うつ状態で苦しむあなたを助けたいのです! -22ページ目

うつ状態で苦しむあなたを助けたいのです!

私が躁うつ病を発症して29年目になりますが、躁とうつの波にもまれて苦しみのどん底にいた状況から8年前にようやくうつ状態を克服し、躁うつ病を薬だけ飲んでいれば症状が出ない寛解に至りました。今度はあなたが寛解する番です。

第57話に戻る

 

 

2008年6月にTクリニックを受診した時は、もうすでにうつ状態に入っていました。

 

Tクリニックに行ってようやくわかった事実がありました。

 

Kクリニックに17年間通院していたけれど、抗うつ薬は1回も使われなかったこと、そしてFクリニックから

ようやく使われ始めたけれど、全然効果がなかったことがわかりました。

 

Tクリニックでは、Fクリニックでは服用したことのない抗うつ薬が処方されていました。

 

しかしこの時のうつ状態では、希死念慮(死にたい気持ち)がずっと湧いてきて、じっとしていられない状

況でした。

 

それで私は、包丁と大きめのカッターナイフを持ち出して、左下腹部を切ろうとしました。

何回も何回も切って、傷口がパックリ開きましたが、そこから血は凝固し、どうすることもできませんでし

た。

 

私は電話で妹に、下腹部を切ってしまったことを話しました。

 

その日の夜、妹が自宅にやって来て、傷口を買ってきた消毒液で拭いてくれました。

 

妹が少し動揺していたので、私は翌日近所の外科診療所に行ってくると言いました。

 

診療所で傷口を見せると、年老いた医師が、「なんでわしがこんなことせなあかんねん!」と文句を言

いながら、私の下腹部の傷を縫合していました。(6針)

 

3回ほど、消毒に通い、抜糸してもらった翌日、チャイムが鳴り、ドアを開けると、警察官が立っていまし

た。

 

すぐにあの外科診療所が警察に通報したのだとわかりました。

 

警察官は、私のことを下から上まで眺めた後で、「大丈夫?」と聞きました。

 

私は、はいと答えました。

 

すると、警察官は帰っていきました。

 

それから2週間後に、今度は左腕の一番血管が浮いているところを包丁とカッターナイフで切りました。

 

何回も何回も切っても、傷口はパックリ開くけれど、血が凝固してそれ以上どうしようもなかったのでし

た。

 

翌日、今度は地域の大きい総合病院に行きました。

 

すると、自傷した人は診察しませんと拒否されたのでした。

 

仕方なく全然人のいない小さな病院に駆け込むと、喜んで診てくれました。

 

そこでは医師はにこやかに縫合してくれました。(5針)

 

3回ほど消毒に行って抜糸しましたが、警察には通報されなかったようでした。

 

この間のことをずっとT医師には黙っていましたが、自分でもこれ以上自傷を繰り返すのはよくないと思

い、入院したいと言いました。

 

T医師から紹介された病院は、兵庫県明石市にあったK病院でした。

 

2008年11月、8回目の入院生活が始まったのでした。

 

 

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第59話に続く

 

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F医師は、兵庫県三田市にあったA病院への入院を盛んに勧めてきました。

 

私は、本音としたら、またK病院に入院したかったのですが、K医師との関係性が切れてしまったので、

それはできないと決めつけていました。

 

2007年10月、仕方なくA病院に入院することになりました。

 

いざ入院してみると、なんと4人部屋の足の方向はカーテンがありましたが、横の患者との仕切りのカ

ーテンはなかったのでした。

 

それは私にとってかなりのストレスになりました。

 

当然のことながら知った顔がないので、話し相手がなかなかできなかったのでした。

 

またその病院では、外出許可というものはあるけれど、最寄り駅までの許可しかなく、病院の周りを散

歩することはできませんでした。

 

居心地が悪かった私は、入院して3週間後に、医師に回復したと嘘をつき、退院したのでした。

 

病院を逃亡してきた私に対して、F医師はあきれていました。

 

