うつ状態で苦しむあなたを助けたいのです! -26ページ目

うつ状態で苦しむあなたを助けたいのです!

私が躁うつ病を発症して29年目になりますが、躁とうつの波にもまれて苦しみのどん底にいた状況から8年前にようやくうつ状態を克服し、躁うつ病を薬だけ飲んでいれば症状が出ない寛解に至りました。今度はあなたが寛解する番です。

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リクルートの入社式は、驚くべきことに日本武道館で開かれました。

全国でどれだけの新入社員がいたのかは知りませんが、会場はほぼ満員でした。

 

そのあと近くのホテルに移動して、大広間でパーティーが行われました。

 

江副社長(当時)のスピーチが終わり、壇上から降りてきたときに、私は自分の目を疑うシーンを見たの

でした。

 

何と十名以上の新入社員が江副社長を取り囲み、胴上げを始めたのでした。

 

(これは新興宗教の教祖みたいだな)と私は思いました。

 

私は入社前に、リクルートの事業内容は頭に入れていましたが、企業風土はよく知りませんでした。

 

なので、胴上げの光景を見て、もしかしたら私はやばい会社に入ってしまったのかもしれないという一抹

の不安が頭をよぎりました。

 

その後、当時マラソンで有名だった金哲彦選手と挨拶をかわしました。

 

自分も在日なんですと興奮気味に話したことをよく覚えています。

 

その後、東京近郊で、1週間ほど座学中心の新人研修を行いました。

 

いつ辞令をもらったかは忘れましたが、私の部署は大阪支社関西情報ネットワーク部であることはわか

っていました。

 

しかしどの課になるのかは、大阪での研修が終わってから決まるとのことでした。

 

大阪での新人研修も前半は私たち技術系と営業系が一緒に座学を行いました。

 

しかし、後半は「コンピュータ用メガネ販売キャンペーン」というものでした。

 

個々人には大阪市内の各地域を決められ、その中にある会社に飛び込み営業をかけ、コンピュータ用

メガネを販売するというもので、メガネが売れなくてもその会社の高い役職者の名刺をもらえればポイン

トが加算されるという地獄のようなイベントでした。

 

特に技術として入社している私たちにとっては、なぜ飛び込み営業をしなければならないのかが合点が

いきませんでした。

生まれてから営業すらしたことがなかった上に、飛び込みというので、当然尻込みしてしまいました。

 

さらにそのイベントを2日間にかけて行うというのですから、やる前から嫌でたまりませんでした。

 

イベント1日目。

 

一人ですので怠けようと思えば、できないことはないのですが、せめて名刺くらいは持って帰らないと先

輩から怒られると思いました。

 

ですからもうダメもとで、やるしかないと腹をくくりました。

 

「リクルートの姜と申します。ただいま新人研修の一環として、コンピュータ用メガネの販売を行っていま

す。もしよろしければ一度メガネを見てもらえないでしょうか?」

 

この文句をこれだと思った会社の窓口でしゃべって回りました。

 

「リクルートさんもこんなこと、よく新人にさせるもんやね」という好意的な反応もあれば、「今忙しいから

帰って帰って」という冷たい反応もありました。

 

メガネに何の興味も持ってもらえなくても、何とか上役の名刺をゲットせねばということで、「課長さんや

部長さんの名刺をいただくわけにはいきませんでしょうか?」という無理なお願いもしました。

 

1日目がやっと終わりましたが、メガネに興味すら持ってもらうことができませんでしたし、下っ端の人の

名刺しかもらえませんでした。

 

2日目もめげずに頑張って会社に飛び込んでいきましたが、やはりうまくいきませんでした。

 

昼過ぎに、珍味を販売している会社に飛び込みました。

 

その時に出てきた年配の方が、何とメガネに興味を持ってくれたのでした。

 

「○○さん、ちょっと来て。これコンピュータ用のメガネだって。一度試してみたら?」と言ってくれたので

した。

 

呼ばれた事務の女性が私からメガネを受け取って、コンピュータの席に座って見え具合を確かめていま

した。

 

