うつ状態で苦しむあなたを助けたいのです! -28ページ目

うつ状態で苦しむあなたを助けたいのです!

私が躁うつ病を発症して29年目になりますが、躁とうつの波にもまれて苦しみのどん底にいた状況から8年前にようやくうつ状態を克服し、躁うつ病を薬だけ飲んでいれば症状が出ない寛解に至りました。今度はあなたが寛解する番です。

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高3の春、いよいよ北朝鮮へ研修旅行に行くため、新潟港に向かいました。

 

途中の電車の中で、引率の先生が私の髪型の異変に気付きました。

 

そしてこう言い放ちました。

 

「新潟市に着いたら、散髪屋で坊主にするように!」

私は、新潟駅で電車を降りたその足で、散髪屋を探し、三枚刈りにしたのでした。

 

その研修旅行には神戸だけではなく、大阪からも来ていたので、余計に恥ずかしかったです。

 

新潟から、今では入港禁止になっている万景峰(マンギョンボン)号に乗り、北朝鮮の元山(ウォンサン)港

へ出発しました。

 

確か2泊3日だったと思うのですが、強烈な揺れで、ゲロを吐く人がたくさんいました。

 

私も陸地に降りても半日ほど、体が揺れた状態が続きました。

 

北朝鮮に着いた翌日には、岩山とその周辺の景色がとてもきれいな金剛山(クムガンサン)に登りました。

 

岩肌にはたくさん赤字でスローガンが彫られていました。

 

金日成将軍を称えるものや革命のための志などです。

 

そして再び元山(ウォンサン)に戻り、高速道路で平壌(ピョンヤン)に向かいました。

 

その高速道路がアスファルトではなくてコンクリートだったのがびっくりしました。

 

途中の風景は、ド田舎だらけでした。

 

平壌(ピョンヤン)についた私たちは、金日成将軍の生家である、万景台(マンギョンデ)に行きました。

 

そのあとは、有名な玉流館(オンリュガム)で平壌冷麺をいただきました。

 

これはとても美味しかったのを憶えています。

 

その他にも、金日成将軍のどでかい銅像が立っているところも行きました。(よく記念日になると、花束

を持った市民が並んで進むところがテレビで放映されるところ)

平壌(ピョンヤン)での日程を終え、また元山(ウォンサン)に戻って、日本に帰ることになったのですが、

この時、私たちの行動をナビゲートしてくれたおじさんに、マイルドセブン2箱をプレゼントしたら、とても

喜んでくれました。

 

そして私たちは、港で手を振ってくれる北朝鮮人民になぜかしら涙を流しながら手を振り返すのでした。

 

 

第9話に続く

 

 

 

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高校生になっても私は、よく言えば硬派、悪く言えばうぶなままでした。

 

1年生の時には中学生時代の同級生の女子が、クラスが違うのにやたらと勉強を教えてほしいと

私のところにやってきました。(実はこの相手が恋のつぼみだったということは高校を卒業して初

めて気づきました)

一方、バレーボール部では、挫折したことが嘘のように練習に励みました。

 

2年生の終わりごろにあった練習試合に、194㎝のエースがけがで出られなかったため、代わりに

出場機会をもらいました。

 

そこでなんと「しょんべんアタック」(自称)が何本も決まり、コーチをうならせました。

 

そして3年生になったときにレギュラーの座を手にしたのでした。

 

とはいえ身長は179㎝あるけれど、ジャンプ力が50㎝しかないため、ネットから上に出るのは手首

より上だけという打点なので、AクイックかCクイックしか打たせてもらえず、またエースの横のポジ

ションのためおとりばっかりで実際ボールが回ってくるのは1試合に2本程度でした。

 

でも私へのブロックがほぼノーマークなので、ほぼ決めてました。

 

当時、日本の学校でいうクラス会みたいなものの役員だった私は、3年生の夏に北朝鮮へ研修旅

行に行くことになりました。

 

なぜかハイテンションだった私は、直前にパンチパーマをかけたのでした。

 

 

第8話に続く

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中学を卒業した私は、またもやエスカレーター式に、神戸市垂水区にある神戸朝鮮高級学校に進学しました。

 

私が通っていた西神戸以外に、尼崎、東神戸、西播から集まってきた生徒の数は170名程度いたと思われます。

 

やっぱり高校でも部活をしたかった私は、軟球ではあるものの野球部に入りたかったのですが、中学時代の

先輩に脅しの勧誘をかけられ、仕方なく引き続きバレーボール部に入ることになりました。

 

