うつ状態で苦しむあなたを助けたいのです! -24ページ目

うつ状態で苦しむあなたを助けたいのです!

私が躁うつ病を発症して29年目になりますが、躁とうつの波にもまれて苦しみのどん底にいた状況から8年前にようやくうつ状態を克服し、躁うつ病を薬だけ飲んでいれば症状が出ない寛解に至りました。今度はあなたが寛解する番です。

第40話に戻る

 

 

私が母に一銭のお金も渡さなくなって、当然母は家賃10万のマンションからいられなくなりました。

 

そこでたまたま妹の旦那名義で応募した神戸市北区の公団住宅が当たり、そこへ引っ越すことになりました。

 

私は引っ越しの手伝いにも行かず、自分のマンションで寝ていました。

 

それから2週間後、チャイムが鳴ったので、何とか起きだして玄関のドアを開けてみると、そこに母が立ってい

ました。

 

母は、私が寝たきりになっているのではないかという虫の知らせがあったと言いました。

 

そしていきなり電話帳を開き、何かを見つけ、電話をかけたのでした。

 

「あの、売りたいものがあるので来てくれませんか?」

 

20分後には、物品買い取り業者がマンションにやって来て、母は私の部屋にあった家具類を売りさばいたの

でした。

 

そして、引っ越しの準備するでと言い、物を整理し、掃除を始めたのでした。

 

母は、やることを終えると、後は自分でレンタカーを借りて、引っ越ししておいでと言い、帰っていきました。

 

私はとても一人で引っ越しできる体力も気力もなかったのですが、やらざるを得ない状況に追い込まれたの

でした。

 

もう一つ問題がありました。

 

それは彼女のことでした。

 

私は神戸市北区に引っ越してしまうと、そう簡単に会うことはできない、でもこのままの私の状況じゃ会いに

行くこともできない、こんな私と付き合っていても彼女は不幸だ、と考え、自分からはもう連絡を取らないこと

を決めました。

 

でも彼女の悲しむ顔が頭にちらつきましたが、彼女の幸せのためには私はいない方がいいと信じ、一人で

引っ越しを済ませ、母と暮らし始めました。

その10日後、彼女から手紙が送られてきました。

 

「あなたはきっちりした人だから移転先の住所は申請していると思い、この手紙を書いています。仕事を終

え、あなたのマンションの合い鍵でドアを開けた時、部屋の中に何もなくて、まるでドラマのワンシーンを観

ているようでした」

 

その後の内容はもう忘れてしまいました。

 

恐らく彼女はあんな形で2人の関係を終わりたくなかったと書いていたのでしょう。

 

私はその手紙を最後まで読んで、済まない気持ちで涙を流しました。

 

そして彼女が私なんかよりもっといい人に出会い、幸せになるようにと心から祈りました。

 

母と暮らし始めてもうつ状態は一向によくはなりませんでしたが、母が仕事に行くようにとうるさいので、

1993年2月に適当に選んで、神戸の花隈にあったH社に入社したのでした。

 

はっきり言って面接で社長から仕事の内容を説明されても、さっぱりわかりませんでした。

 

加えて履歴書に通称名の新田を書いてしまったため、姜じゃなくて新田でいってくれと社長に言われた

のでした。

 

仕事内容も通称名でいくことも気に食わなかったのですが、働けば何でもいいんだろうという投げやり

な気持ちで了承したのでした。

 

 

第42話に続く

 

第39話に戻る

 

 

私が躁状態でもう何が何やらわからない状態で過ごしているときに、社長から社長の事務室に社員が

集まるように声がかかりました。

 

社長は多角経営をしていたので、別のビルの一室で執務を行っていました。

 

なので、全員でそのビルの事務室に向かいました。

 

全員が到着したことを確認すると、社長は私を指さし、こう言い放ちました。

 

「よくこんな奴に月給25万円もやっていたな。お前はクビじゃ!中小企業診断士でもなればええ!」

 

私はカチンときて思わず社長に駆け寄ろうとしました。

 

そんな私を周りの社員が羽交い絞めにしました。

 

そんな中、暴れながら私は、「このバカ社長め!」と叫んでいました。

 

みんなで事務所に戻ると、私はカバンを持って黙って出ていきました。

 

怒りが収まらない私は、後日によく誘拐犯が送る幾何学的な文字で脅迫状みたいなものを社長あて

に送ったのでした。

 

どんなことを書いたのか忘れましたが、きっと恐ろしい脅し文句を書いていたのでしょう。

 

