うつ状態で苦しむあなたを助けたいのです! -27ページ目

うつ状態で苦しむあなたを助けたいのです!

私が躁うつ病を発症して29年目になりますが、躁とうつの波にもまれて苦しみのどん底にいた状況から8年前にようやくうつ状態を克服し、躁うつ病を薬だけ飲んでいれば症状が出ない寛解に至りました。今度はあなたが寛解する番です。

第16話に戻る

 

 

3回生になり、私は朝鮮歴史研究部の部長になりました。

 

新入生勧誘作戦を主導し、同期のR君やまだそれほど積極的ではなかったものの2回生のR君と力を

合わせて頑張っていました。

 

何しろ、サークルの存続にも関わる状況だったので、何とかしなければという思いが強かったです。

 

一方、朝鮮総連の下部組織である留学同での活動も活発化しました。

 

その中で私は幹部としての役割も任せられていました。

 

韓国は当時、1980年5月に光州事件が発生し、独裁政権打破のための民主化運動がますます盛り

上がっている時期でした。

留学同の活動も韓国の民主化運動に呼応するもので、日本国民にも現状を知ってもらい、その先に

は日本の世論をも動かそうとするものでした。

 

ですから各地で集会やデモ、ビラ蒔きなどの対外活動を行いましたし、継続的に留学同に集うものが

より詳しく韓国の民主化運動を理解するための勉強会も頻繁に行われました。

 

そんな中で、関大の朝鮮歴史研究部にも新しい原石たちが見つかりました。

 

大阪朝高から入った工学部のP君、日本の学校からは行った工学部のP君と商学部の?君が積極

的な姿勢で入部してくれたのでした。

 

彼ら3人のおかげで私は部長としての面目を保てました。

 

冬になると、2回生の時に大学生協のローンで購入したスキーセットとスキーウェアで、電子工学科

のメンバーや留学同のメンバーとも野沢温泉や栂池高原にスキーに行きました。

金がないので、スキーバスに民宿というものでしたが、素晴らしい景観の中で楽しい仲間とスキー

を楽しむことは本当に快感でした。

 

メンバーが硬派ばかりだったので、夜の街でナンパはしなかったものの、安い酒とお菓子で民宿で

騒いでいました。

 

私にとってはスキー旅行が「これぞ青春!」に思えたのでした。

 

 

第18話に続く

 

第15話に戻る

 

 

初恋相手とは、やや遠距離(大阪府吹田市と兵庫県明石市)で、私が電話をするのに15分も歩いて関大の

校内の公衆電話まで行かなければならなかったこともあって、後電話代もバカにならず、それほど頻繁に

は電話ができませんでした。

 

京都に行ってから会ったのは、確か1カ月後に、新長田(神戸市長田区)の高層階レストランで食事をした

時でした。

 

この時、まだ話術が巧みでなかった私は、話題に困っていました。

 

そして、Pさんと朝鮮学校に行くことで日本の大学に行くチャンスが奪われているという私の持論をめぐっ

て少しばかり言い争いになったのです。

 

それっきり自然消滅してしまいました。

約7,8年前に私の妹から聞いた話によると、Pさんはその後同級生と結婚し、娘を高校から日本の高校に

入れ、大阪府立大学に入学させたということでした。

 

結局、あの時私の持論に反対したにもかかわらず、ちゃっかり自分の娘は私の持論に沿った道を歩ませ

たのでした。

 

一方、朝鮮歴史研究部の新入生勧誘作戦は、暗礁に乗り上げていました。

 

当時、部員は4回生が3人、3回生の準部員が1人、2回生の部員が2人でした。

 

準部員を除く5人が徹底的なローラー作戦を実施するも、なかなか部員になってもらえませんでした。

 

このままだと来年は4回生が卒業し、R君と2人になってしまいます。

 

そんな危機感を抱いているときに、ようやく工学部建築学科のR君が部室に顔を見せたのでした。

 

彼は最初、ややひねくれた考えの持ち主で、なかなか心を開いてくれませんでした。

 

でも同じ2回生のR君が粘り強く接したのが良かったのだと思います。

 

徐々に口数も増え、サークル活動の手伝いもしてくれるようになりました。

 

そんな中でも、6人グループでの掛け持ち幹事合コンは回を重ねていました。

でもその中に私がいいなと思った女性には彼氏がいたり(そんな奴が合コンに来るな!)、どうしても私の

好みの容姿を持った女性とは巡り合えませんでした。

 

