うつ状態で苦しむあなたを助けたいのです! -25ページ目

うつ状態で苦しむあなたを助けたいのです!

私が躁うつ病を発症して29年目になりますが、躁とうつの波にもまれて苦しみのどん底にいた状況から8年前にようやくうつ状態を克服し、躁うつ病を薬だけ飲んでいれば症状が出ない寛解に至りました。今度はあなたが寛解する番です。

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Kカウンセラーと面談した翌日も、私はちゃんと会社に出社するのですが、何の仕事もできません

でした。

 

やるとしてもおおよそ新人でもできる仕事くらいでした。

 

周りの目が気になりましたが、課長は何も言ってきませんでした。

 

その次の日に、ようやくKカウンセラーから電話があり、2日後の3時にクリニックの予約が取れた

ので一緒に行きましょうと言われました。

 

私はよろしくお願いしますと言って電話を切り、すぐに課長に2日後の業務時間内にクリニックに

行きたいことを伝えました。

 

課長は無表情で、行ってきたらいいと言いました。

 

課長は、そして課のメンバーは私のことをどう思っているのかが気になってしょうがなかったので

すが、私としてもなすすべなく1日を過ごしていました。

 

家に帰っても、夕食を食べたらテレビを観る気もせず、部屋にこもっていました。

 

クリニックの診察日当日、Kカウンセラーに聞いた通り、Kクリニックは新大阪駅から徒歩5分の

雑居ビルの一階にありました。

 

Kクリニックの入り口で、Kカウンセラーが待っていたので、一緒にクリニックに入りました。

 

待合室は6人くらいしか座れなくて、雰囲気も無機質な感じでした。

 

30分くらいしてようやく名前を呼ばれて、Kカウンセラーとともに診察室に入りました。

 

Kカウンセラーの夫であるK医師は、実に物腰の柔らかくて、体格がいい人でした。

 

診察はほとんどがKカウンセラーが私から聞いた内容を伝えながら、それに対してK医師が私に

引っかかった事項について突っ込んで聞くという形でした。

 

結局、その場では私が父の自殺が原因で気落ちしていたところに、プレッシャーのかかる業務

に押しつぶされて、うつ病になったのではないかと判断されました。

 

そして、気分を落ち着かせる薬ということで1種類の薬を処方されました。

 

私は心の中で、父の自殺は自分の中でおおよそ整理がついていると思いながらも、なぜかしら

それをK医師に告げることができませんでした。

 

精神科医にあなたの診断は間違っているとは面と向かって言うのは、失礼に当たると考えてい

たのでした。

 

それからクリニックには毎週金曜日の午後に行くことになりましたが、状況は改善せず、とにか

く以前のように仕事ができるようにしてほしいと祈るばかりでした。

 

毎日誰かにあいつは何でろくに働きもせずに給料をもらってるんだと非難されているようで、自

分を責め続けていました。

 

かといってせっかくつかんだ高給の仕事を手放すことは、家族を一気に路頭の迷わすことにな

るので、それも受け入れがたかったのでした。

 

 

第34話に続く

第31話に戻る

 

 

 

K社への謝罪と報告書の提出が無事終わった日の翌日のことでした。

 

その日もいつものように朝食を済ませ、通勤電車に揺られて会社に到着しました。

 

そして自分のデスクに座った瞬間でした。

 

頭の中が真っ白になって、今日、何の仕事をすればいいのかわからなくなってしまったのです。

 

呆然としたまま、始業を迎え、朝礼が始まりましたが、全く頭に入ってきませんでした。

 

10分間ほどそのまま椅子に座って、どうすればいいんだろうかと考えながら机をにらんでいまし

た。

 

(ダメだ、とりあえず課長に相談しよう)と思い、課長のデスクに行きました。

 

私は「課長、頭の中が真っ白になって何をしていいかわからないのです」と言いました。

 

課長はしばらく考えた後、ちょっと自分の席で待つように言われました。

 

どうやら課長はどこかに電話をかけているようでした。

 