私の病気を知る人なら、病気のなせる業だとわかりますが、それを知らない人は本当に悪人に思えた

ことでしょう。

 

私のしたことをKさんが関大の先輩Cさんに話したようで、どうしたものかを考えるために、名古屋の3つ

年上のKさんや親友だったR君を呼び、私の家までやってきたのでした。

 

私から事情を聴いた名古屋のKさんは、なぜこんなことで名古屋から呼ばれないといけないのかとプリ

プリCさんに怒っていました。

 

4人で話したとしても、何の対策も出てきませんでした。

 

私は家にいて母に問い詰められるのを嫌って、一人暮らしをしようとリクルートの時に仲の良かったM

君に保証人になってもらい、大阪府高槻市のJR摂津富田駅近くのマンションに引っ越しました。

 

私はクリニックにも行かず、マンションの周りをぶらぶらしながら毎日を過ごしていました。

 

3か月後に神戸の六甲で、電光掲示板の広告サービスをするN社に入社しました。

 

彼女とは付き合いが継続していました。

 

ところがN社というのは、銀行上がりの社長一人が営業する会社で、なかなか顧客が取れないため、

一気に雇った私を含めた4人の社員がする仕事がほとんどなかったのでした。

 

先が見えない会社で働く時間がもったいなくて、私は3カ月でN社を辞めました。

 

その頃には、私のエネルギーは影を潜め、うつ状態になっていきました。

 

何もする気が起きずに、一日中マンションで寝ていました。

 

これで彼女にも捨てられると思いました。

 

なぜならリクルート時代に躁状態で付き合った女性に、うつ状態になったときに捨てられたことがあっ

たからでした。

 

でも彼女は私を捨てませんでした。

 

仕事の帰りに食べ物を買って、寄ってくれました。

 

でも可哀想だった、彼女が…。

 

 

第41話に続く

 

第38話に戻る

 

 

1991年10月、心を新たに、A社に初めて出勤しました。

 

事務所は雑居ビルの3階に小さな空間で、そこで働くのはわずか5人でした。

 

その中に、Kさん以外に、よく知っているRさん(大阪府大工学部卒)や顔だけは知っている人も1人いました。

 

Rさんも熱烈に歓迎してくれて、私への期待感をあらわにしました。

 

そしてRさんは、日本人である?さんが私の教育係だから、頑張ってC言語プログラミングを習得するように

と言いました。

 

私は、自分では一生懸命勉強しているつもりでしたが、いかんせん躁状態が私を集中させてくれませんで

した。

 

?さんは私に何回も同じところを教えてくれるものの、私にはどうしても頭の中に入っていかないのでした。

 

しかしKさんもRさんも私が一生懸命勉強していると信じていたことでしょう。

 

入社して3カ月後くらいに、Kさんと飲み行く機会があり、そこでKさんがつてがあるので私に一度在日コリ

アンの女性と見合いをしてみないかというのでした。

 

躁状態の私がそんな話に飛びつかないわけがありません。

 

すぐさま段取りされて、仲介のおじさんとともにホテルニューオオタニ大阪のラウンジで見合いをしました。

 

私は母に黙っていたので一人で行ったのですが、先方は母親がついてきていました。

 

相手の女性は、同い年のやせ形で愁いを帯びた顔をしていました。

 

二人きりで30分ほど話しましたが、ごく普通の女性に思えました。

 

後日、仲介のおじさんから電話があって、先方は君のことを気にいっているようだけど、どうする?と聞

かれました。

 

私は、特に気に入ったわけではありませんでしたが、付き合ってみて判断しようと思いました。

 

そしてそのKさんとの付き合いが始まりました。

 

彼女は大阪の岸和田に住んでいたので、私はしょっちゅう当時乗っていたホンダ・トゥデイで岸和田ま

で行き、デートを重ねました。

 

この時点で、もう自分が真剣にC言語プログラミングを習得しなければならない身であることを忘れてい

ました。

 

入社して5カ月後、Rさんが私を呼び、プログラミングに関する質問をしてきました。

 

私はそれに答えることができませんでした。

 

するとRさんの顔が見る見るうちに赤くなっていくのがわかりました。

 

「お前、こんなこともわからないのか!」

 

それに対して、私は反省することなく居直ったのでした。

 

「Rさん、私はどうもプログラミングは向いてないみたいで…」

 

そしてKさんにも私はこう言いました。

 

「私に営業をやらせてください」

 