合計6回のうちに、2人の女性からアプローチを受けましたが、お断りしました。

 

そうして2回生の日々が過ぎていきました。

 

 

第17話に続く

 

第14話に戻る

 

 

私は2回生になり、朝鮮歴史研究部でも新入生勧誘作戦が始まりました。

 

この作戦というのは、まず裏のルートを通じてある組織(これを言ってしまうと多大な迷惑が掛かってしまう)

から新入生の名簿を見せてもらいます。

 

もちろん真昼間に見ることは許されず、夜遅い時間に限られます。

 

その名簿から、在日朝鮮・韓国人で本名を名乗っている人はもちろんのこと、よくある通称名(例えば、朴で

あれば新井、金であれば金田など)を全部ピックアップして書き出すのです。

 

そして書き出した名簿を基に、その人の教室まで探しに行くのです。

 

当人を見つけたら、ひとまずこちらの正体を名乗り、ゆっくり話がしたいと部室に誘うのです。

 

実にこの活動はドラマに出てくる刑事にも似た地道な作業なのです。

そうやって部室に連れてくることができたら、先輩方の事例を説明しながら、民族の自負を持つことの大切さ

と言葉や文化、歴史を学ぶことの必要性を説いていくのでした。

 

こういったサークル活動は、少々授業を犠牲にしなければならない時もありましたし、6人グループと別行動

をとる必要もありました。

 

6人グループとの時間も大切にしたかったので、サークル活動とのバランスをとることはやや難しかったです。

 

一方、下宿をして通学時間が4時間近く浮いた形になったので、一人で考える時間が増えました。

 

そんな時でした。

 

私の頭の中に、小学生時代の初恋の状況が鮮明に表れたのでした。

 

そして私が小学生5年の時に3年生だった初恋の相手Pさんが無性に恋しくなったのです。

 

彼女の姉は私と小学校からの同級生でした。

 

どうやって調べたか今でも思い浮かばないのですが、電話番号を必死で探しました。

 

下宿には10円玉しか入らないピンク電話しかなかったので、関大校内の公衆電話からいきなり電話をかけた

のです。

どこからこの勇気と大胆さが湧いてきたのかは不明です。

 

彼女が電話口に出た時は、彼女が戸惑っているのが感じ取れました。

 

ところが初めて電話をかけたにもかかわらず、私にとって君が初恋の相手なんだと告げ、いきなり京都へのド

ライブに誘ったのでした。

 

車の免許は1回生の9月に取得していましたが、2,3回しか実家の車を運転したことがありません。

 

そんな強引な誘いに対して彼女もひるんではいませんでした。

 

何とデートを承諾したのでした。

 

私は人生で初めて有頂天というものを経験しました。

 

デート当日、私は前の晩から実家に帰って、地図を念入りにチェックしていました。

 

何しろ京都まで車で行ったことがないのですから、多少緊張していたのでした。

 

午前10時に彼女の家の前まで迎えに行き、無事に目的地であった京都の八瀬にあったスポーツ

バレー京都(現在はもうない)に到着しました。

 

この遊園地は、かなりお粗末な造りでしたが、それでも室内アトラクションもあって、楽しく遊びました。

 

そんな中でそろそろお昼ご飯を食べなきゃと思っていたら、なんと彼女が弁当を作って来てくれていた

のです。

 

私は、漫画で例えるなら、感動で目からハートが飛び出ていました。

 

その弁当も美味しかったのです。

 

私はそれまで、母の作った弁当以外は苦手なたちでした。

 

それなのに不思議でした。

 

遊園地を後にした後、2人で三千院を拝観しました。

その時見た日本庭園の鮮やかさが今でも目に焼き付いています。

 

そして事故もなく、彼女を家まで送り届けることができたのでした。

 

 

第16話に続く

 

第13話に戻る

 

 

1年生の終わる直前くらいから、親友のH君が一緒に下宿しないかと誘ってきました。

 

確かに第1限目の授業に出る際には早朝に家を出ないといけないのは、若干苦痛ではありました

が、それ以上にその下宿が工学部の裏手にあって通学時間が10分というのに、俄然興味をそそ

られました。

 

一方で下宿すると余計に経済的に親に負担をかけるという発想を飛び越えて、自由な下宿生活

に憧れを感じました。

 