年が変わって2008年になってもうつ状態は続きましたし、デイケアにも行くことができませんでした。

 

しかし何のきっかけかはわかりませんが、3月には躁に転じることになりました。

 

3月末、地域の在日コリアンが集う花見会があったのですが、躁状態の私は、変な言動をしたせいで、

幹事役だった妹の旦那に対して抗議の連絡が多数あったそうでした。

 

そして私は、その場で見つけたうつ状態の青年の家まで押し掛けることをしたのでした。

 

一方、夕食はほとんど近くの飲食店で外食し、酒もたくさん飲んでいました。

 

この頃、NPO法人を作るのだと豪語して、職安にスタッフ募集の掲載まで出したのでした。

 

収入源など何もありません。

 

それで応募してきた青年を採用して、いろんな福祉施設に営業に出かけました。

 

さすがに給料を払う段になって、辞めてもらうことにしましたが、当人は私の無責任さに憤慨していま

した。

 

払った給料は、すべて私の生活費でした。

 

このことを機会にようやく躁状態が収まりかけてきましたが、追い打ちはクリニックを変わることでした。

 

いきなり神戸中央市民病院精神科に初診に行ったのですが、ここに行ってみなさいとクリニックを紹介

され、紹介状を書いてもらい終わりでした。

 

それで6月には、Tクリニックに通い始めることになったのですが、すっかり躁の波は終わり、うつに転じ

ていたのでした。

 

 

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したことがあったので60分だけだったのですが、終わってから「姜さんに包み込んでもらったような気が

したから泣きそうになりました。私の周りの空気が暖かくなったような気がします」という感想をいただき

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第58話に続く

 

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2006年9月から通い始めたFクリニックには、デイケアが併設されていました。

 

デイケアとは、いろんな精神疾患を抱えた人たちが、スタッフの指導下、主に生活のリズムを取り戻すことを

目的として、月曜日から金曜日まで、午前と午後に料理や運動、心理トレーニング、ゲームなどを自分の好

きな曜日や時間を選んで参加できるプログラムです。

 

私は当時は入院もした後でお金がなかったことから、うつ状態でも働きに行くことを選択しました。

 

そこでとある会社にアルバイトとして就職しました。

 

その会社は古い地図をコンピュータ上に起こして、余計な部分を削除していく業務をしていました。

 

うつ状態で頭の回転と手の動きが遅い私は、しょちゅう若い女性社員に作業が遅い、作業が不十分と怒られ

ながら何日か過ごした後、そのポジションから外され、古い地図を整理する業務に回されました。

 

でもその会社に行くこともつらくなって10日程度で辞めてしまいました。

 

その次に、神戸のルミナリエ期間中の警備員の短期アルバイトに行きました。

とても寒かったのですが、やることは柵の設置と撤去、お客さんの移動中は声を張り上げて誘導したり、トイ

レへの案内といった単純作業でしたので、うつ状態でも期間中1日も休むことなく、勤め上げることが出来ま

した。

 

年が変わって2007年になり、「無印良品」を扱う倉庫会社に派遣として雇われました。

最初、ベルトコンベアーから流れてくる行き先付きの荷物を専用の行き先ごとの台車の載せていく仕事を任

されました。

 

でも7か所ほどある行き先ごとの台車に、大きさがまちまちの荷物が流れてくるために、どう台車に乗せてい

くか悩んでいる間に、どんどん荷物が詰まることになってしまいました。

 

やっぱりうつ状態で頭はうまく回らないのでした。

 

3日間、ドタバタした結果、責任者の方に、その担当から外してほしいと言いました。

 

そしたら上の階に行ってくれと言われて、行ってみると、そこでは男性陣が段ボール箱から品物を出し、女性

陣がピッキング(品物を行き先ごとに分けていく作業)を行っていました。

 

そこでも要領を近くの人に聞いても、ちゃんと教えてくれず、見よう見まねで作業をしていました。

 