RさんとKさんはあきれていましたが、仕方なく私に一回営業をさせてみることにしたのでした。

 

そして神奈川県の藤沢市まで出張し、営業活動をしたのでした。

 

でもシステムの内容を詳しく知らない私が説明しても、先方の心に響くわけがありませんでした。

 

出張から帰ってきて、私の躁状態は、もう一段アップし、今度は中小企業診断士になるために、会社

が終わった後、専門学校に通い始めたのでした。

 

 

第40話に続く

 

第37話に戻る

 

 

退院してまずしたことは、電話で課長に退院の報告、そして1カ月間休職すること、そして1991年9月末を

もって退職することを告げることでした。

 

もう心身ともに健康ではありましたが、有給休暇が多く残っていたので、休職することにしたのでした。

 

課長に電話報告が終わると、何か胸のつかえがとれたように、すっきりした感じでした。

 

ところが私は、次の躁状態が始まりつつあるのを気付いてはいませんでした。

 

母は、1カ月間で次の仕事を探すものだと決め込んでいるものの、私自身はまるで余裕をもって何もせず

、好きなパチンコに興じていたのでした。

 

新しい就職先を探そうともせずにいる私に、母の小言が徐々に増えてきていた時でした。

 

大学生時代の留学同の2つ上の先輩であるKさん(摂南大学工学部卒)から電話がかかってきました。

 

電話番号は、関大の先輩であるCさんから聞いたとのことでした。

 

内容は、会ってから話すので、大阪・梅田まで出てきてほしいとのことでした。

 

病気のことや入院したことは、私の大学時代の関係者には誰にも話していませんでした。

 

ですから私は、元気にリクルートで働いていることになっているはずでした。

 

そんな私に、一体何の話だろうかと思いました。

 

その週の土曜日の午後に、梅田まで出かけました。

 

駅の改札口を出たところで、Kさんの懐かしい顔が見えました。

 

Kさんとは、一緒に留学同にいたのは2年間ですが、最後の1年で理系の人間で研究会みたいなもの

を作っていて何回か勉強会をしたことがあったのでした。

 

近くの喫茶店に入り、飲み物を注文して、それが運ばれてくるまで、Kさんは今の会社の仕事のことを

聞いてきました。

 

私は適当に忙しく働いていることをアピールしました。

 

飲み物が運ばれてきて、一口ずつ飲むと、早速なんだがとKさんは名刺を出しながらこう言いました。

 

「在日2世の経営するA社で、システム開発の仕事をしているのだけど、人員が足らなくて困っている

んだよ。それでぜひともお前にわが社に入ってもらいたいんだけど、どうかな?」

 

私はしばらく考えて、こう聞きました。

 

「私はどんな仕事をすることになるんでしょうか?」

 

「C言語によるプログラミングをしてほしいと思っている」

「でも僕はC言語は知らないですよ」

 

「一から覚えてもらうということで構わないから。それと今手取りでどのくらい給料をもらってる?」

 

「大体25万くらいですかね」とそこは正直に答えました。

 

「わかった。その金額は保証しよう」

 

「いいんですか?一からプログラミングを覚える人間に25万払うって」

 

「構わない。お前が来てくれるんなら」

 

私は、ちょっと考えさせてほしいと言い、4,5日後には会社に電話を入れることを約束して、Kさんと

別れました。

 

私は家でいろんな角度から自分の今後のことを考えていました。

 

私がリクルートで得た知識やスキルというのは、通信に関する一部のものと技術営業に関するもの

しかなくて、それを生かせる会社がほぼないんじゃないかと思いました。

 

それなら一からC言語によるプログラミングを覚えた方が、何かと手に職がつくんじゃないかと考え

ました。

 

それに加えて25万の給料がもらえるなんて好待遇だと思いました。

 

10万の家賃の支払いにも困ることはないから、母にとやかく言われることもないし、自分の新境地

を作っていく上で申し分ないと考えたのでした。

 

A社に電話をかけ、Kさんにお世話になりますという返事をすると、Kさんはすごく喜んでくれました。

 

もし私が躁状態でなければ、Kさんに私が躁うつ病であることを伝えていないことに後ろめたい感情

を持っていたことと思います。

 

私が退院後、リクルートに出社したのは、退職する日でした。

 

大阪から東京へ転勤していった先輩や同期から、色紙が届いていました。

そのうちの一人の先輩は、色紙にこう書いていました。

 