電話が終わり、課長に呼ばれ、こう言われました。

 

「午後1時に、総務部のKさんを訪ねてみろ、それまでは何もしなくていいから」

 

私は、わかりましたと言い、席に戻りました。

 

私は前日まであれほど次から次へと仕事をこなしていたのに、なぜこんなことになってしまったの

かを考えるばかりでした。

 

当時、総務部は梅田の別のビルにあったので、歩いて向かいました。

 

総務の窓口でKさんの名前を出すと、こちらにどうぞと会議室で待つようにと言われました。

 

しばらくすると、会議室の扉がノックされ、どうぞと言うと、40代後半と思われる柔和な顔をした女

性が入ってきました。

 

そして「カウンセラーのKです。よろしく」と言いました。

 

その時点でようやく私は、この場がカウンセリングであることを認識したのでした。

私は、Kカウンセラーにこれまでの成育歴や会社に入ってからのこと、そして父の自殺などの話を

順番にしていきました。

 

Kカウンセラーは、優しくうなずきながら私の話を真剣に聴いてくれました。

 

一通り私の話を聞き終わると、まず「しんどかったね」とねぎらいの言葉をくれました。

 

そしてこう言ったのでした。

 

「姜さんは、おそらくお父さんの死について十分に悲しむことができなかったのではないかな」

 

私は、あまりピンとこなかったので、返事をしませんでした。

 

続けてKカウンセラーは、こう言ったのでした。

 

「私は、おそらく姜さんはうつ状態になったのだと思うんだけど」

私は、うつ状態というものがよくわからなかったのですが、「うつですか?」と聞き返しました。

 

「うん。専門家に診てもらった方がいいと思うのよね」とKカウンセラーは言いました。

 

そして眉間にしわを寄せて、考え込んでいる私を見ながら、続けてこう言いました。

 

「私の夫が新大阪でクリニックを開いてるの。私が予約しておくから行ってみない?」

 

私は、反論することもなかったので、はあと答えました。

 

Kカウンセラーから後日、クリニックの予約日時を連絡してもらうことを約束して、カウンセリングは

終了しました。

 

総務部のあるビルから自分の課のビルまで歩きながら、幾度となく(父の自殺を十分に悲しめなか

ったらこんな状態になるのかな?)と不思議に思っていました。

 

自分にデスクに戻って課長を見てみると、別段私に話を聞こうともしなかったので、おそらくKカウン

セラーからの報告があったのではないかと思いました。

 

結局、戻ってからも何もせずに終業時間を迎え、課長からこう言われました。

 

「姜、今日はもう帰っていいぞ」

 

私ははいと答えて、そそくさと帰宅の途に就きました。

 

家に帰ると、母が今日はどうしたの、珍しく早いじゃないと言われましたが、適当にうんとだけ答え

ました。

 

母にこの状態を伝えるのは、クリニックで診てもらってからにしようと私は思ったのでした。

 

 

第33話に続く

第30話に戻る

 

 

第2回目の調査並びにテストも、前もって私がK社本社担当N課長に了解を取り、1回目の10日後

に実施することになりました。

 

今度は、私がK社大阪本社に、リクルート岡山の準社員の方が岡山工場に、Hさんが再びリクル

ート岡山APから全体指揮をとる形になりました。

 

前回とは違って、K社大阪本社に設置されている回線分岐装置のメーカーも立ち会わせることに

なりました。

 

何度かテストをしても前回と同じく異常は見られませんでした。

 

今回も成果なしかと諦め始めた夕方5時ごろ、一緒に立ち会ってたメーカーの担当者が私に小声

で言いました。

 

「姜さん、どうやらうちの機器の岡山向けのポートに異常があるようです。すぐに交換作業に入り

ます」

 

私はほっとした気持ちやそのメーカーに対する憤りで胸がいっぱいになりました。

 

そして嬉しさもわいてきて、すぐにHさんに電話をかけました。

 

「Hさん、メーカーが機器の不良を認めました!解決です!」

 