やっぱりうつ状態でコミュニケーションが取りづらくなっていたのでした。

 

そこでも5日間ほど、右往左往して疲れ果ててしまいました。

 

そして結局辞めてしまうことになったのでした。

 

診察でF医師に今の自分ではまともに働けないことを話すと、生活保護の申請をしてみようということになりま

した。

 

初め、生活保護に対して抵抗はありましたが、背に腹は代えられない状況に追い込まれていました。

 

そうして6月に生活保護の認可が下りて、初めての支給が振り込まれました。

 

これでなんとか家に住んで、最低限のものを食べられると安心したものでした。

 

その後、F医師から徐々にデイケアで過ごしてみないかと提案されました。

 

私はあまり知らない人の集まるところには行きたくなかったのですが、1日中寝て過ごすのもよくないと思い、

最初は週2回からデイケアに行くことを決めました。

 

デイケアに行き始めると、いろんな病気の人がおり、なかなか打ち解けることができませんでした。

 

プログラムにも集中できず、ただ時間に流されているだけでした。

 

そしてついにはデイケアに行くことさえもやめてしまったのでした。

 

F医師は今の状況では、入院した方がいいのではないかと言いました。

 

ところが私はこれまでK病院にしか入院したことがなく、F医師が紹介する病院に入院することが怖かったの

でした。

 

 

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第57話に続く

 

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2006年3月、6回目の入院も変わらず、滋賀県のK病院でした。

 

入院時に、妹にユウキを預けることになりました。

 

旦那は犬嫌いだったけれど、子供たち4人が頑張って世話をするという約束をしたので、妹はユウキを飼う

決意をしたのでした。

 

もし子供たちがきちんと約束しなかったら、妹はユウキを保健所に引き渡すつもりだったそうです。

 

もう気軽にはユウキと会えないと思うと、悲しかったのですが、妹には感謝をしました。

 

入院していつもは1カ月くらいでうつ状態が和らぐのですが、今回は一向に快方に向かうことはありません

でした。

 

この頃には、急性期の入院の期限は3カ月と決められていて、継続して入院するには別の手続きが必要な

のでした。

 

入院して1カ月半が過ぎようかとしている頃、妹が見舞いに来てくれました。

 

そこで、私が神戸市北区に住んでいて、神戸市中央区に住む妹が様子を見に行くことが大変なことから、

妹は私に妹の自宅から近いところに引っ越さないかと聞いてきました。

 

私は、引っ越すこと自体が面倒で答えを渋っていたら、全面的に協力するからと妹は言ってくれました。

 

それならということで私の引っ越しが決まり、私が入院している間に、妹が物件を探しておくことになりまし

た。

 

6月、うつ状態がまだ回復していないにもかかわらず、私は退院することになりました。

 

7月に入って、妹と妹が探してきた2件の賃貸マンションの下見に行きました。

 

結局、家賃が安くて、妹の自宅からも見える距離にあるマンションに引っ越すことが決まりました。

 

うつ状態で引っ越しの準備をすることがしんどかったのですが、引っ越し先に持っていかない大きな家具

を捨てるのに、神戸市環境局に電話をして印をつけ、妹の旦那に手伝ってもらい、ゴミ捨て場に運搬しま

した。

 

引っ越しは、お金もないので業者には頼まず、私と妹と妹の旦那の3人で行うことにしました。

 

しかし、当日うつ状態でどうしても動けず、1回目の運搬で引っ越し先にいた妹に役割分担を変わってもら

いました。

 

きっと妹は私が住んでいた家で何を捨てて、何を捨てないかという判断を瞬時にしないといけなかったと

思います。

 

私はただ妹と妹の旦那が運んでくる荷物を設置するだけでした。

 

妹の旦那は、大変だったと思います。

 

エアコンの取り外しまでしてくれていましたし、軽のボンゴで何往復もしなければならなかったのでした。

 

引っ越しが終わって10日後くらいに、以前住んでいた神戸市北区の公団住宅の査定に立ち会いました。

 