「次に東京に来るのは、姜だと思っていたのに、残念だよ」

 

そして部長の鶴の一声でフロアの全員が集められました。

 

「えー、今日で姜が退職します。姜、一言!」

 

部長の横でフロアの人たちに向かって話すことになったのですが、私は躁状態でしたので、皆さん

に迷惑をかけたことを棚に上げて、面白かった話や嫌だった話などをしてから感謝の言葉を口にし

ました。

 

おそらく課長や課のメンバーからしたら、かなり気分の悪い挨拶だったと思います。

 

最終的にもらった給料明細には、持ち株を売却したお金や退職金で結構多くのお金が振り込まれる

ことになっていました。

 

こうして3年半通ったリクルートともおさらばしたのでした。

 

 

第39話に続く

 

第36話に戻る

 

 

入院して2カ月を過ぎようかというとき、K看護師が実は既婚者だったことが判明しました。

 

それで私はようやく本来入院した目的に立ち返ることが出来ました。

 

実は母が見舞いに来た時、K医師と3者面談をしていました。

 

その時母が私がまだ聞けずにいた疑問をK医師に投げかけました。

 

「息子の躁うつ病は治るまでどのくらいかかるのでしょうか?」

 

するとK医師は、少し考えてからこう答えました。

 

「おそらく10年はかかると思っていただいていいと思います」

 

今から考えれば、躁うつ病が10年で治るという保証はどこにもなかったのに、K医師は母の気持ちを

忖度したのだと思います。

 

当時から精神医療界では、躁うつ病はほぼ一生ものと見られていたことを私が知ったのは、その日

からだいぶ経ってからでした。

 

ということは入院をしても、躁うつ病を治すことはできない、ただ現在のうつ状態を改善させることが

主な目的なのだと認識すると、その先のことを考えなければなりませんでした。

 

それは、リクルートでこのまま働くのかどうかでした。

 

でもうつと躁の波がこれからも出てきて、会社というよりは課長や課のメンバーに迷惑ばかりかけて

しまってもいいものかを日夜考えていました。

 

入院をして2カ月半が過ぎた頃、K医師は私にこう言いました。

 

「姜さん、もうそろそろ退院してもいいのではないかと思うんだけれど、今の会社を続けるか、それとも

辞めて転職するかを決めた方がいいんじゃないかな?」

 

私の心の中ではこの時結論は出ていました。

 

「先生、私はもうこれ以上今の会社に迷惑をかけるのは人間としてしてはダメなんじゃないかと思うん

です。だからきっぱり辞めようかと思います」

 

K医師は、賛成ですと深くうなづきました。

 

そして2週間後に退院することで、話は決まりました。

 

もちろんK看護師にも私が下した決断について話しました。

 

K看護師は、よく決めたねと言ってくれました。

 

その頃には、入院患者とも打ち解け合っていて、退院前に片道50分の距離にある大きな公園まで6人

ほどで散歩したことが今でもいい思い出になっています。

 

入院時には冷たい視線ばかりと思っていたのが、退院前には躁うつ病だけれどどこか輝いている私に

興味を持ってくれる人も多数いました。

 

私は入院して3か月後に、何人かの人に見送られながら、(二度と入院するものか)と思いながら退院し

たのでした。

 

 

第38話に続く

 

第35話に戻る

 

 

私は精神病院の患者に担当の看護師がついて、一体どうするのかを全く知りませんでした。

 

K看護師に呼ばれてナースステーションの奥まったところに行くと、最初に挨拶に来たときはあんまり

ちゃんとK看護師を見なかったのでわかりませんでした。

 

でもその日よく見ると、整った顔にスレンダーな体系をしていて、まるでモデルの様な人でした。

 

K看護師は、私の生い立ちから入院に至るまでの話を数回に分けて聞きたいのだと言いました。

 

私は、幼少のころからの話を始めました。

 

この人には自分のすべてを知ってもらいたいと思い、必死で話をしました。

 

K看護師は私の話を聞きながら、カルテにも書いているため、ゆっくりと話さなければなりませんでし

た。

 

時には愁いを帯びた顔をし、時には楽しそうな顔をするK看護師にすっかりときめいてしまいました。

初回の面談を終えてからは、少し元気になったようで、少しずつ病室の外に出始めました。

 

漫画「三国志」を読んだり、別建物に行って卓球をさせてもらったりしました。

 

また夜になると、1階にあったテレビをみんなと一緒に観たりもしました。

 