「課長、この眼鏡をかけると、少し見え方がソフトな感じです」と言うじゃありませんか。

 

私の心の中には(これはもしかして!)という思いが急速に広がりました。

 

課長さんは、私に「君、これいくら?」と尋ねてきました。

 

私は「2000円のところ、特別に1500円にさせてもらいます」と言いました。

 

すると課長さんは、「よし、買ってあげよう」と言ってくれたのでした。

 

ガッツポーズをとりながら、その会社を後にし、近くの公衆電話から会社に「メガネ売れました」という報告を

したのでした。

 

結局、その後は名刺を獲得するのがやっとで、会社へと戻りました。

 

オフィスのフロアに入ると、「姜君、メガネ売上おめでとう!」と書かれた大きな黄色の短冊が、天井から垂

れ下がっていました。

 

私はそれを見て、(うわっ!体育会系!)と思ったのでした。

 

 

第26話に続く

 

今日は、神戸市精神保健福祉センター主催のセミナーでゲートキーパー養成研修応用編「働く人のメンタルヘルス不調と自殺予防の対応」に参加してきました。
ゲートキーパーが何かも知らなくて、ただ自殺予防に反応して参加を決めたセミナーでした。
とある病院の精神科医師の講演でしたが、職場でのメンタルヘルスケアに関しては詳しく話されていましたが、自殺予防に関して具体的なことは一切話されませんでした。
私は質疑応答で、自分が過去に病気で自殺未遂の経験者であることを公にし、ゲートキーパーができる自殺予防というのは極めて限られるので、病院やクリニックがいのちの電話などの電話相談組織やNPO法人などと連携することが重要じゃないかと質問しました。
しかしその回答は、目の前で死にたいという人しか救えないというようなものでした。...
やっぱり所詮精神科医というのは、自殺予防には関心が低く、とりあえず自分の目の前の患者を診ることで精いっぱいなのだということがよくわかりました。

第23話に戻る

 

 

卒業を控えた私の心の中には、浪人を始めた時に感じた恋人のいない焦りみたいなものが湧いてきまし

た。

 

この時これまでの顔重視の姿勢から性格重視の姿勢に転換してみようと考えました。

 

そんな中浮かび上がってきたのは、当時指導していた大阪音楽大学のKさんでした。

 

彼女は短大で、私と同時に卒業する3つ年下で性格がほんわかした女性でした。

 

また容姿も普通より良かったでした。

 

卒業を間近に控えた3月上旬に告白したところ、見事にOKがもらえ、人生で初めて付き合うことになりま

した。

卒業式は、ぜひ母に来てもらいたくて、言ってみたところ、何とかパートを休んで参加するとのことでした。

 

これまでに話しませんでしたが、母は一戸建てを売って神戸市垂水区のマンションに引っ越してから、近

隣のダイエーで結婚後初めてパートで働いていたのでした。

 

あとから聞いた話ですが、母はこの当時、不眠で苦しんでいて、睡眠薬を飲んでいたそうです。

 

慣れないパートになかなか体がついていかなかったのかもしれませんし、借金の問題も解決したわけで

はなかったので苦しんでいたのだと思います。

 

卒業式当日、晴天に恵まれ、多くの卒業生やそれを祝福するサークルの後輩たち、そして父兄で大学

内は混みあっていました。

卒業式が終わって、開催された体育館の前で、このために買ったスーツ姿の私と母は記念に写真を撮り

ました。

 

母はこの写真をずいぶん気に入って大事にしていましたが、現在どこにあるかわかりません。

 

しばらくして下宿から実家に引っ越すことになりました。

 

この時は、留学同で一番仲が良くて、前年に大阪産業大学を卒業していたK君と彼女が手伝ってくれまし

た。

 

K君は家から中型のトラックまでわざわざ用意してくれて、本当に助かりました。

 

彼女もトラックに荷物を積み終わり神戸まで走るトラックの運転席で、私とK君に挟まれて、とても楽しそう

にしていました。

 