入学当初私は、勉学では部活をしながらでも何の支障もなくこなしていましたが、どうしても新しい友達ができ

ずに悩んでいました。

 

そんな時に私は、バレーボール部の3年生の先輩であるKさんに相談することにしました。

 

Kさんは、私の悩みに対して真摯に話を聞いてくれ、こうおっしゃいました。

 

「友達を作るためには、待っていてはダメなんだよ。自分から話しかけていかなくてはいけない」

 

私はこの言葉に、(あー、そうだったんだ!)と思い、Kさんに感謝の気持ちを伝えました。

 

それからは自分から話しかけるようにすると、自然と新しい友達が出来はじめました。

一方、バレーボール部入部した新入生11人は、中学生時代に比べて数倍も苦しい朝夕のトレーニングに脱落

者が次々と現れました。

 

夏の合宿を目前にして、残ったのは7人でした。

 

そしていよいよ夏の合宿に突入したのですが、昼間は暑い中、外と体育館での厳しい訓練に耐え、夜はしょう

もない先輩(こんな奴に限ってレギュラーになれない)が、自分が寝るまでうちわを仰げといじめられる状況で

した。

 

そんな時、私の頭によぎったのは、逃げることでした。

 

何と腰が痛いとコーチに申し出たのでした。もちろん仮病です。

コーチは心配して病院へ行くように言い、私は心の中でほくそえみながら、家に帰ったのでした。

 

母も心配して、一緒に明石市民病院に行き、Ⅹ線写真を撮ってもらいましたが、当然何の異常もありません。

 

なぜか家にいることも格好が悪くなり一晩だけ家に泊まって、翌日には合宿に戻ったのでした。

 

それからはバレーボール部の練習で音を上げることはありませんでした。

 

 

第7話に続く

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バレーボール部で練習に励みながらも、私の勉強の成績は決して落ちることはなかったです。

 

一番とまではいかなかったが、常にベスト5の中にはいました。

 

通常、中学校に上がれば、大体の男子は反抗期を迎えますが、私は一切その傾向がありませんでした。

親の言うこともよく聞いていました。

 

でも1回だけ親を裏切るような行為をしてしまったことがありました。

 

2年生の時に、万引きでスポーツ用品を大量に持っている奴がいました。

 

私は喉から手が出るほど、スポーツウェアが欲しかったので、ついそいつの誘いに乗ってしまい、スポー

ツ用品店で万引きをし、それが店の人に見つかってしまい、警察に突き出されたのです。

 

警察まで迎えに来た母も、家で待っていた父もなぜかそれほど怒っていなくて、気持ちは複雑でした。

 

一方、かなりうぶであった私はそれほど女子には興味がありませんでした。

 

でも勉強ができて、スポーツができて、そこそこの顔立ちをしていれば、女子が結構アタックしてきました。

 

私はそのたびに逃げ腰でした。関心がないとすべて断りました。

 

中学校の卒業式が終わった後には、同級生や後輩の女子からせがまれ、学生服のボタンは前も袖も

全部なくなりました。

 

中学生の時の最大の事件は、クリスマスパーティー事件でした。

3年生のクリスマスに、パーティーをしたのですが、酒を飲んだり、たばこを吸ったりして盛り上がって

いたところ、どこから情報を得たのか、先生が刑事みたいに会場に踏み込んできたことでした。

 

その後、一列になって学校に向かって歩かされ、教室で延々と説教され、当時班長であった私は担任

の先生にびんたを食らいました。

 

その事件は担任の先生によって各家庭に電話報告され、家でも父に「タバコを吸ったのか!」と怒られ

、びんたを食らいました。私はお酒は飲みましたが、たばこは吸いませんでした。

 

一方で3年生の時には、母に「日本の高校に行ってみるか?」と聞かれましたが、日本の大学に行きた

い気持ちよりも友達と別れたくない気持ちが勝り、高校もエスカレーター式に進学することに決めたの

でした。

 

 

第6話に続く

 

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小学校を卒業した私は、何の疑問もなく、エスカレーター式に神戸市長田区にあった

西神戸朝鮮初中級学校に進学しました。

電車を乗り継いで片道1時間余りの通学は大変でした。しかしそれほど苦ではなかっ

たです。

 

進学の際に最も悩んだのが部活をどうするかでありました。

 

