母は、C型肝炎の感染が判明してから、2度の手術を受けました。
私と妹と伯母は、1度目の手術の後に、医師から母の余命宣告を受けていました。
その時に、よく持ってあと5年という話でした。
もちろん本人には話しませんでした。
手術をしても、病状の進行を止めることはできず、再度の手術を医師に打診されていました。
母への手術は開腹手術では体力が持たないため、足の付け根からカテーテルを突っ込んで
施術をするというものでした。
母にとっては、それがどうも苦痛らしくて、断ったそうでした。
そうこうしているうちに、母が肝硬変になってしまったと私に言いました。
それで腹水がたまって、しんどいのだとも言いました。
腹水を抜いても、すぐまたたまってしまうのでした。
肝硬変になってしまっては、もう打つ手がないんじゃないかと思いながらも、母がしんどい思
いをして病院に通うのを心苦しく思っていました。
2001年6月末で、生産管理課課長が退職し、担当役員が私を次期課長に据えることを通達
してきました。
私は躁状態で、自信はありましたので引き受けました。
しかし、私より長い経験を持つジョブリーダーを差し置いての昇進を嫌う人が多いことを何と
も思わなかったのでした。
課長昇進を祝ってというつもりではありませんでしたが、念願の自家用車(カローラフィール
ダー)を購入することにしました。
でも周りからは、課長になったので、車を買ったと思われていたことでしょう。
私は課長になったものの、古株のジョブリーダーが抱えているチーム内のことに口出しする
ことはありませんでした。
私にそれだけの知識も経験もないからでした。
私は、バナナ担当チームだけの面倒を見るようになっていました。
加えて、ルーチン業務担当の2人の休みの代わりや、順番で回ってくる土日のルーチン業
務をしないといけなかったのでした。
私は、担当役員に人を増やしてもらえないと、私が本来の課長業務ができないことを伝え
ました。
しかし、一向に人を増やしてくれることはなく、私は徐々に衰弱していくのでした。
★あなたは自分の大事な人がうつ状態で苦しんでいるのを黙ってみておくのですか?
2000年6月のある日、現場で仕分け作業をしていた時に、F社東京本社の方に声をかけられました。
神戸の生産管理課の課長が私を社員にと推薦してくれたらしく、近日中に東京で面接をしたいと言わ
れました。
このころから徐々に躁状態が始まったものと思われます。
数日後、7月のとある日にF社東京本社にて面接をすることになったと、課長から連絡をもらいました。
面接当日、前もってもらったF社東京本社の行き方のメモを見ながら、約束時間に十分間に合って到
着しました。
面接では、役員3名を目の前にして、私は自分でいうのもなんですが、抜け目ない受け答えをしたの
でした。
また、面接にも同席していた生産管理課担当役員AさんとF社コンサルタントとも話をしました。
あとから聞いた話ですが、この時コンサルタントは私に太鼓判を押したのだそうです。
結果、無事社員になることができ、ジョブリーダーという肩書までいただきました。
ところがこの頃母が、C型肝炎に感染したことが判明しました。
今でこそC型肝炎は治療法も確立され、死亡する人は少ないのですが、当時はまだ治療法が見つか
っていない病気でした。
母の話によると、以前疲れが激しかったので、鍼灸院に通っていたので、もしかしたらそこで感染した
かもしれないとのことでした。
でも証拠がないので、どうすることもできません。
そんな母親は心配ではありましたが、社員として一生懸命頑張っていました。
躁状態ではありましたが、手を抜くことはありませんでした。
10月ごろ昼過ぎにデスクに座って仕事をしていると、右腰の上あたりが強烈に痛み始めました。
これまで経験したことのない強い痛みだったので課長に断って、近くの総合病院に向かいました。