その下宿は、家賃が15000円で、6畳一間、共同ぼっとん便所に、共同風呂に、共同台所に、共同

洗面所に、共同電話というものでした。

別に不満はなかったので、親に掛け合いました。

 

すると思いのほかすんなりと了承してもらえました。

 

そして春休みに意気揚々と引っ越しを済ませたのでした。

 

父は小型テレビを買ってくれました。

 

そのうえ、毎月7万円もの仕送りを受けていたのです。

 

家賃に光熱費、食費、テキスト代、サークルの交通費などで全部使いきっていました。

 

今、考えれば授業料も払ってもらいながら仕送りまでもらうなんて、鬼のような息子ですが、当時

はそれほど申し訳なく思っていなかったのです。

 

小遣いが足らない時には日曜日に1日バイトを時々入れるようにしていました。

 

一方、6人グループではその頃、ある計画が持ち上がっていました。

 

6人それぞれが幹事となって合コンを企画することになったのです。

 

ですので6人グループでは合計6回の合コンをしたのですが、この辺はかなり記憶があいまいにな

ってしまっています。

 

記念すべき一回目は確か、I君の幹事で近畿大学の女性陣だったと思います。

 

そのあと5回(そのうち1回は私が幹事)の合コンの相手はもう忘れてしまいました。

 

多分2回目の合コンだったと思うのですが、私がトイレから帰ると、これからゲームを始めようとH君

が言いました。

 

そのゲームというのは、全員でじゃんけんをして一人だけ違うものを出せば、手作りの濃いめのチ

ューハイを一気飲みをするというものでした。

 

3回目のじゃんけんで、私が一人違うものを出してしまいました。

 

私は勢いよく濃いめのチューハイを一気飲みしました。

 

するとなぜかそのあと何回かじゃんけんをしてもすぐに私が違うものを出してしまうのです。

 

おかしいなぁと思いながらも一気飲みを続けたのですが、私がもはやぐでんぐでんになってきたの

で、H君がゲームの終了と、実は私がトイレに行っている間に残りの人間で示し合わせて、私がグ

ーを出すとその次はみんながグーを出すという風に決めていたことをバラしたのでした。

 

時すでに遅し、私は一人で歩けない状態で2次会に連れていかれました。

 

2次会はディスコだったのですが、カウンターでみんながチークダンスを踊るのをちらちら見ながら、

頭がガンガンしたので顔を伏せていました。

 

すると猛烈に吐き気が襲ってきて、慌ててトイレに行きましたが、なぜかしら私は小便器に吐いて

その横で寝ていました。

2次会もお開きとなり、帰ろうとして私の姿がないのを見て、H君が助けに来ました。

 

そのあとは下宿までどう帰ったのか記憶がありませんでした。

 

この時の合コンでの話は卒業まで笑い種となりました。

 

 

第15話に続く

 

 

 

 

 

第12話に戻る

 

 

大学に通い、6人グループでつるんでいくと、もう何の目的で大学を受験したのかということも

すっかり忘れてしまい、お遊びモード全開になってしまいました。

 

苦しかった浪人生活の反動と言えばそうなのかもしれませんが、明らかに頭の中では遊ぶこ

としかなかったです。

 

当時関大通りには、たくさんの娯楽の店もありました。

 

特にビリヤードやボーリングはよくやりました。

ところがいかんせん、母に小遣いをせびるのも忍びなくなってきたので、アルバイトをしようか

と思いました。

 

でもどうしても工学部だと、昼間のアルバイトは予定が入れられなくて、夜の喫茶店の洗い場

の仕事につきました。

 

しかし洗い場だけでもかなり忙しいのに、それ以外の調理補助までやらされて、くたびれたの

で1週間でやめてしまいました。

 

その後、中高のバレーボール部の同級生女子の妹の家庭教師をすることになりました。

 

しかし、私があまりにもその子に接近し過ぎたのがいけなかったのか、理由は言われなかった

けれど1カ月でクビになりました。

 

結局、1年生の時はまともにアルバイトをすることができなかったのです。実は高3の時も喫茶

店のウェイターをしましたが、2週間程度でやめています。

 

すなわちまるで仕事が嫌で、そしてできない人間だったのです。

 

一方、朝鮮歴史研究部では、1週間に2回ほど部会や読書会などに参加していました。

 

同じ1年のR君とは話も合い、仲良くなり、卒業まで親友でした。

 