「そうか、よかったな!お疲れさん!」

 

さすがのHさんも疲れ気味の様でした。

 

私は、メーカーの機器交換が終わり、最終テストをして問題ないことを確認したうえで、N課長に簡

単な経緯を話し、具体的な報告は後日に行うことを伝え、リクルート大阪支社に戻ったのでした。

 

事務所にはまだ先輩のTさんが残っていました。

 

結果はHさんから聞いたのでしょう。ご苦労さんと声をかけてくださいました。

 

でもなぜか私は手放しで喜べない自分がいることを感じたのでした。

 

その日は、トラブル報告書を書くのを翌日にすることにし、帰宅しました。

 

家に帰りながらもこのもどかしい気持ちはどこから来るのだろうかと考えましたが、全くわかりませ

んでした。

 

翌日課長に事の顛末を報告し、トラブル報告書を作成するとともに、K社営業担当Tさんにも結果

を伝えました。

 

私はTさんに、いつK社への謝罪に行きますかと尋ねたのですが、

 

「ごめん。悪いけど姜一人で行ってくれへんかな」

 

と言うじゃありませんか。

 

私は心の中で(頼りにしてると見せかけて、要は逃げているんだろう)と思いました。

 

先輩にこう言われてしまえば、わかりましたと言うほかありませんでした。

 

私は、K社に提出する報告書の作成にかかりました。

 

最初に発生したトラブルから最終的に解決に至る経緯を書き、何が問題点として挙げられるか、そ

して今後長期的なトラブルを避けるための改善策を盛り込みました。

 

出来上がった報告書を課長にチェックしてもらうと同時に、K社大阪本社担当N課長にアポを取りま

した。

 

課長からの了承を得て、2日後一人でK社大阪本社に向かいました。

 

私はN課長から少しはお叱りを受けることは覚悟はしていました。

 

ところがN課長は、私が渡した報告書に目を通した上で、こう言われました。

 

「私は、姜さんなら大丈夫だと思っていますよ」

 

私は予想外の誉め言葉に、こわばっていた顔が緩むのがわかりました。

 

私はこの信頼を絶対むげにしてはいけないと心に誓ったのでした。

 

N課長に挨拶をして、K社を出てから、私は大きくため息をつきました。

 

ようやく重圧から解放された瞬間でした。

 

 

第32話に続く

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前回、お話することを忘れてしまいましたが、2年目の6月に私や妹にとっても、通勤のしやすい所

への転居の話が持ち上がりました。(当時、妹は芦屋の有名洋菓子メーカーに勤めていました)

 

私は、それほど家賃の高いところはやめておこうと言ったものの、物件を探すのは母と妹に任せて

いました。

 

結局2人が決めてきたのは、阪急王子公園駅前の家賃10万円もする2DKのマンションでした。

 

むろん私は、結構な高給取りでしたし、家賃が払えないのではありませんでしたが、遠からず先に

は妹も結婚するだろうし、そんな駅前の高級マンションまでは必要ないと思っていたのでした。

 

ですが、7月には寮から引っ越すことになりました。荷物も少ないので、一人ですべて行いました。

 

確かに通勤は寮の時よりも楽になりました。

 

話は戻って、9月下旬に私の担当するK社岡山工場の頻発するトラブルに関する対策会議を行い

ました。

冒頭から先輩のHさんは、今回のことは一見小さなトラブルに見えるが、今後も頻発することが予

想されるので、大々的な現地調査とテストが必要だろうと話しました。

 

そして全員で話し合って、具体的な調査方法を決めていきました。

 

まずは私が、K社本社担当N課長に現地調査並びにテスト実行の承諾を得ることを任されました。

 

N課長のOKが出て、岡山工場とも根回しをしてもらい、10月上旬に第1回の現地調査並びにテスト

を実施することになりました。

 

第1回目は、私は岡山工場に出向き、新人K が本社に出向き、Hさんがリクルート岡山AP(アクセ

スポイント)にて指揮を執るということになりました。

 