いざ受付に行ってみると、その前には多くの患者が待っていました。
私は冷や汗を流しながら、痛みに耐えていましたが、とうとう我慢の限界が来て、受付の人に言いま
した。
「痛みが我慢できないので順番を速めてくれませんか?」
看護師は、わかりましたと言ったものの、それからまた待たされました。
私はもう一度力を振り絞って、受付の人に言いました。
「もう限界なんです!お願いします!」
そしてその場に倒れこみました。
それでようやく車いすを押した看護士が現れて、私を診察室に入れてくれました。
まずX線写真を撮りましたが、原因がわからず、整形外科に回されても原因がわからず、最終的に
は点滴を打たれることになりました。
その時もベッドの上で、私はあまりの痛みにのたうち回っていました。
そんな私を見て、女性の看護師たちが笑っていました。
点滴が終わるころ、ようやく痛みが引き、病院を出て、会社に戻りました。
散々痛みにもがいて体力を消費してしまったので、そのまま帰宅させてもらうことにしました。
自宅に帰って、小便をすると、何か小さい物体が出てきたので、つまみ上げて見てみると、それは
石でした。
ということは腎臓結石だったのでした。
ようやく原因がわかって、ほっとしました。
翌日、ある男性社員にその話をすると、いっぺんに会社内の人に広まり、笑われる始末でした。
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私は、うつ状態で一日中寝ているのはいいものの、徐々に来月分の家賃の支払いの心配をする
ようになっていました。
そんな時でした。
ドアのチャイムが鳴って、出てみると、母が立っていました。
前回、大阪・高槻のマンションで寝たきりになっていた時と同じように、母がまた私が苦しんでいる
ことに気づいたのでした。
母は、私に引っ越すから今からすぐに車を借りて来いと言いました。
私もあるだけの気力を振り絞って、レンタカー店を探し、ボンゴを借りてきました。
その間に母は、せっせと部屋の掃除をしていました。
マンションの前にボンゴを止めて、2人で荷物を積んでいきました。
幸い家具や電化製品などはそれほど買っていなかったので、何とかボンゴに荷物が収まりました。
そして和歌山を出たのは、もう日が暮れてからでした。
帰り道のドライブインで、母とサンマ寿司を一緒に食べたことを今でも覚えています。
神戸に着いたのが夜遅かったので、荷物の搬入は、次の日にしました。
次の日、2人で荷物を下ろした後、私は一人で和歌山にマンションの鍵と車を返しに戻りました。
こうして私は1年9カ月を過ごした和歌山を後にすることになりました。
神戸に帰ってきて最初の診察日に、私はK医師に入院したいと告げました。
3週間ほど待たされた後、4回目のK病院への入院となりました。
順調に回復し、3か月半後の1998年5月には退院しました。
ここから2年少しですが、寛解したのではないかと思えるほどの状態になりました。
7月には派遣の単発の仕事で食いつないでいたのを、お願いして長期で働ける派遣先を探してもら
い、働き始めることになりました。
その会社が輸入青果・野菜を加工販売するF社でした。
たまたま新しい工場が出来てそこで下請け会社と派遣社員が動き始める絶妙のタイミングでした。
私が担当したのは、加工した色付いたバナナをスーパーや市場などの行き先別にパレットで仕分
けする作業でした。
しかしこの指示書が現場に出されるのが昼前で、それまではフィリピンや南米から輸入した青い
バナナを社員から指示されたとおりにパレット上に積み上げる仕事もしていました。
私たち派遣が積み上げたり、仕分けたりするのを下請け業者のメンバーがリフトで手伝いました。
下請け業者のメンバーも派遣も年齢が近く(私は年齢を5つさばを読んでいた)、雰囲気も良かった
のでした。
なので体は少々きつくても何か充実したものを感じていました。