また裏の顔である在日本朝鮮人留学生同盟(留学同)の事務所にも顔を出し、いろんな大学か

らの参加者と交流し、勉強会やビラまきもしました。

 

留学同の集まりに何回か参加しているうちに、大阪音大のHさんに好意を抱きました。

 

Hさんはまさしくコリアンビューティーともいえる華やかな顔をしていて、性格もしっかりした子で

した。

 

1年生も終わろうかとしている頃、私はHさんに話があるから大阪・梅田の喫茶店で会いたいと

申し出ました。

 

私はすんなりOKをもらえた時点で、今度は大丈夫じゃないかと期待していました。

 

当日、喫茶店でHさんを前にして、付き合ってほしいということを告白しました。

 

するとなぜかHさんが泣きはじめるではありませんか!

 

私はなぜ彼女が泣くのかわからず、頭が混乱しました。

 

ひとしきり泣いた後で、Hさんはこう言いました。

 

「私はオッパ(朝鮮語でお兄さん)の同級生のPさんと付き合ってるんです」

 

それを聞いた私は、すっかり意気消沈してしまいました。

 

するとまたHさんが泣きじゃくり始めたのです。

仕方なく私は、Hさんの腕をとり、喫茶店を出て、彼女が乗るJR(当時は国鉄)大阪駅まで、さ

んざん道行く人に(こいつ、女泣かしとる)と思われながら、泣き止まない彼女に付き添ったの

でした。

 

やっぱりあれは彼女の術中にはまったのですかね?

 

 

第14話に続く

 

第11話に戻る

 

 

私は指定された待ち合わせ場所である、学生課の掲示板の前でその人を待っていました。

 

「君、カン君だよね?」

 

声の方に振り向くと、いかにも朝鮮人らしい顔をした人がニコッと笑っていました。

 

「はい、そうです」と答えると、

 

「生協で少し話をしようか?」とKさんは言いました。

 

生協の食堂に着くとKさんは、

 

「飲み物買って来るから、そこに座ってて」と言いました。

 

(一体、どんな話なんだろう)と思いながら、窓の外の行き交う人たちを眺めていました。

 

「お待たせ!」と言いながら、Kさんは紙コップを2つテーブルに置きました。

 

「さて、君は神戸朝高を出たんだから、遠回しに話すことはしないよ」とKさんは前置きしました。

 

「僕は、朝鮮歴史研究部というサークルの部長をしているんだが、このサークルというのが裏の

顔は在日本朝鮮人留学生同盟という朝鮮総連の下部組織なんだよ」

 

「えっ!そうなんですか」

 

「それで君にもぜひ朝鮮歴史研究部に入って活動してもらいたいんだけど、どうかな?」

 

「具体的にはどういう活動をしているんでしょうか?」

 

「うん、まずは在日朝鮮・韓国人の学生を探して、コリアンとしての自負を持ってもらい、朝鮮語

や朝鮮の歴史を学んでもらうというのが大まかな活動かな」

 

「なるほど。まずは一度サークルのメンバーと会ってみて、それからどうするか決めたいと思い

ます」

 

そうして次の約束をした後、Kさんとは別れました。

 

数日後から授業が始まりました。

 

電子工学科には108名の学生がいて、女子は3名しかいませんでした。

 

授業が終わると、もうすでに仲間が出来ているようでした。

 

不思議に思った私は、横の席の男性に聞いてみました。

 

するとその集団は、関大第一高校の連中だということがわかりました。

 

横の席の男性が、私のことに関心を持ったのか、引き続き話しかけてきました。

 

「僕は神戸市垂水区から来てるんだけど、君はどこから来てるの?」

 

「僕は明石市大久保町から来てるんだよ」

 

「なんだ、結構近いじゃないか」ということで、いろいろと話が盛り上がりました。

 

この男性が卒業まで仲良く過ごした一番の親友H君でした。彼は話題が豊富で、人を笑

わせるのが好きな子でした。

 

しばらくすると、H君が仲良くなっていた4人を含め、6人グループが形成されていました。

奈良のI君は体は大きいけど、優しい子で、伊丹のS君はきゃしゃな体だけど、ツッコミも

ボケもうまい子で、東大阪のT君は夜は居酒屋でバイトしていたにこやかな子で、南大阪

のT君は沖縄系の顔をしたのんびりした子でした。

 