大変申し訳なかったのですが、引っ越し作業が終わっても、母もいなかったし、何の接待もできませんでし

た。

 

K君に彼女のことをお願いして、別れたのでした。

 

実家に引っ越したのはいいのですが、何しろ交通の便が悪くて、リクルート大阪支社に行くには、バスで

地下鉄学園都市駅まで行き、そこから三宮まで出て、JR(当時は国鉄)三ノ宮駅から大阪駅、そして徒歩

15分と片道1時間30分ほどかかるのが心配の種でした。

 

そして時は1988年4月を迎えるのでした。

 

 

第25話に続く

 

第22話に戻る

 

 

リクルートからの内定をもらったことをとりあえずは研究室の?教授にも報告しましたが、いまだに

この内定が虚実ではないかという思いが頭の中に少なからずありました。

 

何しろたった30分の面接で、それも朝鮮歴史研究部での活動を話しただけで、内定がもらえたと100

%信じろというのが無理な話でした。

 

しかし、2週間後にリクルートから入社前教育の教材が送られてきたときに、ようやく内定を信じるこ

とが出来ました。

 

ちょうどそれから1カ月後くらいに、家庭教師のアルバイトに原付で向かってた私は、車と衝突事故を

起こしました。

 

その道路は片道2車線の大きい道路でしたが、ひどい渋滞でした。

原付を乗った私は、結構なスピードで左車線の車の左側をすいすい走っていました。

 

交差点に差し掛かり、対向の右折してきた車と衝突して、原付が車にぶつかったはずみで車を飛び

越えて5m以上飛んで、街路樹の根元に落ちたのでした。(警察ではこの事故をサンキュー事故と呼

んでます。渋滞中に直進車が右折車に譲ってサンキュー)

 

幸い打ちどころがよくて、とは言っても簡易のヘルメットでしたから、もし頭から落ちていたら危なかっ

たところでした。

 

履いていたジーンズはズタズタになっていましたが、軽くすねのあたりが痛む程度でした。

 

相手の運転手はすぐに救急車を呼んでくれました。

 

病院ですぐにX線写真を撮りましたが、すねの部分の剥離骨折だと医者に言われました。

 

当時は携帯電話がないので、慌てて家庭教師先に公衆電話から連絡して事情を説明し謝りました。

 

また、一応家に電話をかけ、母に事故について話しました。

 

すると母が相手の運転手に換わってほしいというので、受話器を渡したら、しばらく運転手は神妙

に母の話を聞いていました。(多分、十分な補償をするように念を押したのでしょう)

 

警察もどちらからも話を聞いていましたが、運転手ができるだけのことはさせてもらうと言ったので、

示談にすることに決めました。

 

とにかく大きなけががなくてほっとしました。

 

でも原付は大きく破損していましたので、これからのアルバイトの通勤に支障が出るところでした。

 

ところが相手の運転手は、私に自分の職場まで来させた挙句、たったの2万円しか補償金をくれま

せんでした。

 

文句を言いましたが、彼は事故は100%自分が悪いのではないと言って、話になりませんでした。

 

ありがたいことに原付は家庭教師先が新しいものを買ってくれることになりました。

 

ケガも生活には支障がなかったし、翌々日からは塾のアルバイトを再開していたのでした。

 

季節は冬に入り、そろそろ卒論の作成に着手しなければならない時期になっていました。

ところが私たちの班は、1回も半導体を生成することに成功していませんでした。

 

班には4名いたのですが、毎日卒論をどうするかについて話し合っていました。

 

それで出た結論は、先輩の卒論を基に実験データだけは私たちのものにして提出しようと決めた

のでした。

 

でもそれだと4人とも同じ卒論になるので、微妙に内容を変えようということになりました。

 

年が明けて2月に、研究室の教授2人に、院生たちを含めた研修室での卒論発表会がありました。

 

私は内容があまりにも他のメンバーと似通っていて、教授に叱られないかとひやひやしながら発

表しましたが、事なきを得ました。

 

そうして間もなく卒業を迎えようとしていたのでした。

 