毎日、真面目に働き、気分の状態も安定している私を見て、母も安心したようでした。
この頃、3週間に1回は、クリニックに通っていましたし、薬もなるべく欠かさずに飲んでいました。
たまに元気になることこそあれ、躁状態になることはありませんでした。
最初は電車とバスで通勤していたのですが、お金もたまったので、原付を購入し、通勤で使っていま
した。
2000年に入り、F社の社員から私を社員に推す声が上がり始めました。
でも私はあまり期待はしていなかったのでした。
★「うつ状態克服カウンセラー」としての活動が徐々に世間に知れ渡り始めています。
1996年4月、躁状態の私は、自宅で雑誌の求人広告を見ていました。
たまたまそこに、5年前に母と妹と訪れた和歌山県白浜の観光ホテル(泊まったホテルではない)の求人が
目に入りました。
私は、その求人を見て、ここだ!と思いました。
母から逃げて、その観光ホテルで住み込みで働こうと思いました。
よく見ると、面接時の交通費支給と書いてあったので、すぐに電話をかけて面接の予約をしました。
4日後、私はその観光ホテルの総務部の応接室で、女性の総務部長と面接を行いました。
自宅に戻って、3日後には電話で合格の連絡がありました。
その時に初めて、私は母に白浜に働きに行くことを伝えました。
母は最初は驚いていましたが、働きに出ること自体は悪くないと思ったのでしょう。
頑張っておいでと言いました。
4月下旬にまずは寮に入り、その際制服を渡され、翌日から勤務開始となりました。
私が配属されたのは、販売部で、お土産屋、ゲームセンター、麺類の店、カラオケボックスでの業務でした。
ゲームセンター以外はすべて主のようなおばさんたちがいるので、まずはゲームセンターの対応から教え
られました。
また、なぜ販売部が担当するのかわからなかったのですが、レストランの舞台の音響やライトの操作を覚
えさせられました。
粗末な食事でしたが、昼と夜はホテル内の従業員食堂で無料で食べさせてもらえました。
近くに店舗がなくて、買いに行くのもめんどくさかったので、朝食は抜いていました。
販売部長は、私は自ら率先して、お土産屋、麺類の店、カラオケボックスの手伝いも覚えてほしいと思って
いたようでしたが、私は躁状態でそんな気は全くなく、適当に時間をつぶしていました。
そればかりか、何とカラオケボックスの調理場で、新しいカクテルを開発していたのでした。
3か月後、私の行為をカラオケボックスのおばさんが部長にチクり、部長も上に報告を挙げたようでした。
すぐさま、私に異動が告げられました。
系列観光ホテルに併設された中華料理店のホール担当でした。
私はそれまで高校3年の時に2週間だけ喫茶店のウェイターを経験しただけで、接客担当は初めてみたい
なものでした。
そこでは、厨房へのオーダー通達時には中国語でしなければなりませんでしたが、いつまでたっても覚え
られる気がしませんでした。
1カ月後、すでに嫌気がさしていて、店長に辞めることを伝えました。
それはすなわち寮からも退去しなければなりませんでした。
しかしその時点で、神戸に帰るつもりは全くありませんでした。
白浜のはずれの方に、マンションを借りて住み始めました。
そしてホテルで仲良くなった先輩に、軽自動車を貸してもらいました(というか後にお金を支払って買い取
る話でした)。
地区の職安に通い、職を探しました。
白浜にはいい仕事がなかったので、南部町の梅干し製造販売の会社に面接に行きました。
1997年5月、まだ躁状態でしたので、口でうまいことを言って入社することが出来ました。
しかし私のする仕事が明確ではなく、社員として働いていた社長の娘である上司も私を無理やり業務をさ
せようとはしなかったので、たまに店番をしてみたり、雑誌への広告掲載の業務に首を突っ込んだりして
いました。