指摘されることはわかってましたが、ユウキの小便の跡と臭いをなくすのに返還金から5万円ほど差っ引

かれました。

 

引っ越ししてからは、1週間に1度のペースで、妹が家に様子を見に来てくれました。

 

しかしうつ状態はなかなか快方に向かわず、新大阪にあるK医師のクリニックに行くのもつらくなってきた

ので、9月の診察日には、K医師に地元のクリニックに転院したいと告げました。

 

そうして17年間お世話になったK医師ともお別れするつもりでした。

 

家から歩いて20分ほどのところにあったFクリニックへ紹介状を持って訪れたのは、9月も終わろうかとい

う頃でした。

 

 

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第56話に続く

 

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躁状態で、短期の派遣ばかりを続けていましたが、ようやく2005年9月、大手電機企業M社の工場に派

遣として雇われることになりました。

 

工場では、社員の数の3倍に近い数の派遣社員が働いていました。

 

私が配属されたフロアは半分以上のラインがIHクッキングヒーターの組み立てを行っていました。

 

最初は、ライン上での3か所のねじを電動ドライバーで止める作業の繰り返しでした。

 

横の兄ちゃんと仲良くなって、時々話しながら作業していると、遠くで女性の社員が私を呼びました。

 

その場に行ってみると、別のラインの最上段で筐体に部品をはめたり、ねじ止めしたりする大変なポジ

ションでした。

 

その女性社員に教えられた通りやってみたのですが、なかなか早く出来ないのでした。

 

ラインの最上段ですので、私の作業が遅れると、全体が遅れてしまう重要なポジションなので、私は女

性社員に自分には無理だと主張しました。

 

するとその女性社員は、プイっと怒って、私に向こうの班に行ってくれと言いました。

 

その班に行ってみると、ライン上の仕事はやらせてもらえず、ラインの各担当の部品供給の業務をさせ

られました。

 

一応コンピュータ制御で順番に部品がラインから離れた場所に流れてきて、それをそれぞれの担当の

場所まで運ぶのですが、たいていがラインを止めてしまうのではないかと思うくらいギリギリで、走るの

に近い形であわてないといけないのでした。

 

ある程度そのポジションをできるようになると、元々そのポジションで働いていた社員が、たいそう大事

にしてくれたのでした。(その社員が楽できるからですが)

 

仕事もうまく行き始めて調子に乗った私は、念願だったヨークシャーテリアの1歳半の子(ユウキと名付

けた)を飼うことにしたのでした。

でも全く覚悟ができていなかったので、ユウキを散歩にちゃんと連れていけない、トイレのしつけができ

ない状態が続きました。

 

餌だけは、冷凍の鶏のささ身を買いだめして、毎回茹でて、冷ましてあげていたのでした。

 

2008年1月の大半は、強制休業でした。

 

お金もないので、何もすることがありませんでした。

 

中学生の頃からの趣味であったパチンコは、前年にきっぱりとやめていました。

 

その頃に徐々にまたうつ状態に転じていきました。

 

2月の休業明けに、前に働いていたポジションに行くと、君は他に行ってくれと言われました。

 

派遣会社の担当に状況を話すと、あるラインで働くように言われましたが、いざ作業をしてみると、手が

思うように動いてくれませんでした。

 

これではどの場所に行ってもうつ状態で仕事にならないと思い、派遣会社の担当に辞めさせてほしいと

言いました。

 

この後からこれまでにないくらいひどいうつ状態に見舞われました。

 

死にたい気持ちがどんどん湧いてきて、夜中にたまっていた大量の薬を一気に飲みました。

気分が悪くなって、自分で救急車を呼びました。

 

救急車で病院に搬送されましたが、ろくな手当てをしてくれませんでした。

 

1週間後にまた、夜中に前もって郵送で取り寄せた大量の薬を飲みました。

 

また救急車で前と同じ病院に運ばれました。

 