そしてK医師の面談より、K看護師の面談を待ちわびるようになりました。

 

入院して1カ月が過ぎ、K医師から外出の許可が出ました。

 

病院の周りは田んぼだらけですが、20分も歩けばスーパーや本屋もあるとのことでした。

 

その頃には時々しゃべる患者さんはいましたが、一緒に散歩をするまでの仲にまではなっていなか

ったので、一人で散歩に行きました。

スーパーでおやつやジュースを買って近くの公園で休んだり、本屋で立ち読みしたりしました。

 

そんな頃、母が見舞いにやってきました。

 

母は私が家にいるときよりやや元気になっていることを確認して、こうなったらゆっくり休みなさいと

言ってくれました。

 

あとで聞いた話によると、見舞いの帰りのバス停の近くに芹(せり)が生えているのを見つけ、摘ん

で帰ったとのことでした。

 

K看護師との面談も最終日になっていました。

 

私は思い切って、これからも必要な時に話を聞いてもらえるかを聞きました。

 

するとK看護師は、前もって言ってもらえば時間は作ると言ってくれました。

 

私はこの入院で一番大切な出会いをしたのだと思ったのでした。

 

 

第37話に続く

 

第34話に戻る

 

 

その日も私は大した仕事もせずに過ごしていました。

 

突然、「姜!こっち来い!」という部長の怒鳴り声がしました。

 

私は一瞬何のことかわからず、慌てて部長のデスクに向かいました。

 

「お前、今日入院することになってたんやろ。なんで会社におるのや!」

 

そうだったのです。

 

前回の診察日に決まって、その日に入院するはずだったのに、私はすっぽかしたのでした。

 

何も言わない私に向かって、部長はまくしたてました。

 

「明日、入院しろ。わかったな!」

 

私はもう仕方がないとあきらめ、はいと答えました。

 

仕事を終えて家に帰って初めて入院の話を母にしました。

 

母もまさか入院しなければならない状態とは気づいていなかったので、びっくりしていました。

 

また入院する病院がK医師が院長である滋賀県の病院であることにも驚いていました。

 

寝る前におおよその入院の準備をしたのですが、やっぱり入院するのが嫌でぐっすり眠ることが

できませんでした。

 

26歳の6月上旬、自宅から病院まで約2時間30分ほどかかるため、自宅を6時30分ごろに出まし

た。

 

滋賀県のY駅からバスで15分、バス停から見える距離にくすんだ灰色をしたK病院がありました。

 

K病院の周りはわずかの集落以外は田んぼだらけという環境でした。

病院の受付で、名前を伝えると診察を待ちました。

 

30分ほどして、診察室に入ると、K医師は私の予想とは裏腹に怒ってはいませんでした。

 

簡単に入院時の過ごし方について話した後、入院中はK医師に代わってN医師が担当すると告

げられました。

 

診察後には身長、体重の測定や血液採取、X線写真撮影などを行いました。

 

そして3階に上がって、主任看護師の方から、入院のルールや注意事項などを説明されました。

 

病棟内を私が歩いていると、患者たちの冷たい視線が感じられました。

 

結局、私にあてがわれた部屋は、ナースステーション前の4人部屋でした。

ナースステーションの横には娯楽スペースがあって、当時はタバコの煙がもうもうと立つ中、将

棋をしている人たちやそれを見物する人たち、本や漫画を読む人たちがいました。

 

ですから看護師が一番駆け付けやすい部屋でもありましたが、一番人の声が聞こえる部屋でも

ありました。

 

病室の住人たちは、20代前半、30代後半の精神分裂病(統合失調症)と思われる人と、50代前

半のうつ病と思われる人でした。

 

20代前半の子だけは、独り言や笑い声がうるさかったのですが、それ以外の2人はおとなしかっ

たです。

 

入院して3日くらいは、食事とたばこを吸うとき以外はずっと病室で過ごしていました。

 

4日目には、女性の看護師がやって来て、「担当になりましたKです。よろしく」と挨拶をしてきたの

で、私も、よろしくお願いしますと返しました。

 

ずっと部屋で横になっていると、突然カーテンレールが気になり、そこにベルトをかけて首を吊った

らどうなるかなと考えて、一回ベルトをそこにかけてみました。

 

その30分後、突然病室の扉がノックされ、看護師が扉を開けてこう言いました。

 

「姜さん、至急ナースステーションまで来てください」

 

なんだろうと思いながらナースステーションに入ると、N医師がこっちと私を呼び寄せました。

 