昼休みにはいつも6人で集まりご飯を食べ、つまらなくて出席をとらない授業は、ずる休み

をして関大通りの喫茶店でしゃべっていました。

 

一方、朝鮮歴史研究部の部室に顔を出した私は何人かの先輩を紹介してもらい、いろん

な話をしていくうちに彼らがずっと日本の学校に通い、朝鮮の人や言葉、そして歴史や文

化に触れることなく過ごしてきたにもかかわらず、大学から変わったという話を聞き、感銘

を受けました。

 

そして私も朝鮮歴史研究部の一員になることを決意したのでした。

 

 

第13話に続く

 

第10話に戻る

 

 

 

全部の入試を終え、結果を待つ間、父の塗装業の手伝いをしていました。

 

先に、京都の同志社大学と立命館大学の入試結果が送られてきたのですが、残念ながら不合格でした。

 

同志社大学には、試験前に下見に行くほど憧れていたのですが、結局レンガ造りの校舎に通い、京都の

街に住む夢も破れてしまいました。

 

その日も私は、現場に出て働いていました。

 

すると昼休みに、父のポケベルが鳴ったのです。

父が家に電話してみろというので、公衆電話からかけてみると、母が興奮しながら言いました。

 

「関西大学、合格やって!」

 

私は思わず「やったー!」と叫んでいました。

 

家に帰ってよく合格通知を見てみると、関西大学工学部には当時10の学科があったのですが、そのうちで

一番優秀な電子工学科に入れたのでした。

 

受験時から確信していた通り、滑り止めの2大学は合格していました。

 

通学には大変ですが、関西大学に行く選択肢しかありませんでした。

 

しかしながら、入学には100万円、1年間授業料も100万円かかることは、何とも思わなかったのです。

 

今考えれば、父がいくら自営業で従業員も二人抱えてるとしても、この金額を払うのは難しいことです。

 

ですが当時の私はそんなことを爪の先ほども考える気持ちがなかったのです。

 

親も親で奨学金を使うという考えもなかったようでした。

 

これが後に大きな禍根を残すことになろうとは夢にも思いませんでした。

 

いよいよ関西大学の入学式を迎えました。

今の日本なら朝鮮名の人がいてもそれほど注目されませんが、当時はやはり周りの目が気になった

ので、名前は日本読みの姜健一(きょうけんいち)で大学に登録しました。

 

入学式当日、大学の校門を通り過ぎると、数多くの体育会やサークル、同好会の人たちが新入生を

勧誘しようと待ち構えていました。

 

もみくちゃにされながら私は、アメフト部と日本拳法部の人に勧誘されました。

 

丁重に断りながら、入学式の会場にやっとたどり着きました。

 

入学式は特に印象に残るものはなかったです。

 

入学式が終わった後に、私はある人と待ち合わせをしていました。

 

それは入学式の二日前に、どこから情報が流れたのか知りませんが、私が関西大学に入学することを

知ったある人から電話がかかってきたのです。

 

そして入学式の後に会うことを約束したのでした。

 

 

第12話に続く

 

 

第9話に戻る

 

 

高校卒業と同時に、以前より建築中の一戸建ての家に引っ越しました。

 

どうやら母にとっては念願の新築一戸建てということでした。

 

高校を卒業した私は、S君と同じ予備校に通うことにしました。

 

今は無き神戸市中央区にあった大道予備校です。

 

浪人生活をスタートしてみると、毎日予備校に通い、夕食を食べた後は少しの休息後に勉強を開始し、

午前1時ごろまで勉強するという生活が始まりました。

 

そうしたある日、無性に人恋しくなった日がありました。

 

その時、自分の心の中には、特に高1の時に慕ってくれたRさんのことが浮かび上がりました。

 

18年間初恋以外で一人の女子にも好意を持たなかった私が、実はRさんが好きなのではないかと思

ったのです。

 

そしてこんな寂しい浪人生にも彼女がいれば、さぞかし力の源泉になるだろうと感じたのでした。

 

思い立ったが吉日!