すると医師にこう言われました。

 

「あんた、前来た時に言ったよね。夜はこの辺で精神科の先生が担当しているところはないって。だから

するんだったら昼にしてよね」

 

そして今度は一切診ないで、待合室に放っておかれました。

 

それでもきっちり金は取られました。

 

それから3度目に大量服薬をした時は、私は無意識に車を運転し、カーブを曲がり切れず、そこに駐車し

ていた車にぶつけてしまいました。

 

この後、これも記憶にないのですが、妹と保険会社を呼び、処理をさせて、私は家に帰って寝ていました。

 

妹の手で車は廃車(当時はトヨタの1000CCの車に乗っていました)になり、20万ほどかかった相手の車の

修理費は全額保険で負担してもらえることになりました。

 

数日後、良く晴れて冷たい風が吹いていた日、私は自宅のある1階から5階までを行ったり来たりを繰り返

していました。

 

5階の踊り場の塀に足を乗せて、飛び降りようとしましたが、周りが団地ばかりで誰かに見られているよう

で、またユウキが不憫で、飛び降りる勇気が出ませんでした。

 

結局、妹と相談し、また入院することにしたのでした。

 

 

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第55話に続く

 

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2002年2月、5回目の入院は、変わらず滋賀県のK病院でした。

 

だいぶん4回目の入院から日が空いたので、K病院は昔の敷地と200mしか離れていないところに大き

い敷地を購入し新しい建物を建てていました。

 

でも入院患者の3分の1程度はよく知っている顔でした。

 

毎回の入院と同じように、入院して1カ月はダラダラと過ごし、2カ月目からは徐々に散歩で動いていくと

いう生活でした。

 

退院後をどう設計していくかが問題でした。

 

今の会社を辞めるのか、それとも名ばかりの課長を続けるのか。

 

また、母のいない神戸市北区という辺境地で一人暮らしを続けていけるのか。

 

入院中、ずっと申し訳ない気持ちだったので、妹にお願いして、結婚式をすっぽかした課のメンバー宛

に祝儀を送ってもらいました。

 

6月、一定の方向性を決めましたので、うつ状態が残ったままでしたが、退院することになりました。

 

7月に会社に復帰し、2003年の3月まで我慢して働きましたが、うつ状態のままでした。

 

どうしても気が重いので、3月末でF社には退職を願い出ました。

 

最後の出社日に事務所と現場をあいさつに回りました。

 

現場で入出庫課の課長が、もしよかったら以前のように派遣で働かないかと言ってくれました。

 

私は、仕事内容が十分わかっているので、とりあえずの働き口としてはいいのではと思い、了承しまし

た。

 

そして4月からは、以前のように現場で派遣として働くことになりました。

 

2000年6月にふたたび舞い戻った感じでした。

 

ところがうつ状態は一向に良くならず、何とか仕事は出来ていましたが昼休みも一人で頭を抱えて考

え込んでいました。

 

そんなとき、F社の関連会社の男性が私に優しく言い寄ってきました。

 

それは創価学会への勧誘でした。

 

私はその男性の言われるまま2回ほど創価学会の支部や集まりについていきましたが、3回目でよう

やく断ることが出来ました。

 

病気で弱っている人間をターゲットにするなんて、あいつは本当にクソ人間でした。

 

その後、ようやくうつ状態から抜け出した私は、居心地のいい職場で何にも将来のことなど考えていま

せんでした。

 

もう38歳にもなっているのに、結婚さえ眼中にはなかったのでした。

 

そうこうしているうちに、2004年9月あたりから躁状態に転じていきました。

 

そこで私の派遣会社から送り込んできた年下の男性とトラブルが発生しました。

 

現場の下請け業者や派遣会社も私がそいつを辞めさせたような話になってしまいました。

 

10月、現場での居心地が悪くなり、入出庫課の課長に退職することを伝えたのでした。

 

その後、躁状態で、短期の派遣を繰り返しながら、過ごしていたのでした。

 