 

第24話に続く

 

第21話に戻る

 

 

母から電話があった翌日、私は肩を怒らせながら大学の就職課の窓口に行きました。

 

私は対応した職員に「在日朝鮮人差別でシャープから断られたので、調べてほしい」と言いました。

 

それを聞いた職員は、少し顔をしかめました。

 

「それが事実だと証明できるものがあるの?」と聞いてきました。

 

私は当日同じ研究室の友達と面接に行ったのだが、49位の友達が内定をもらい、20位の私が落ちた

ことが理由だと言いました。

 

職員は、ちょっと待っててと言い、奥にいる上司と相談しているようでした。

 

戻ってきた職員は、「じゃあ、シャープの採用担当者に事情を聴いてみるから、待っててくれるかな」と

言い、自分のデスクに戻りました。

 

待つこと20分、電話を終えた職員が戻ってきました。

 

「姜さん、シャープの担当者は面接時に君は元気がなかったと言っているよ」

 

私はイラっとして、面接前の状況を説明し、テンション高めに面接に挑んだことを伝えました。

 

職員は、しぶしぶ本音を言いました。

 

「あのね、たとえシャープが君を差別で断ったとしても、本当のことは絶対に言わないよ」

 

私もその言葉を聞いた時、やっぱりそうだよなと思いました。

 

そんな私の思いをくみ取ったのか、職員は言いました。

 

「それより次どうするのかの方が大事じゃない?もしよかったら君に合うような企業を探してみようか?」

 

私は、お願いしますと言って、それ以上の糾弾はやめることにしました。

 

しばらくすると、違う職員が一冊のファイルを持ってやってきました。

 

「リクルートという会社が理系の学生を大量に採用したいみたいなんだけど、この会社が実力主義で国

籍も関係ないらしいんだよね」

 

「でも就職情報とか住宅情報を扱っている会社ですよね?」

 

「数年前から通信事業に着手したらしいんだよ」

 

「そうなんですか」

 

「どうする?一度チャレンジしてみる?」

 

「はい、お願いします」

 

職員はそそくさと自分のデスクに戻り、パソコンを操作していました。

 

そして窓口に戻ってきて、「この書類を基に、電子工学科の就職担当教授のところに行くと、先方の担当

者と面接の段取りをしてくれるはずだから」と言いました。

 

私は、わかりましたと言い、お礼を言ってその場を辞去しました。

 

その翌日、電子工学科の就職担当教授であるI教授を訪ねると、すんなり先方の担当者に電話をかけて

くれて、面接の日時を決めてくれました。

 

その足で、自分の研究室の?教授の部屋を訪ね、推薦状を書いてくれるようにお願いしました。

 

?教授はすぐに書類を用意し、推薦状を書いてくれました。

 

1週間後、私は当時梅田センタービルにあったリクルート大阪支社に向かいました。

窓口で要件を言うと、だだっ広い会議室を案内され、そこで待つように言われました。

 

しばらくすると、30代後半と思われる男性が会議室に入ってきました。

 

私は立って礼をすると、まあ座ってと言われたので座りました。

 

男性は名刺を出しながら、「総務部のTです」と言いました。

 

「姜と申します。よろしくお願いします」

 

「じゃあさっそく面接を始めようか。姜君は大学で一番一生懸命取り組んだことは何かな?」

 

私は、どう考えてもこれしかないと思い、朝鮮歴史研究部での活動について説明しました。

 

特に、ずっと日本人の中で生きて来て、自分の母国の言葉や文化や歴史に触れることなく高校まで生き

てきた、在日コリアンを見つけ出し、教育することによって感動的な変化があることを強調しました。

 

ひたすら私の目を見ながら、時々頷きながら私の話を聞いていたTさんは、私の話が終わるとこう言いま

した。

 

「うん、よくわかった。場所を移動しようか」

 

私は自分の話がそれほど説得力のある話じゃなかったのかなと不安になりました。

 

Tさんの後ろをついていくと、どんどんオフィスの中に入っていき、奥の区切られたスペースの中に入りま

した。

 

