
就職活動をしていたころ、私は大学院で日本文学を勉強していた。大学で勉強してきたことと、これから働く場所とのあいだには、ずいぶん距離があるように思えた。どんな仕事なら自分にできるのかも、まだよくわかっていなかった。
そんなころに読んだ一冊が、幸田真音さんの『マネー・ハッキング』だった。
1996年に刊行された、金融業界を舞台に、銀行のシステムへのハッキングとマネーゲームを描く小説だ。銀行のシステム、マーケット、ハッカー。文学ばかり読んでいた私には、そこに出てくる言葉も仕事もずいぶん新しく見えた。
物語を動かすのは、銀行実務を知る志乃、相場を読むディーラーの長峰、そして若いハッカーの後藤。三人はそれぞれの力を持ち寄り、銀行のシステムを使った大胆な計画を進めていく。
後藤にはシステムを突破する技術があり、長峰には市場を見る力がある。でも、銀行のなかで実際にお金がどう動くのかを知っているのは志乃だった。それぞれが持っているものだけでは完成しない計画が、三人の知識がつながることで形になっていく。
当時の私は、そこが面白かったのだと思う。コンピュータを扱う仕事といっても、プログラムを書く人だけではない。技術と、実際に仕事をしている人たちのあいだをつなぐ役割もある。そんな仕事があるのだと、この本を読みながらぼんやり考えていた。
結局、私はエンジニアにはならなかった。代わりに、と言っていいのかわからないけれど、就職してから長く自分の仕事のテーマにしてきたのは、営業現場を支援したり、業務を少しでも効率よくしたりすることだった。
システムをつくる人ではなく、そのシステムを使って仕事をする人の側にいて、人と仕組みをどうつなぐかを考える。
もちろん、本の内容をそのままなぞって仕事を選んだわけではない。そのころの私は、そんな未来まで考えて読んでいたわけでもなかった。それでも今振り返ると、自分が仕事のなかで面白いと思ってきたことの根っこに、この一冊があったのではないかと思う。
そして、もうひとつ、この本から受け取ったものがある。主人公の志乃さんだ。
当時の私から見ると、40代の女性はずいぶん遠いところにいる、大人の女性だった。若さだけで仕事をしているわけではなく、経験してきたことを自分の力にして、仕事の世界に立っている。私は金融の世界だけでなく、そんな志乃さんの働く姿にも惹かれていたのだと思う。
いつか、こんな働き方ができたらいい。そう思っていた。

就職してから、いろいろな人と働いた。けれど、現実の世界で「この人のようになりたい」と思える女性には、結局出会えなかった。ロールモデルという言葉を耳にするたび、私にはそんな人はいないなあ、とずっと思っていた。
でも最近になって、ふと気づいた。
いた。
小説のなかに。
志乃さんが、私のロールモデルだった。
あのころ、ずいぶん大人に見えた彼女の年齢を、私はもう追い越している。では、物語のなかにも同じように三十年が流れていたら、志乃さんはいま何歳なのだろう。
たぶん、70代後半。
グレーヘアに、仕立てのいいジャケット。背筋をしゃんと伸ばして歩いている気がする。
新しいものを「わからないから」と遠ざける人ではなさそうだから、AIだって案外さっさと使いこなしているかもしれない。誰かの投資の相談を受けながら、画面の向こうの数字を眺めている姿も似合う。
もちろん、全部私の想像だ。それでも、ちょっと見てみたい。
二十代だった私が憧れた40代の志乃さんが、そのあとどんなふうに年を重ねたのか。そして70代になった彼女は、いま何を面白がり、どんなふうに暮らしているのか。
そんな後日談があるなら、私はたぶん真っ先に読みたい。