 

★私は結果的に21年もの間、うつと躁に翻弄されたわけですが、それにも理由があります。

病気に受動的で、精神科医に任せきりだったからです。やっぱり何の病気でも当の本人が

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第54話に続く

 

第51話に戻る

 

 

母が亡くなって、私は人生で初めて心の底から泣きました。

 

でもいつまでも悲しみに浸っている場合ではありませんでした。

 

仕事では疲れていたものの、気はしっかりしていました。

 

母は以前自分が死んだときは密葬にしてほしいと言っていました。

 

ただ私は、母の通夜と葬儀をどうするかを考えた時に、1か所しか頭に浮かびませんでした。

 

それは、よく在日コリアンの葬儀が営まれる神戸・西代の丘にある在日コリアンのお坊さんがやっている寺

でした。

 

以前に誰かの葬儀で行ったことがあったのでした。

 

私は病院の公衆電話で、電話帳からその寺の電話番号を探し、電話をかけました。

 

私は韓国語で話さないといけないと思い、ほぼ忘れかけていたつたない韓国語で、今日母が亡くなったの

ですが、通夜と葬儀をお願いできますかと尋ねました。

 

そしたら日本語で、大丈夫ですよと返事がありました。

 

そして葬儀屋を病院に向かわせると言ってくれました。

 

会社にも母が亡くなったことを伝え、1週間休むことを伝えました。

 

その頃、妹と伯母2人は、母の身体を拭いていました。

 

うつ状態の母の弟は茫然と椅子に座っていました。(叔父はうつ病だったのです)

 

母が亡くなって、2時間後には、葬儀屋が霊柩車とともにやってきました。

 

それで、私と妹夫婦は寺に向かい、伯母2人と叔父は家に帰りました。

 

私は先に妹夫婦を寺に残して、母の遺影にする写真、母の友達の連絡先を探すことと礼服に着替える

ために自宅に戻りました。

 

母の遺影にする写真は、パート先で旅行に行った時のにこやかな写真を見つけることが出来ましたが、

母の友達の連絡先は探すことができませんでした。

 

私は密葬にと思っていたので、会社にも人をよこさなくていいと言いましたし、親友は一人もいませんで

したので、誰にも連絡することはありませんでした。

 

ただ、通夜には、妹夫婦が高校のバスケットボールOB会に所属していたので、その関係者が多数やっ

てきました。

 

私は表面上にこやかにしていましたが、心の中では少しもうれしくありませんでした。

 

翌日の葬儀には、本当に密葬になりました。

 

親族以外では、私の小学校5、6年の時の担任で、その後も交流の合った女性1人でした。

 

葬儀後、火葬をしたのですが、父の時もそうでしたが、人が超高温で焼かれて骨だけになるというのは、

実にあっけないことでした。

 

会社を休んでいるとき、母の遺品を整理しようかと思っていたのですが、全くその気にならず家でボーっ

としていました。

 

そしてまた仕事で忙しい日々が始まりました。

 

49日、墓への納骨まではよかったのですが、母のことですることがほぼなくなってから徐々にうつ状態

が始まりました。

 

最初は頭が回らなくて夜の12時になっても仕事が終わらないのでした。

 

そうこうしているうちの夜も眠れなくなり、憂鬱な状態がひどくなっていきました。

 

2002年1月のある日曜日、課のメンバーが京都で結婚式を挙げることになっていました。

 

私はその場で上司としてあいさつすることまで新郎と約束していたのでした。

 

しかし当時の朝、強烈なだるさとともに、無気力でとても京都まで行けるような状態ではありませんで

した。

 

私は、参加者の電話番号も知らなかったので、仕方なく無断で欠席することにしました。

 

それは本当に心苦しいことでした。

 

そんな自分を責め続けました。

 

週が明けて、月曜日の朝に総務課長にうつ状態なのでしばらく休ませてほしいと伝えました。

 

その後は、ろくに食事もとらずに毎日寝るばかりでした。

 