そこでお互い席に座ると、Tさんは手を差し出しながら言いました。

 

「よし!おめでとう!内定だよ」

 

私は一瞬事態を把握できず、戸惑っていましたが、Tさんがもう一度手を差し出すので、自分も手を差し出

し、ありがとうございますと言いながら握手を交わしました。

 

するとTさんは、スペースの扉から顔を出し、一番近い所のいた女性に言いました。

 

「君、悪いけど缶ビール2本買ってきてくれる?」

私は(ここで飲むのかい!)とツッコミを入れたくなりました。

 

Tさんは、私の方を向いて今度はこう言いました。

 

「姜君、たばこ1本もらえる?切らしちゃってさあ」

 

私は、ポケットに入れていたマイルドセブンライトを1本、Tさんに渡しました。

 

Tさんが、君も吸っていいよと言うので、一緒にたばこを吸いました。

 

しばらくすると、女性が缶ビールが入った袋を持ってきたので、Tさんと乾杯と言ってから飲んでいました。

 

缶ビールを飲み終えて、リクルートのオフィスを後にしましたが、帰り道でこの内定は事実なのかという疑

問が浮かびました。

 

でも間違いなく内定と言っていたので、下宿に戻ってから母に内定をもらったことを報告したのでした。

 

 

第23話に続く

 

第20話に戻る

 

 

話は、父の大借金が発覚した後に戻ります。

 

実験とアルバイトに忙殺されていた私は、サークルと組織活動を制限せざるを得ませんでした。

 

朝鮮歴史研究部は、同期のR君に部長を任し、部室にも月1程度しか顔を出さなくなりました。

 

また留学同でも、幹部としての仕事はやめ、月2回程度大阪音楽大学の指導に当たることにな

りました。

 

一方、6人グループが揃うことも少なくなっていました。

 

4回生の7月頃、留学同では10年に一度と言えるほどの大イベントである、韓国民主化運動を

テーマとした演劇を大阪市内の劇場で披露することになりました。

 

私は心の中では何の役でもいいから、演劇に出たいと思いましたが、アルバイトがあるため練

習に参加できないので諦めるほかありませんでした。

 

それはたまたま時間があって、演劇の練習の様子を見に行った時の話です。

 

関大の2年後輩であるP君がこう言いました。

 

「こんな端役なんてやってらんないよ」

 

それを聞いた私は、カチンときてP君の胸ぐらをつかみました。

 

「出たくても出れない人間もいるんだよ!舐めたことを言うな!」

 

普段激高しない私がとった行動に後輩たちが驚いていました。

 

私も自分の悔しさがそれほどのものだったのかとびっくりしました。

 

演劇開演当日、私は会場の周りの警備役でした。

 

もし右翼などの妨害でもあれば、大変なことになりますので警戒に当たっていたのです。

 

そんな時私の耳に韓国語が聞こえてきたのでした。

 

振り向くと、韓国のスポーツ選手団の様でした。

 

私は勇気を出して、彼らのうちの一人に話しかけました。

 

私たちが今日ここで民主化運動をテーマにした演劇を行うのだと言ったら、満面の笑みで、そ

れは素晴らしいと言ってくれました。

 

私はあわてて仲間を全員呼びに行き、韓国の選手たちと一緒にアチムイッスル(朝露)という

韓国の学生にも人気のある歌を肩を組んで唄いました。

一曲の歌で、韓国の人たちとつながることができるという、とても感動的な時間でした。

 

その場を作った私に仲間たちからは、称賛を浴びました。

 

演劇も無事に終了した後には、就職活動が待っていました。

 

私はしょっちゅう授業をさぼっていたので、授業に出ていた友達にお願いしてノートを借りるな

どした結果、なんと電子工学科108人中20位の成績でした。

 

ノートを貸してくれた友達より成績が良くて、その友達からにらまれたことをよく覚えています。

 

その成績順位がなぜ重要かというと、成績順に割り当てられた企業を選べるからなのです。

 