テスト当日早朝、私は新神戸駅で新幹線を待っていました。

 

ところがなぜかしら胸騒ぎがして、不安に駆られていました。

 

そこにたまたま高校の時の同級生でサッカー部だったY君がいましたが、久しぶりに会ったのに話

も盛り上がらず、違う車両に別れて乗りました。

 

岡山駅で降りて、荷物も重いので、タクシーでK社岡山工場に向かいました。

 

岡山工場につき、窓口であいさつしながら名刺を渡すと、「わざわざ大阪から」と言われました。

 

担当の方に、各機器や回線の導入部分を案内してもらいました。

 

まずHさんに連絡して、到着したことを伝え、点検作業を進めることを伝えました。

 

また1時間後に、オンラインを止め、大阪ー岡山間のデータ送受信テストを行うことを確認しました。

 

私は工場に回線が接続されている部分を入念にチェックし、そこからモデムまでの回線に異常が

ないか、またモデムへの接続部分にも異常がないかを点検しましたが、異常は見つかりませんで

した。

 

決められた時間になったため、工場の事務員の皆さんに今から大阪とのテストを行うので、オンライ

ンは使えませんと話しました。

 

機器を使って、大阪ー岡山間のデータ送受信テストを20分間行ってみるものの、異常はありません

でした。

 

テストも終わって、また事務員の皆さんがオンラインを使い始めて、1時間後くらいでした。

 

「姜さん、今オンラインが落ちました!」と担当の方に言われました。

 

ところがモデムの表示を見ても異常がありませんでした。

 

リクルート岡山AP、リクルート大阪AP、K社大阪本社でも異常は見つかりませんでした。

 

私は思わず頭を抱えてしまいました。

 

そんな私に追い打ちをかけるかのように、担当の方が私に、工場長がお呼びですと言われました。

 

工場長のところに行くと、約15分間怒られ続けました。

「お前たちのせいで、工場の仕事が何回もストップしているんだぞ。一体どうしてくれんだ!」

 

これまで24年間生きてきた中で、ここまで人から怒られたのは初めてでした。

 

その後、もう一度最初に行った点検作業を繰り返しながら、事務員の方がほとんど帰られる直前

まで工場にお邪魔していたのでした。

 

工場を去るときは、1日かけて調査したのに原因がつかめず、本当に自分が情けなくて、悔しい気

持ちで一杯でした。

 

リクルート岡山AP前で、Hさん、リクルート岡山の準社員の方と合流し、居酒屋に行くことになりま

した。

 

居酒屋では元気のない私に気づいて、Hさんがこう言いました。

 

「姜、このトラブルは一筋縄では解決するのが難しい。お前のせいじゃないんだからそう気を落とす

な」

 

私はこの時、ただトラブルが解決しなかったことで落ち込んでいたと思っていましたが、その背後に

工場長に激しく怒られて心が委縮していたことには気づかなかったのでした。

 

Hさんは、その場で1週間後に再度テストを行うと宣言しました。

 

どうやらHさんの執念にも火がついたようでした。

 

 

第31話に続く

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結局、最後まで父の保険金がいくらだったのか、そして借金はいくらだったのかを私は母に問いただす

ことはできませんでした。

 

でも借金は完済し、その上高価な仏壇を買い、人並みな墓を建立することが出来ました。

 

私は、これからは自分が母や妹を守っていかなければいけないんだという使命感のスイッチが入って

いました。

 

それが惨めに死んでいった父を失った悲しみを忘れさせてくれたのだと思います。

 

父の死後も忙しく仕事をして、ようやく新人を迎える時期が到来しました。

 

(やっと下っ端の仕事から解放される!)と内心期待したものでした。

 

2年目になって、仕事の内容が変わりました。

 

それはこれまで社員が中心だったトラブル対応を最終的には協力会社に委託するための業務でした。

 

1年間に蓄えたスキルやテクニックを協力会社の人たちに、享受する毎日でした。

 

