が12発見されました。一定の区画だったので家臣の屋敷があったのではと考えられます。発掘調査後は史跡公園として整備されました。小牧山城の麓東側は幅2.5Mの堀と内側に土塁があったと考えられます。


 

 

麓東側土塁

 

土塁断面1

 

 徳川方は小牧長久手の合戦前の改修で麓を一周する土塁と堀を築きました。さらに5ヶ所の虎口も造りました。山頂に続く道を曲げて麓から登りにくくします。この時の改修は短期間で一説では5日間と言われています。時間短縮のために土塁は版築をしないで一気に盛り上げて構築しました。
 江戸時代は尾張藩によって「御勝利御開運の御陣跡」として領民の立入禁止として保護されたので遺構はよく残っていますが、昭和2年(1927)の国指定史跡後に麓に中学校や市役所が造られて一部が破壊改変されました。昭和43年(1968)に山頂に小牧歴史館の模擬天守を建てられます。この時は許可も調査もなく造られたので周辺の遺構は破壊改変されたと考えられました。

 

 

土塁断面2

 

 麓北西にある屋敷跡伝承地でも昭和63年(1988)から平成元年(1989)に発掘調査が行われました。中世期、永禄期、天正期の三期の遺構が発見されました。中世期からは土抗、柱穴、永禄期からは土塁、石列、天正期からは永禄期の土塁をさらに高く盛り足した高い土塁が発見されました。

 

屋敷跡伝承地土塁

 

屋敷跡伝承地水堀

 

 平成16年(2004)から19年(2007)に主郭周辺で試掘調査が行われ、その後発掘調査が行われて現在も継続中です。主郭から三段の石垣が、礎石建物、玉石敷き、庭園跡が発見されます。石垣は裏込め石から高さを推定しました。1.2Mから3.8Mの高さの石垣があったと推定されます。

 

主郭石垣裏込め石

 

主郭石垣

 

 石垣に使用された石は大半が小牧山の堆積岩ですが、一部は花崗岩や河原石も使用されています。花崗岩は近くの岩崎山から採掘されて搬入されています。小牧長久手の合戦時は岩崎山周辺は秀吉方の陣だったので、石垣は信長時代に造られたと考えられます。小牧山城の石垣は野面積みの平積みです。主郭の搦手側から礎石が発見されました。搦手門跡ではないかと思われます。

 

主郭石垣跡

 

模擬天守からの眺め

 

 小牧山城は国指定史跡になった後に遺構が破壊改変されたのは残念ですが、昭和の終わりから発掘調査を行い、破壊された遺構も復元されました。今でも発掘調査が行われて整備されている小牧山城は今後どんな風になるのか楽しみに思えたセミナーでした。