1週間後、総務課長と生産管理課の主任が自宅にやってきました。

 

そこで初めて昔から躁うつ病という病気で苦しんでいたことを2人に話しました。

 

そして私は、入院するので、退院してから進退を決めたいと言ったのでした。

 

 

★今日は神戸大学医学部付属病院に診察を受けに行ってきましたが、病院の臨床心理士は

他の仕事が忙しくてカウンセリングできないと言っていました。ですからカウンセリングは民間

の保険のきかないカウンセラーにお願いしているのだそうです。その一つに私を加えてほしい

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第53話に続く

 

第50話に戻る

 

 

2001年9月中旬、午後2時頃だったと思います。

 

初めて会社に母から電話がありました。

 

「今日、診察に行ったら、入院やって。病院まで車で載せてくれへん?」

 

「そうなんや。でも忙しいから無理やわ」と私は答えました。

 

母は憤慨したかのように、がちゃんと電話を切りました。

 

私は何故か母のことが気になって仕方なかったので、課のメンバーに事情を話し、1時間後に自宅へ

戻りました。

 

家の中に入ると、母が入院の荷物をカバンに詰めているところでした。

 

どうやら妹にも電話をかけて付き添いをお願いしたけれど、断られたとのことでした。

 

私はとにかく間に合ってよかったと思い、母の作業が終わるのを待ちました。

 

母の荷物を持ち、車に積んで、助手席に母が乗り込んだ時、私は母に言いました。

 

「初めてやな、この車に乗るのは」

 

この時、まさかそれが最後にもなるとは思いもよりませんでした。

 

母が病院へ入っていくのを見送り、私は会社へと戻りました。

 

母が入院して3日目に、担当医師から私と妹が呼ばれました。

 

その時見せられた腹部のX線写真は、いたるところががんで冒されていました。

 

私は、ごく当たり前の疑問を医師に投げかけました。

 

「ずっと通院していたのに、この状態になるまでわからなかったのか!」

 

医師が話すには、本当に1カ月もかからない期間で、一気に広がったとのことでした。

 

そして、いつまで命が続くかはっきりは言えないけれど、1カ月はもたないだろうと話しました。

 

私と妹は、あぜんとして、何も言えませんでした。

 

このことも母に黙って、看取らなければならないのかと思うと、頭の奥が重たい感じがしました。

 

私は仕事が忙しくて、結局まともに見舞いに行けたのは1回だけでした。

 

その日は、夕方ごろになぜかしら母のことが思い出され、今日の仕事終わりに見舞いに行こうと思った

のでした。

 

でもなかなかうまく仕事がはかどらなくて、病院に着いたのが夜9時を超えてしまっていました。

 

当然、病院は消灯されていました。

 

私は看護師に無理を言って、少しだけでも母と話そうかとも思いましたし、母も何か話したいようなそぶ

りを見せていましたが、翌日が土曜日で休みだったので、母に明日に午前中に来るからと言って帰った

のでした。

 

翌日2001年10月14日の朝6時45分ごろだったと思います。

 

病院から母が危篤状態であると電話があったのでした。

 

私は大急ぎで病院に向かったつもりでしたが、妹夫婦の方が先に来ていました。

 

母は、意識がない状態でした。

 

午後になり、母の2人の伯母や弟がやってきました。

 

母が起き上がったのは1回だけでした。

 

そして何か言うのか、注目していたら、一言「アイスクリーム」と言ったのでした。

 

妹が持ってきたアイスクリームを食べきり、また意識混濁の状態に入ったのでした。

 

午後4時ごろ、母が息をしていないのを私が気付きました。

 

医師が確認すると、医師は時刻を言い「ご臨終です」と言ったのでした。

 

 

★自殺者の4割が精神疾患の原因とされていますが、実際は借金や病気が原因とされている人も

最後にはうつ状態になって自殺したものと思われます。ですから実態は4割ではないのです。

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第52話に続く