前もって企業から、関大電子工学科から何名とるという枠が示されているのです。

 

人気があったのは、在阪の電機メーカーでした。

 

松下電器産業(現、パナソニック)、三菱電機などは上位の成績者が確保し、私は松下電工(

パナソニック電工に改名後、パナソニックに吸収合併)をチャレンジできる位置にありました。

 

しかし私は松下グループが在日朝鮮人を嫌がるという根拠もない思い付きを持っていて、そ

の座を次の21位の人に渡したのでした。

 

今考えれば、本当にもったいないことをしてしまったと思います。

 

そして、シャープを選んだのです。

同じ研究室で同じ班だった49位の?君と一緒に奈良にあったシャープまで面接に行きました。

 

いつも実験をしながらよくしゃべっている仲なので、面接会場で私2人は完全に浮いていまし

た。

 

でもおかげで緊張せずに面接に望めました。

 

その当時は電子工学科が引く手あまたの状態だった(1987年バブル全盛の時でもあった)の

で、内定は当然のことと余裕しゃくしゃくでした。

 

なので、留学同中央が主催する全国夏季合宿に参加するため長野まで行きました。

 

2泊3日の間、勉強とレクリエーションなどで楽しんだ後、下宿に戻った夜、母から電話がかか

ってきました。

 

母はものすごい剣幕でまくしたてました。

 

「あんた、一体どこに行ってたのよ!研究室の助手の方から電話があって、シャープがダメ

だったって言ってたわよ。どうするのよ!」

 

私はびっくりしましたが、何とか気を取り直して、母に言いました。

 

「長野に合宿に行ってたんだよ。心配しなくてもいいよ。ほかにも会社はあるから!」

 

何とか母を安心させて、電話を切りましたが、私もこれからどうすればいいかわからない状

態でした。

 

一回成績順で割り当てられてダメだった場合は、自分で探さないといけなかったからです。

 

その後、一緒にシャープを受けた49位の彼が内定をもらったことを知り、思い浮かんだこと

がありました。

 

それはこれが在日朝鮮人差別であると確信したのでした。

 

まずは、就職課に行ってその追及を徹底的にやってやろうと決めました。

 

 

第22話に続く

 

第19話に戻る

 

 

私たちがやっていた実験というのは、かなりの低温状態で、ガリウムヒ素やガラスの基盤上に亜鉛とセレン

のイオンビームを照射し、半導体を生成する実験でありました。

 

かなりの低温状態にするには、液体窒素を用いるのですが、実験時間の3分の1は決められた温度に低下

するまで待つことでした。

 

この時間が実にもったいなかったです。

 

実際にイオンビームを照射して半導体が生成されたかどうかは、最後に特殊な装置で測るのですが、一向

にうまくいかなかったのでした。

 

4回生の夏頃、たまたま運よく実家の買い手が見つかり、神戸市垂水区の賃貸マンションに引っ越すこと

になりました。

私も手伝いに行ったのですが、その時の父に対する母の接し方の冷たさには悲しいものがありました。

 

実験とアルバイトに明け暮れる毎日にようやく体が慣れてきた、秋頃だったと思います。

 

夜、下宿の部屋でくつろいでいると、1階のピンク電話が鳴って、私が呼ばれました。

 

受話器を耳に当てると、相手は妹でした。

 

「オッパ(お兄ちゃん)、お父ちゃんが毎晩遅くに酒に酔って帰ってきて、母に暴力をふるうのよ。何とかし

て!」

 

それを聞いて私は頭に血が上りました。

 

(散々迷惑をかけておいて、酒に酔って母に暴力をふるうなんて許せない!)