そうこうしているうちに、うちの課にも新入社員が入ってきました。

 

やっぱりリクルートが選ぶ人間というのは、どこかしらポジティブの塊みたいなやつがほとんどでした。

2年目としても迂闊な言動をとるわけにはいきませんでした。

 

ちょっとでも隙を見せたら、ここぞとばかりに突き上げてくるのでした。

 

9月ごろ、新人のKが、私の担当する最大手文具メーカーK社の岡山工場で、トラブルが度々発生するも

すぐに収まってしまい、原因がつかめぬまま、1カ月近くが経過していることを報告しに来たのでした。

 

私は、何か嫌な予感がしたので、その会社の本社担当N課長に電話で探りを入れてみました。

 

ところが、そうみたいだなという言うだけでそれほど切迫感はありませんでした。

 

でもその2日後、再びK社岡山工場でオンラインがストップする事態が発生したのでした。

 

私はこれはどうにかしないと大変なことになると思って、先輩のHさんに相談しました。

 

Hさんもかなり危機感を抱いているようでした。

 

そして、Hさんと私、そしてKの3人で、会議室で資料を見ながら対策会議をすることにしたのでした。

 

 

第30話に続く

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忘れもしない1989年2月26日の午後、忙しく働いている最中に私を呼ぶ声がしました。

 

「姜さん、妹さんから電話です」

 

(なんなんだろう、この忙しい時に)と思いながら、点滅している回線ボタンを押しました。

 

「もしもし、なんかあったのか?」

 

妹の声は、若干震えていました。

 

「オッパ(お兄ちゃん)、お父ちゃんが自殺してん」

 

私は、思わず大声で、「自殺ー!」と叫んでしまいました。

 

当然のことながら、周りの視線が集まるのを感じました。

 

「すぐにいく!どこに行ったらええ?」

 

「今、神戸西警察署で事情を聴かれてるところやねん」

 

「わかった」

 

電話を切って、すぐさま課長のデスクまで行き、事情を話して会社を出ました。

 

先に、その前年の冬のボーナスで買ったポンコツのカローラⅡを取りに、寮の近くの駐車場に向かいました。

全速力で車を飛ばし、神戸西警察署に着いたのですが、母と妹が見当たりませんでした。

 

警官に事情を話して担当した刑事に話を聞くと、病院に行ったのではないかと言われたので、病院に向かい

ました。

 

現在ならスマホで相手の現在地を聞けば済む話ですが、当時はどこにいるのかも突き止めないとわかりませ

んでした。

 

病院に到着し、聞いてみると、もうすでに遺体と一緒に家に帰ったとのことでした。

 

私は舌打ちしながら、家に向かいました。

 

家に入ると、奥の部屋に棺桶が置いてあり、その前に伯父と叔父が座っており、母と妹はダイニングテーブル

の椅子に座っていました。

 

私は、「オモニ(お母さん)!」と叫びました。

 

母は、泣きながら私に抱きついてきました。

 

そして「健ちゃん、これから私はどうやって生きていったらええの!」と叫びました。

 

私も泣きながら、「僕がおるから大丈夫や!」と言いました。

 

しばらくしてから、私が棺桶に近づくと、母が「見るな!」と叫びました。

 

父は焼身自殺をしたので、どろどろにただれて顔も判別できない状態を、私に見せたくなかったのです。

 

ですから私は結局父の最後の顔を見ませんでした。

 

後の聞いた話ですが、警察での身元確認を母は妹にさせたそうです。

 

ですから母もまともには見なかったのかもしれません。

 

そのあとは、母の恨み節が始まりました。

 

伯父と叔父に対して、なぜもっと親身になって助けてくれなかったのかと言いました。

 

2人は、何も言わず黙って下を向くばかりでした。

 

そうしているうちに、寺の住職がやって来て、お通夜が始まりました。

 

確かあの時に何の飲み物も食べ物も用意してなかったと記憶しています。

 

ただ、お経を読んでもらって、終わりでした。

 

伯父と叔父は、明日(葬式)来ますと言って帰りました。

 