でも社長には私が広告掲載の推進役と見られていました(実際は社長の娘が仕切っていました)。
社の広告を電通にお願いして、dancyuという雑誌に掲載してもらいました。
ところが予想とは裏腹に、通信販売の売れ行きはそれほど伸びず、社長に怒鳴られることになりました。
数日後、社長に呼ばれて、今度の岡山・倉敷そごうでの催事場で一人で梅干しを販売してくるように言
われました。
催事場での販売などしたことがないのです。
明らかに私を潰しにかかってきているのがわかりました。
それでその出張に出かける前から徐々にうつ状態に転じていきました。
販売する前日に、工場からたくさんの梅干しをボンゴに積んで、高速道路で倉敷に入り、ホテルに泊まり
ました。
翌朝、催事場に梅干しを搬入するときには、うつ状態でふらふらしていました。
並べ方もろくにわからず、試食のさせ方も手探りで、声も大きく叫ぶこともできないので、当然売れるは
ずがありませんでした。
何とか最後まで時間を過ごしましたが、売れたのはわずか10個程度でした。
翌日売れ残った梅干しを工場の人に引き取ってもらい、事務所に戻ると、早速社長からのお呼びがか
かり、何をしてきたんだと怒鳴られました。
その日、自宅に帰ると体力も気力も消え失せ、すぐに寝ました。
その次の日から会社に行くことができませんでした。
1日中、何も食べずに寝ていました。
2日後、総務課長とその部下が自宅にやってきたので、もう会社を辞めることを伝えたのでした。
★「うつ状態克服カウンセラー」への家族、親友などの相談は無料で対応させていただいています。
気兼ねなくご連絡ください。
1995年5月、3回目の入院も滋賀県のK病院でした。
もう常連の入院患者と過去2回の入院で知り合った通院患者で知った顔もたくさんいました。
現在の入院システムでは、重症の患者でない限り、基本的に3カ月で追い出されることになります。
しかし当時は、そういう制限はなく、1年以上入院している人も多くいました。
病院としても、ベッドが空いているなら、入院希望者はどんどん入れていくのが経営方針の様でした。
入院時に、K医師と今回は、うつ状態の改善だけではなく、就労機会を作ってみようかという話になり
ました。
なぜかというと、どうも病気になってから、働く際に同僚とのコミュニケーションがうまく取れなかったり、
仕事を覚えるコツみたいなものがつかめなかったりしていたからでした。
前回お話したように、今回の入院が母と仕事からの逃げの側面がありました。
ですからうつ状態から立ち直る速度は1回目の入院時より速くて、入院して3週間後には外出許可も出
ていて、散歩しまくっていました。
片道1時間半かけて琵琶湖のそばまで行ったこともありました。
また卓球やソフトボールで遊び、夜にはテレビをみんなで観てはしゃいでいました。
入院患者の中には、作業所に通って単純作業をしている人もいましたが、私は作業所に通う対象では
ありませんでした。
ケースワーカーに相談したところ、病院の周りの小規模会社からの要請が入るまで、病院のデイケアや
農作業部で体を慣らしておくように言われました。
そして歳月は流れ、ケースワーカーから呼ばれたのが、年が変わった1996年1月でした。
まずケースワーカーと一緒に、働く町工場に出向きました。
そこは主婦ばかり6人くらいで、キャノンの機械の一部を組み立てる職場でした。
責任者の方は、40代半ばの優しそうな女性でした。
見学に行った2日後から、私は病院で借りた自転車で町工場まで行き、主に奥の倉庫から段ボールを
持ってきて、中から筐体を取り出してラインの最初のところに置いていくという作業を任されました。
最初は週2回9時~12時だけでしたが、やっぱり男性の手があった方がうれしいらしく、1カ月後には週
3回になりました。
また時々ライン上で、電動ドライバーでねじ止め作業もさせていただくこともありました。