 

私は、「わかった。明後日の夜、アルバイトが早めに終わるから、家に帰ってお父ちゃんの帰りを待って

話してみる」と言いました。

 

そして明後日、実家に帰ったのが夜9時ごろで、まだ父は帰宅していませんでした。

 

11時ごろには母と妹が就寝し、私はダイニングキッチンで父の帰りをひたすら待ちました。

 

イライラしながら何本もタバコを吸いながら我慢していたのですが、午前2時頃ドアの鍵を開ける音が聞

こえました。

父が入ってくるのを私は椅子に座ったまま睨みつけました。

 

私に気づいて、父は驚いた様子でした。

 

私は小さいけれど響く威圧する声で言いました。

 

「毎晩酒に酔ってお母ちゃんに暴力ふるうってどういうことなん!」

 

すると、父は私の前でひざまずき、訳の分からないことを言いました。

 

「健、わし糖尿病やねん」

 

「それと暴力とどう関係があるねん!」

 

父は何も言わず、私の足にしがみついて嗚咽を漏らしていました。

 

その後、2人でどうしたのかは忘れてしまいました。

 

多分、私は学校に行き、父は仕事に行ったと思います。

 

その際、私は母と妹に何の根拠もありませんでしたが、父の暴力はなくなるだろうと話しました。

 

そして冬になって、妹から父が家を出ていったことを知らされたのでした。

 

 

第21話に続く

 

 

第18話に戻る

 

 

3回生の終わりに、4回生でどの研究室に入るかの選択会議が行われた。

 

工学部ではどの研究室に入るかで、どういった企業に就職するかがほぼ決まると言ってもよかった。

 

その会議に参加して驚いたのは、あまりにも重要な選択にもかかわらず、じゃんけんで決めるという

ことであった。

 

抗議をしようにも粛々とじゃんけんが行われ、勝ったものから自分の行きたい研究室を選べるのであ

った。

私は結局じゃんけんに何回か敗れ、最も人気のない研究室に行くことに決まった。

 

それは「半導体物性研究室」であった。

 

私はコンピュータのソフト関連の研究室に入りたかったのであったのだが、正反対の研究室になって

しまったのだ。

 

そして研究室に行くと班分けがなされ、半導体生成実験の班になった。

 

その班を指導する先輩に聞くと、1日のほとんどが実験だと言った。

 

実験を始めて半月が過ぎようとしていた時だった。

 

夜、下宿の部屋でテレビを観ていると、1階のピンク電話が鳴り、私を呼ぶ声がした。

 

礼を言い、受話器をもらうと、相手は母だった。

 

「大事な話があるから今度の週末に家帰って来てくれる?」

 

(一体、何の話だろう)と思いながらも、土曜日の夕方に帰ると伝えた。

 

実家に帰ってみると、リビングのソファーに、眉間にしわを寄せた母、俯き加減で深刻そうな顔をした

父、普段の妹が座っていた。

 

「健ちゃんもここに座って」と母が言った。

 

私が黙ってソファーに座る寸前に、母が声を荒げた。

 

「お父ちゃんが大きい借金抱えて、首回らんようになったんや!」

 

私と妹が「えー!」と叫ぶ中、父が小さくなった。

 

私はその時、その借金はおそらく自分の大学の入学金やら授業料のせいだと思った。

 

でも母の話を聞いてみると、それだけの借金ではないようだった。

 

高卒時に引っ越した新築の一戸建て住宅のローンだけでも手一杯なのに、仕事でも手を広げようと

お金を使ったようだったが、母は最終的にいくら借金があったかは教えてくれなかった。

 

でも家は売って借金の返済に回さないといけないということだった。

 

母によると、借金の返済計画は、母の弟に任せてあるということだった。

 

また、借金返済のために母の姉妹にもお金を借りているのだが、私が大学を引き続き通うことに文

句を言っているらしいということだった。

 

このままだと私はあと1年を残して中退させられるかもしれないと思った。

 

妹も専門学校に通っていたため、同じ危険性があると思った。

 

そこで翌週、私と妹が母の弟つまり叔父さんに会いに行き、私と妹が大学と専門学校を続けられる

ように土下座をしたのだった。

まだ問題があった。

 

それは私の4回生の授業料が60万円足りないということだった。

 

また仕送りもゼロになるという。

 

大阪に帰って、さっそくいろんなつてを頼って、アルバイトを探した。

 