母と妹と私の3人になって、母が話し出しました。

 

実は父は1年前に死亡保険に入っていて、自殺することによって借金を保険金で返すようにしてあったという

のでした。(当時はまだ1年で自殺しても保険金が支払われていた)

 

いくら借金を返すためといっても、これでは残された私たちが惨めじゃないかと私は思いました。

 

そして大学4年の秋、最後に待ち伏せた父と対面した時のことを思い出して、私は再び泣きました。

 

(あー、あのときから数カ月後には死ぬ覚悟をして、1年を過ごしたのだな。どれだけ悲しい1年だったのだろう

か)

 

そしてこうも思いました。

 

(父はきっと自分のことが許せなくて、うつ病にかかっていたのかもしれない)

 

私たち親子3人は、それぞれ父の死を自分の親友をはじめ誰にも知らせませんでした。

 

ですから翌日の葬式は、密葬でした。

 

参加したのは、父の男兄弟3人、母の弟、父と母の弟の共通の友人の5人だけでした。

 

私は母のことが心配ではありましたが、3日間だけ休んで、仕事に戻ったのでした。

 

 

第29話に続く

 

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夏も半ばの日曜日の午後、「姜さん、電話!」という寮母さんの声が聞こえてきました。

 

ピンク電話を受け取ってみると、彼女からでした。

 

私は長い間電話すらかけてなかったので、気まずかったのですが、彼女は今度の日曜日に

大阪鶴橋の喫茶店で待っているから来てほしいということだけを言って、すぐに電話を切りま

した。

 

1週間後、指定された喫茶店に入ってみると、奥のテーブル席で彼女が座っていました。

 

飲み物を注文した後、飲み物が来るまで二人とも黙っていました。

 

飲み物を置いて店員が去っていくと、彼女が話を切り出しました。

 

「オッパ(お兄さん)は、私のことをどう思ってるの?電話はかけてこないから当然デートに行

くこともない。これで恋人と言えるの?」

 

私は包み隠さず、自分の状況を話しました。

 

「今、僕は仕事で精いっぱいで、休日にも疲れ果てて寝てばかりで全然余裕がないんだよ」

 

「でも私のことが好きなら、しんどくても電話の1本くらいはできるよね?」

 

「・・・」

 

「私のことが好きでも何でもないということだよね」

 

「・・・」

 

突然、彼女が泣き始めました。

 

そしてこう言いました。

 

「もういい。帰って」

 

「いや、もうちょっと・・・」

 

「早く帰って!」

 

仕方なく私は席を立ちました。

 

一度だけ振り返ると、彼女はテーブルに伏せて泣いていました。

 

私は済まない気持ちで一杯でしたが、かといって彼女に対する愛情がもはやないことも感じ

ていたので、まっすぐ寮に帰りました。

 

こうやって彼女との交際はあっけなく数カ月で終わってしまったのでした。

冬頃になると、私たち新人3人は、もう先輩を頼ることなくトラブル対応ができるほどにスキル

が上達していました。

 

トラブル対応は私たち社員だけではなく、協力会社の人たちとも一緒にしていました。

 

私たちはできるだけ協力会社の人をうまく使いながら、トラブルを解決していくことを目指し

ていました。

 

トラブル対応が上達したからと言って、残業が少なくなったわけではありません。

 

今度は大手ユーザーをトラブル対応担当として割り当てられて、営業マンと一緒に挨拶に出

かけたり、トラブルが発生した時には、率先して対応し、ユーザーへ提出する報告書作成を

させられ、実際営業マンとともにお客様に謝罪しに行くことまでさせられたのでした。

 

私は、大阪の最大手文具会社と京都の大手織物会社を担当させられました。

 

慣れてくると、営業マンがトラブル謝罪の業務を私に任せてきたりしました。

 

一人でお客様に発生したトラブルについて謝罪し、そのいきさつを説明することは、かなりの

緊張とストレスを伴うことでした。

そんな忙しい中、1989年2月下旬に妹から電話がかかってきたのでした。

 