徐々にコミュニケーションもとれるようになって、責任者の方が時給を上げると言ってくれました。
しかしその頃からでした。
また徐々に躁状態が出始めたのです。
仕事の帰りに、一番小さい缶ビールを飲んで帰るようになりました。
そのくらいでは顔にも出ませんでしたし、気付かれませんでした。
でも数日後、なぜかしらケースワーカーに呼ばれて、就労禁止を言い渡されたのでした。
ビールを飲んだことがばれたわけでもなく、私の仕事場での問題だというのでした。
私としては、せっかく慣れてきて働き甲斐も出てきたのに、出ばなをくじかれた感じでした。
それで結局うやむやな感じで、3月にK医師から退院を言い渡されたのでした。
★当時はまだうつと躁の波に翻弄されていますが、今は寛解して「うつ状態克服カウンセラー」と
して活動しています。
1995年1月、母の知人から紹介されたのは、鉄筋工の仕事でした。
私は嫌でしたが、入院してお金を使ってしまった負い目があることから、その仕事をするほかありませんでした。
鉄筋工の親方は、まだ私より若く、その下で働く3人も20代前半でした。
でも母の知人にお世話になっているらしく、日給12000円の好待遇で雇われたのでした。
最初は、少し太い鉄筋を運ぶのも、鉄筋が揺れるため、うまくバランスを取れないので、こけそうになっていまし
た。
また足場がいい所ばかりじゃないので、そんなところで鉄筋と鉄筋を結束する作業も大変でした。
毎日、親方が用意してくれた古い軽自動車に乗って、とあるオートバックスの駐車場で待ち合わせをして、親方
のボンゴに合流していました。
まだ仕事を始めて間もなくて筋肉痛と闘っている頃、1995年1月17日午前5時46分、阪神淡路大震災が発生し
ました。
私の家は、神戸市北区だったので、まだましだったのですが、それでもジェットコースーターに乗ってるような揺
れでした。
母とほんま怖かったなと言い合い、家の中の被害状況を確かめましたが、仏壇の中のものが崩れているくらい
でした。
私はまさか海岸沿いの地域がひどい状況とも知らず、いつものように軽自動車に乗って待ち合わせ場所に向
かいました。
待ち合わせ場所でいくら待っていても、親方のボンゴが現れないので、親方の携帯に電話をかけました。
すると親方は、自分の家の中が無茶苦茶だから仕事は1週間休みだと言いました。
電話を終えて周りをよく見ると、車のディーラーのガラスの壁が無残に壊れていたり、家の電話が使えないの
か、公衆電話に並ぶ人たちがいました。
家に帰ってみると、電気とガスは復旧していましたが、水道が使えない状況でした。
テレビを観ていると、神戸市長田区の火災や阪神高速の崩壊などが放送されていて、にわかに信じられない
気持ちでした。
その日から毎晩、寒い中、母と給水車の列に並びました。
3,4日経ってから、母と一緒に軽自動車で、神戸市兵庫区あたりまで状況を見に行きました。
大開という交差点の大崩落はすさまじいものがありました。
仕事が再開しても、私のできる仕事は、鉄筋を運ぶことと、先輩たちが組み上げた鉄筋の結束くらいでした。
その結束も実際は完ぺきなものではなくて、かなりやわなレベルだったと思います。
でも親方は毎日仕事の帰りには缶ビールとおつまみをおごってくれました。
そんな頼りない状況でも文句も言われずに働かせてもらって、3カ月になろうかというときに、再びうつ状態
になりました。
それだけではなく、仕事を継続するのが限界でもありました。
それで仕方なく私は仕事を辞める決意をしたのでした。
私は数回クリニックに通い、K医師に入院を申し出たのでした。
それは7割がうつ状態、3割が逃げの気持ちからの入院でした。
何から逃げていたのか?
母から、そして仕事からでした。
★21年にわたる躁うつ病との闘病、そして寛解、安定就労の過程で学ぶことがたくさんありました。
そんな私をうつ状態克服のサポーターとして選んでくれませんか?
