私が母に一銭のお金も渡さなくなって、当然母は家賃10万のマンションからいられなくなりました。
そこでたまたま妹の旦那名義で応募した神戸市北区の公団住宅が当たり、そこへ引っ越すことになりました。
私は引っ越しの手伝いにも行かず、自分のマンションで寝ていました。
それから2週間後、チャイムが鳴ったので、何とか起きだして玄関のドアを開けてみると、そこに母が立ってい
ました。
母は、私が寝たきりになっているのではないかという虫の知らせがあったと言いました。
そしていきなり電話帳を開き、何かを見つけ、電話をかけたのでした。
「あの、売りたいものがあるので来てくれませんか?」
20分後には、物品買い取り業者がマンションにやって来て、母は私の部屋にあった家具類を売りさばいたの
でした。
そして、引っ越しの準備するでと言い、物を整理し、掃除を始めたのでした。
母は、やることを終えると、後は自分でレンタカーを借りて、引っ越ししておいでと言い、帰っていきました。
私はとても一人で引っ越しできる体力も気力もなかったのですが、やらざるを得ない状況に追い込まれたの
でした。
もう一つ問題がありました。
それは彼女のことでした。
私は神戸市北区に引っ越してしまうと、そう簡単に会うことはできない、でもこのままの私の状況じゃ会いに
行くこともできない、こんな私と付き合っていても彼女は不幸だ、と考え、自分からはもう連絡を取らないこと
を決めました。
でも彼女の悲しむ顔が頭にちらつきましたが、彼女の幸せのためには私はいない方がいいと信じ、一人で
引っ越しを済ませ、母と暮らし始めました。
その10日後、彼女から手紙が送られてきました。
「あなたはきっちりした人だから移転先の住所は申請していると思い、この手紙を書いています。仕事を終
え、あなたのマンションの合い鍵でドアを開けた時、部屋の中に何もなくて、まるでドラマのワンシーンを観
ているようでした」
その後の内容はもう忘れてしまいました。
恐らく彼女はあんな形で2人の関係を終わりたくなかったと書いていたのでしょう。
私はその手紙を最後まで読んで、済まない気持ちで涙を流しました。
そして彼女が私なんかよりもっといい人に出会い、幸せになるようにと心から祈りました。
母と暮らし始めてもうつ状態は一向によくはなりませんでしたが、母が仕事に行くようにとうるさいので、
1993年2月に適当に選んで、神戸の花隈にあったH社に入社したのでした。
はっきり言って面接で社長から仕事の内容を説明されても、さっぱりわかりませんでした。
加えて履歴書に通称名の新田を書いてしまったため、姜じゃなくて新田でいってくれと社長に言われた
のでした。
仕事内容も通称名でいくことも気に食わなかったのですが、働けば何でもいいんだろうという投げやり
な気持ちで了承したのでした。