 

第28話に続く

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大阪での新人研修が終わり、正式に配属部署が発表される日がやってきました。

 

ここで簡単に、当時のリクルートの通信事業について説明します。

 

まず1985年に日本電信電話公社がNTTへと民営化されました。

その結果、NTTは通信回線をばら売りし並びに通信施設の一部を民間に貸し出すことになりました。

 

リクルートはそこにいち早く目を付け、大量に通信回線を買い取るとともに、全国にリクルートの

拠点施設を作りました。

 

例えばユーザーの東京本社と大阪支社をオンラインで結ぶ場合は、こんな感じになるのです。

 

ユーザー東京本社ーNTT東京ーリクルート東京ーリクルート大阪ーNTT大阪ーユーザー大阪支社

 

この中でリクルート東京ー大阪間がNTTよりも安くなるため、メリットがあるのです。

 

一方で、同じような仕組みで、WATTSという電話サービスも行っていました。

 

東京本社から内線をかけるようなタッチで大阪支社に電話をかけられるのでした。

 

したがって技術の部署には、オンラインサービスの接続作業部門、オンラインサービスのトラブル

対応部門、WATTSの接続作業部門、WATTSのトラブル対応部門、設計&手続き部門の5つがあ

りました。

 

私はこの中で、お客さんにとって最も緊急性が高く、その対応に迅速さが求められる、オンライン

サービスのトラブル対応部門に配置されたのでした。

 

そこに配置された私とS君、M君の血のにじむような毎日がスタートしたのでした。

 

まず先輩に言われたのは、ユーザーとのホットラインの電話を早く取れということでした。

 

3人が1台の電話機をにらみあって、今か今かと電話機が鳴るのを待っていました。

 

まるで新春恒例かるた取りの絵図でした。

かといって電話を取ってもトラブルの対応がまだちゃんとわかっていないので、先輩に聞きながら

やるのですが、お客さんからは急かされるし、電話連絡しないといけない箇所は多いし、本当に

ハチャメチャでした。

 

そんな中でも対応の記録はちゃんとメモを取っていないとトラブル報告書が書けないので、注意が

必要でした。

 

気が付けば午後1時だったというのはざらであったし、ストレスで胃が収縮してしまっているのか食

欲もなかったです。

 

特にトラブル報告書を書くのが大変でした。

 

あの会社のトラブルを何時何分にこうした、ああしたということがメモに散らばっており、つなぎ合わ

せるのが一苦労でした。

 

毎晩10時ごろまで残業することになり、帰りのバスはすでに終わっていて、仕方なしにタクシーで

帰ることが多くなりました。

 

6月頃には、さすがに毎日の通勤時間で疲れ果てていたし、タクシー代ももったいなかったので、大

阪府豊中市にあった会社の寮に入ることにしました。

 

寮に入ってからは一層残業が長くなりました。

 

多い月には軽く200時間を超えていました。

 

しかし、この寮も最寄駅から徒歩20分と不便な場所に建っており、かつ帰る時間帯には駅前には食

べ物を売っている店はご飯が置いていないラーメン店1件のみという状況でした。

 

また当時はコンビニがほとんど普及していない時期で、寮への行き帰りの道すがらにもそういった店

舗がありませんでした。

 

だから夕食は梅田の居酒屋で済ますことが多かったのでした。

 

休日は、疲れ果ててひたすら寝ていました。

 

起きたら午後3時という日曜日もありました。

 

彼女に電話しようにも平日は落ち着いたら時間は遅くなっているし、休日はしんどくて電話する気にも

なれませんでした。

 

寮にはピンク電話しかなく、外に出かけないといけなかったというのも面倒でした。

 

いや、休日に彼女に電話しなかったのは、仕事のことで一杯一杯で、もう一時の情熱がなくなっていた

からというのが本音でした。

 

そんな時、珍しく日曜日の昼間に彼女から寮に電話があったのでした。

 

 

第27話に続く