運よく塾の講師と家庭教師の仕事が決まった。

 

家庭教師は先方がありがたいことに、通勤のための原付を用意してくれ、夕食も食べさせてくれると

いう好待遇だった。

 

その原付は塾への通勤にも使い、私用にも活躍した。

 

母から電話があって、授業料の足らず分の60万円は、母の友達が貸してくれることになったので、

私が社会人になってから返済するようにと言われた。

 

こうやって朝から夕方まで実験室にこもり、夕方からはアルバイトという生活が始まった。

 

それでもお金が足らなかったので、在日コリアンが経営する救急病院で日曜の朝から月曜の朝ま

での24時間宿直バイトを月2回入れることにした。

 

このバイトは宿直室に救急隊から電話がかかってきて、受け入れ可能かどうか聞かれるのだが、

その判断を自分でどうしたらいいのかわからず、時々医者に変な患者を受けるなと注意されたり

した。

 

またX線技師の免許もないのに、写真を撮らされ、鮮明に撮れていなかったら怒られるという理不

尽なこともあった。

 

特に電話がしょっちゅうかかってきたときには、あまり寝れないため、月曜日の実験室でよく居眠

りをしたものだった。

 

だからこのアルバイトが嫌でたまらなかった。

 

でも私は文句を言える立場ではなかった。

 

 

第20話に続く

 

第17話に戻る

 

 

話は3回生の冬から夏に戻ります。

 

私は留学同大阪の代表として、2度目の北朝鮮研修旅行に行くことになりました。

 

ですが今回の北朝鮮の状況は、高校生時代に行った時とは違いました。

 

というのも、金日成主席が後継者として長男の金正日氏を指名していたからであります。

 

北朝鮮では、決して世襲ではなく、金正日氏がいかに後継者に相応しいかを声高に叫んでいました。

 

私自身は、どうしても世襲ということに納得がいかないまま、北朝鮮に向かったのでした。

 

この時も新潟から、万景峰(マンギョンボン)号で元山(ウォンサン)への船旅でした。

 

高校生の時は、北朝鮮政府が日本からの在日がやって来るのをどう考えているかなどまともに考え

たこともなかったのですが、この時は在日が日本円という外貨獲得のいいお客さんであるというひね

くれた考えも少しありました。

 

元山(ウォンサン)からまたコンクリートの高速道路を走って平壌(ピョンヤン)に向かいました。

 

平壌(ピョンヤン)でしばらく過ごしたのちに、韓国との軍事境界線の施設である板門店(パンムンジョ

ム)に向かいました。

板門店(パンムンジョム)では、北朝鮮兵士と韓国兵士並びに米国兵士が厳しい顔で直立していました。

 

まだ朝鮮戦争が終わったのではなく、休戦状態であることを思い知らされました。

 

また平壌(ピョンヤン)に戻った私たちは、東京や愛知などから来ている仲間と一緒に近くのパブに行き

ました。

 

そのパブというのは、まさに外国からのお客専用の店で、美人の女性店員が接客してくれました。

 

そこで私は驚くべきことをしでかしたのでした。

 

もちろん同行した仲間もこの事実は知らないでしょう。

 

一つは、女性店員に「本当に後継者が金正日氏でいいと思うか」と聞いたことです。

 

もう一つは、女性店員に自分の泊っているホテルと部屋番号を告げたことです。

 

女性店員は、どちらの問いかけにもうやむやな態度を取っていました。

 

一つ目は、北朝鮮で論議されること自体が禁じられていることであり、二つ目は今となっては店員を蔑

視した恥ずかしい行為です。

 

この時、留学同東京代表で来ていたH君と仲良くなりました。(H君は後程、とんでもないところで出てき

ますので、お忘れなく)

 

2度目の北朝鮮研修旅行では、元山(ウォンサン)港から遠ざかっていく際には、高校生の時より悲しく

はなかったです。

 

こうして私は、心の中で北朝鮮の後継者問題にしこりを持ったまま、卒業まで留学同の活動を続ける

のでした。

 

 

第19話に続く