しばらく閉鎖病棟の独房で過ごしましたが、あとで仲の良かった看護師に聞いた話ですが、私は空中の虫か
なんかを捕まえる動作をしていたのだそうです。
そんなことを私は全く記憶にありません。
でも日を追うごとに躁状態は沈静化していき、独房からも出されましたが、閉鎖病棟で狭くて息の詰まる生活
をしました。
このころになって、ようやく冷静に躁状態の言動を振り返って、もしかしたら私はチンピラに半殺しの目にあわ
されていたかもしれなかったと思うと、背筋が凍る思いでした。
1994年6月頃に緊急入院してから3か月後に、ようやく開放病棟に行くことが出来ました。
しかし残念ながら、私の担当はK看護師ではなく、違う看護師でした。
10月ごろ、私に家で15年間飼ってきた愛犬ヨークシャーテリアのカールが死んだと母から電話をもらいました。
私はまだ外出許可が出ていなかったので、看護師にお願いして、新大阪のクリニックで診察中のK医師に許
可を取ってもらい、家に帰りました。
家に帰ると、カールが段ボール箱の中で硬直していました。
さすがに大泣きしました。(今も書きながら思い出して泣いています)
今までありがとうという気持ちと家族のごたごたに巻き込んで済まなかったという気持ちを伝えました。
その2時間後、カールの亡骸は保健所の人に引き渡されました。
翌朝、またK病院に戻りました。
確か、もうその頃にはかなり落ち着いてきたので、次のK医師との面談で外出許可が出たと思います。
前回よりもいろんな場所に、いろんな人と散歩に出かけることになりました。
また1週間に1回、ソフトボールの練習を楽しみにしていました。
その年の12月には、K病院を退院することになりました。
約半年にわたる長い入院生活でしたが、意味のあるものだったと思います。
家に帰ると、また母が早く仕事をしろとうるさかったのでした。
それは入院費が多くかかったのだから当然のことでしたが、私は働くことが若干怖くなっていました。
またうつ状態になったらどうしよう、一からまた仕事を覚えるのはしんどいなetc
この時母は裏で知人に僕の仕事先のあっせんをお願いしていたのでした。
★今日は父の31回目の命日です。私たちのような自死遺族をなくすためにも、うつ状態で死のうとす
る人を1人でも多く救いたいのです。
家にいると母と言い合いになり、気分が悪いため、ほとんど家に帰らない生活が始まりました。
ある夜、私は土地勘のない神戸・板宿のとあるスナックに入りました。
カウンターで飲んでいた私は、離れて飲んでいた客の話に何か暴言を吐いたようでした。
すると一人の男が私に向かってビール瓶で殴り掛かろうとしました。
私は寸前で避けたので大丈夫だったのですが、店を追い出されました。
2時間後くらいに、その店に戻ってお金を支払いました。
後日、知り合いの暴力団の組長から、板宿のチンピラ不動産業者がお前のことを探し回って
いると聞きました。
でもその組長が手打ちにしてくれたようでした。
もうほとんどお金が無くなって、食事もろくに取れませんでした。
そこで思いついたのが、無銭飲食でした。
いかにもお金があるように振る舞い、腹一杯食べて飲んだ挙句、レジでお金がないから警察
を呼べと言ったのでした。
しばらくして警察がやって来て、私を警察署に連れていきました。
訳の分からないことを散々しゃべり、おまけに暴力団組長の名前を出すと、暴対の刑事がや
って来ていろいろと聞かれました。
さすがの私も暴対のいかつい刑事の迫力には縮み上がりました。
翌朝、妹の旦那が警察署まで迎えに来てくれましたが、今にも殴り掛かろうとするほど怒って
ました。
私は家に帰り、母に預けていた自分の障害者年金の銀行カードを出せと迫りました。
母がかたくなに拒んだので、暴力は振るいませんでしたが、屑籠をぶちまけました。
母は私の暴挙に唖然として顔面蒼白でした。
しかしお金がないのに、また外に出かけました。
そして今度は神戸・北野のホテルで無銭宿泊をして、ホテルの従業員に家に電話させ、母が