 

その時の行動は迅速でした。

 

すぐに中学時代の名簿を探し出し、Rさんに電話をかけました。

 

初めての告白で緊張しながらも、それほど気が動転していなかったことを憶えています。

 

「ずっと君のことが好きだった。つきあってほしい」とはっきり告げました。

 

するとRさんは、1週間考えさせてほしいと言いました。

 

嫌な予感はしましたが、納得して電話を切りました。

 

1週間後、Rさんから電話がかかってきました。

 

ドキドキしながら、相手の返事を待っていると、小さな声で「ごめん」と言いました。

 

その後、Rさんは何かしらの理由を言ってたと思いますが、もう僕の耳には入らなかったです。

電話を切った後、しばらく気持ちを落ち着けて、もう恋愛なんて考えるのはやめて、勉強一筋で

頑張ろうと誓いました。

 

翌日からは、本当に勉強を一心不乱に頑張りました。

 

もったいない話ですが、予備校の授業の中で、役に立たないと思った授業は出ずに、近くの公

民館や図書館で勉強をしていました。

 

当時、一日12時間は勉強をしていたと思います。

 

試験があと2,3カ月に近づいてきた頃、二階の私の部屋から「あー」という奇声が聞こえたと、

何年か後にその当時を振り返って母が言っていました。

 

浪人生の時に、楽しんだ娯楽というのは、S君と一緒に観に行った映画「E.T」だけでした。

入試前の模試で、私は関西大学でB判定、同志社大学でC判定でした。

 

その模試の結果で予備校の先生と面談したのですが、先生は関西学院大学理学部も受けたら

どうかと言いましたが、結局本命は同志社大学理工学部で、2番手に立命館大学工学部、3番

手に関西大学工学部、滑り止めに大阪工業大学と近畿大学を受けることを決めました。

 

入試が始まる直前、自分ではできることは全部やったという満足感がありました。

 

吉と出るか凶と出るか?

 

ただ目の前の試験に100%で臨むだけという心境だったのです。

 

 

第11話に続く

第8話に戻る

 

 

朝鮮の高校を卒業した者の進路は、日本の高校を卒業した者より狭くなってしまいます。

 

一つは、在日コリアンには自営業を営む人が多いため、家業を継ぐという人がいます。

 

次に、朝鮮総連が絡んでいるため、その組織が運営する下部組織に入るという道があります。

 

それには、今はありませんが朝銀、商工会、総連の直轄支部、朝鮮大学校があります。

 

でも絶対数が決まっているので、誰でも入れるわけではありません。

 

朝鮮学校の学生は当時、国公立大学を受験するには大検が必要でした。私立大学はほとんど

受けることは出来ました。

 

ですが学校教育のカリキュラムの違いもあり、高校卒業時に日本の大学を受験するくらいの学

力はありません。

 

ですから日本の大学を目指すものは、高校時代に並行して日本の大学を受けるための準備を

しなければならないのです。

 

一方日本の大学はあきらめて、現実的に専門学校に行く人も多くいました。

 

そんな状況で私は、高3の12月にようやく日本の大学に行く決意をしました。

 

中学生時代からの親友であるS君が何と大検に受かっていたからです。

 

はっきり言ってその事実に触発されました。

 

私の父が心の底から、塗装業を継いでほしいと思っていることを知っていながらです。

でも小学生時代から何度も父の仕事の手伝いをしてきた私は、どうしても塗装業が汚くてきつい

仕事にしか思えなかったのです。

 

それで家庭でもサラリーマンになりたいから日本の大学に進学すると宣言しました。

 

高校でもそう宣言したら、校長から呼び出しがあり、朝鮮大学校へ行けと、どうしても日本の大学

に行きたいのなら東大か東工大に行けと言われました。

 

この校長というのは、中学校時代からお世話になっていた先生でしたが、私は聞く耳を持ちません

でした。

 

そして2カ月ほど勉強して、100%落ちるとわかっていたのに、既成事実を作るために、大阪工業大

学の入試を受けました。

 

不合格の通知が来た後しばらくして、私は父とある約束をすることになりました。

 

それは、1年間浪人することを許してほしい、もし受からなければ家業を継ぐというものでした。

1983年3月、虚ろな気持ちで卒業式を迎え、中学卒業時と同じく学生服の前と袖のボタンをすべて

同級生と後輩の女子に取ってもらい、多くの花束をもらい、華々しく学校を後にしたのでした。

 

ちなみに学生服の2番目のボタンは、中学生時代と同じく二人の女子の取り合いになりました。

 

どちらもその友達が念を押しに来たのですが、中学生時代には念を押されてはない女子に渡し、

高校生時代には念を押された女子に渡しました。

 

 

第10話に続く