「姜さん、君、カーテンレールで自殺しようとしていたそうだね」

 

私は、おそらく30代後半の同室の患者が看護師に告げ口したのだなと思いました。

 

私は、取り乱すことなくこう言いました。

 

「私は死ねるとは思っていませんでした。ただどうかなと試しただけでした」

 

「死にたい気持ちがあるんじゃないのかな?」とN医師は決めつけてきました。

 

私は、いいえとだけ答えました。

 

「いや、危ないから保護者の確認を取って閉鎖病棟に行ってもらうから、病室で待っててくれるか

な」とN医師に言われました。

 

私は、こんなことぐらいで閉鎖病棟行きだなんて納得できないと思いながら、病室に戻りました。

 

1時間後に、主任看護師が病室にやって来て、閉鎖病棟に行くことはなくなったからと言われまし

た。

 

あとで母から聞いた話によると、N医師から事情を聴いて、母はそんなはずはないから反対です

と言ったそうです。

 

私はほっと胸をなでおろしましたが、この事件があって担当がK医師に戻りました。

 

私はきざなN医師があまり好きではなかったので、良かったと思いました。

 

その翌日でした。

 

担当のK看護師がゆっくりと話がしたいと言ってきたのは…。

 

 

第36話に続く

第33話に戻る

 

 

クリニックで初診を受けた後、家に帰って母に自分の症状のことを話しました。

 

母は、私が話し終えた後に、こう言いました。

 

「気をしっかり持ちなさいよ」

 

私はそういう問題じゃないと言いたかったのですが、言ってもわかってもらえないと思い、言い

ませんでした。

 

毎日がだんだん嫌になっていました。

 

まともな仕事もできないのに、9時から5時まで会社のデスクに座っているのがです。

 

うつ状態の影響で、気力だけではなく、体力も落ち、食欲もなくなっていました。

 

昼休みになると、課のメンバーが一斉に昼食に出かけるのに、私一人デスクに座ったままで

した。

 

たまに、優しい先輩が声をかけてくれたりして、一緒に昼食に出かけるですが、食欲がないの

で無理やり口に入れている状態でした。

 

そんな逃げ出したいような毎日が2カ月ほど続いたある日、突然やる気ではなく、心が晴れて

ハイテンションになりました。

 

その時は、課のミーティングでも偉そうな提案を出してみたり、本来の仕事とは関係のないこ

とに手を出してみたりしました。

 

当然課長や課のメンバーも私の突然の変わりようにびっくりしていました。

 

でもその時期も2週間ほどしか続きませんでした。

 

そしてまた悪夢のうつ状態に戻ってしまうのでした。

 

突然ハイテンションになることを、クリニックでK医師に話をすると、君は躁うつ病だなと言わ

れ、薬の内容ががらりと変わり、量も増えました。

躁とうつを繰り返すたびに、躁状態では暴言や突飛な行動が多くなり、うつ状態では死にた

いという気持ちが湧いてくるようになりました。

 

躁状態で起こした典型的な言動を挙げてみると、とある会社の営業マンと一緒に技術マン

として同行した時、その会社の古くからあるヒット商品の名前を変えてみたらどうかと私が

提案して、先方から大クレームが来て部長に散々怒られたことがありました。

 

また、突然会社内でアカペラグループを作ると言ってメンバーを募り、練習を重ねて神戸の

中華レストランを借り切ってライブをしたことがありました。

 

もう一つ、部のミーティングを終えて課長と一緒に課のデスクに戻ってきて、私が何かの暴言

を吐いたらしく、突然課長が私に殴り掛かってきました。

 

幸いそのパンチは避けられなしたが、そのフロアが一瞬騒然となり、私のメガネがぐにゃりと

曲がってしまいました。

 

これらは、普通の私ではとても考えられない言動でした。

 

うつ状態では、駅のホームに立っていて、やって来る電車に飛び込むとどうなるか、会社の

ビルの屋上から飛び降りたらどうなるか、寝る前に朝起きるまでに死んでいてくれないだろ

うかということをしょっちゅう考えていました。

でも死にたいということは、医者にも家族にも言うことはありませんでした。

 

自暴自棄になりながらも会社に行くことをやめない私に、社会人3年目の5月に、K医師から

入院治療の話が出てきました。

 

最初は、精神病院に入院することへの抵抗感から拒否していましたが、毎日のあまりのしん

どさにある診察日に入院することをK医師に告げたのでした。

 

 

第35話に続く