後日送金することで話がまとまりました。
その頃、妹宅では、親戚のおじさん3人が集まり、私の捕獲作戦を計画中でした。
まず親戚のおじさんたちは、私がつけで食べ飲みした店に金を支払いに行ってくれました。
その後、私が神戸・元町のとある喫茶店に入ったところを、親戚のおじさんたちに取り押さえ
られました。
そして妹宅に連れていかれました。
親戚のおじさんたちも私の病気うんぬんより感情的に許せなくて私を怒鳴りました。
でも結局私を翌日、妹の旦那が付き添って、滋賀の精神病院に強制入院させることに決まり、
親戚のおじさんたちは帰っていきました。
翌日、妹の旦那と私は、K病院の診察室で、K医師と話をしていました。
妹の旦那はほっとしたのか涙を流していました。
すんなりと入院することになった私は、最初開放病棟で過ごしていましたが、何かのきっかけ
(記憶にない)で閉鎖病棟の独房に押し込められました。
それでも私は不満を叫んでは、暴れて壁を殴ったり蹴ったりするので、とうとう抑制帯で手足
を縛られました。
私の恐ろしい躁状態を目の当たりにして、K医師もK看護師も驚きを隠せない表情でした。
そして鎮静剤を打たれたと思います。
それまでにエネルギーを使い果たしたせいか、私は深い眠りに落ちたのでした。
★うつ状態の方1000人とカウンセリングするのが目標です!
H社への出社当日から、私はうつ状態のままでした。
先輩社員のEさんと常に2人で行動するのですが、Eさんから言われたことだけを人の3倍もの時間を
かけてやり遂げるのが精一杯でした。
Eさんも私の様子がおかしいことは気付いていたとは思いますが、ようやく入った私を何とか一人前
にするために必死だったのだと思います。
毎日会社に行っていると、ようやく会社の仕事内容が何かがわかってきました。
元々は、神戸港に入ってきた貨物船で、船内に荷物を固定するうえで使うワイヤーや金物を送り届
ける仕事を先代が始めたことから作った会社でした。
しかしそれだけでは立ち行かなくなり、建築物内の電線が通る壁の防火処理を行う作業を請け負っ
ていたのでした。
本当に毎日の成長は微々たるものでしたが、徐々に作業を一人でこなすようになっていき、車も運
転するようになっていきました。
それと同時に、うつ状態が解消され、徐々に反対側の状態へと向き始めました。
私が躁状態に入るときには、必ず金遣いが荒くなっていきます。
当時もまだパチンコが趣味だったのですが、Eさんの誘いでパチスロにも手を出し始めて、一気に
小遣いがなくなっていきました。
一方で、Eさんは仕事で徐々に私への責任範囲を広げようとし始めたのでした。
なので、アルバイトを一人連れて、建築現場に作業をしに行くことを任され始めました。
そうすると、比例的にストレスがたまり、会社やEさんへの不満がくすぶり始めました。
そろそろH社に入って1年になろうかという頃、和歌山の建築現場での工事が決まりました。
Eさんは船の仕事があって神戸を離れられないから私一人で、5日間にかけて、和歌山の現場の
近くにビジネスホテルに泊まりながら、毎日入れ替わるアルバイト4人を使いまわしながら必死で
作業を行いました。
私はその工事をしっかりやり遂げましたが、精神的にも肉体的にも限界でした。
その翌週には風邪にも似た症状で体はだるくて、その時の仕事が電力会社の応援業務で誰でも
できる仕事だったので、アルバイトだけ行かせて、私は車の中で寝ていました。
2日間、そうやって仕事をさぼったにもかかわらず、挙句の果てには私は事務所で社長に休みを
くれと迫ったのでした。
社長は、それは無理やわと平然で言うので、私は堪忍袋の緒が切れて叫んでしまいました。
「和歌山の仕事、どんだけしんどかったかわからんやろ!休みくれへんねんやったら、もうこんな
会社辞めたるわ!」
それっきり会社に行くことも連絡することもありませんでした。
あとで聞いた話によると、母に言われて妹が謝りに行ったそうです。
私にこれまで経験したことのない躁状態がやってきたのでした。