とにかく部活はしようとは思ってはいたものの、自分の好きな野球部がなかったので、

仕方なく小学校の先輩がいたバレーボール部に入ることにしました。

 

これは私はいかに主体性がなかったを物語る決断であります。

 

一方で、私たち明石からの転入生は、元の初級部から上がってきた連中にとっては

珍しいものに見えたようでした。

 

でも最初はからかわれることもありましたが、自然と馴染んでいきました。

 

当時、私たちの学年は30数名の2クラスがあり、話したことまではないものの、大体顔

は知っているという感じでした。

 

再度バレーボールの話に戻りますが、小学生時代にまともなスポーツをした経験がな

かったので、基礎訓練についていくのがしんどかったです。

 

それでも少しずつバレーボールの楽しさの分かってきて、2年生まではアタッカーをし

ていたのですが、3年生の時にセッターをしていたメンバーが辞めてしまったことで、代

わりにセッターをすることになりました。

 

セッターはバレーボールのゲームを作っていく司令塔のような役目で、非常にやりが

いを感じていました。自分がアタッカーにサインを出し、ボールを繰り出すことは一種

の快感でもありました。

ただ、アタッカーのレベルが低かったし、レシーブも低レベルだったので、チームとして

は弱かったです。

 

恐らくバレーボールをしていたせいだろうと思うのですが、中学校入学時に158㎝しか

なかった身長が中学校卒業時には172cmまで伸びていました。

 

3年生の時にキャプテンとなったS君とは、特に仲が良く、結局予備校まで続く親友と

なりました。

 

彼の兄弟は6人全部が男で、そのうち、3人が三重大学の医学部に合格していたとい

うすごい兄弟を持っていて、彼自身もゆくゆくは同じ道を歩みたいとすでに進路を決

めているようでした。

 

そういった彼に、私はなぜかしら感化されていくのでした。

 

 

第5話に続く

 

第2話に戻る

 

私は結局、なぜ朝鮮の民族学校へ行かされたかを説明されないまま、時間が過ぎ、小学校へ上がりました。

 

このころからは通常の教科のほかに、北朝鮮の金日成将軍についての勉強もすることになりました。

 

私はあまり何の疑いもなく、授業が耳に入り、ただ宿題をこなすだけで、男3人女5人の小さいクラスだった

のですが、成績一番の座を明け渡したことはなかったです。

 

宿題を終わると、低学年の時は近所の子供たちと、屋根のある駐車場でボードゲームをしたり、空き地で

ビニールボールやゴルフ練習のプラスティックボールで野球をして遊びました。

 

その当時、よく楽しんでいたボードゲームは、人生ゲーム、億万長者ゲーム、モノポリーなどで、それを持

っている友達の家にもよくお邪魔しました。

 

うちには親に買ってもらった億万長者ゲームがあったので、よく友達が遊びに来ました。

高学年になると、なぜか同学年の友達よりも一つ年下の子と遊ぶことが増えました。

 

これは今考えても不思議なんですけれど、何か気が合うところがあったのだと思います。

 

特に、親に買ってもらった釣りセットで、友達と釣りに出かけることが多くなりました。

 

一度、今でも忘れられない事故がありました。

 

それは私が投げようとした釣り針が横にいた一つ年下の子の頬あたりに突き刺さったことです。

 

いくら釣り針を抜こうとしても、モドシまで入ってしまっていたのでどうしても取れなかったので、タクシーを

捕まえて運転手さんに救急病院に連れて行ってもらいました。

 

私は、心配してやって来た相手のお母さんに泣いて謝りました。

 

また毎年8月23日には、近所の子供たちと、自転車で地蔵盆巡りをすることが楽しみでした。

 

家から米を袋に入れて、手当たり次第に回り、お菓子をもらいました。

小学校6年生になったときに、私の性格がよくわかるエピソードがあります。

 

私は近所の広場でよくソフトボールの練習をしていたのですが、ある時つかつかと一人の見知らぬ少年が

現れて、「うちのソフトボールチームに入らないか?」と尋ねました。

 

私は、心の中ではやってみたい気持ちがあったのですが、初めての環境に飛び込むのが怖くなって、断っ

てしまいました。

 

 

第4話に続く

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5歳になった私は、自宅から歩いて徒歩15分ほどにある明石小学校の幼稚園年長組に入りました。

 

でもこの当時の記憶はほとんどありません。何をして遊んでいたかということさえも…。

 

家族アルバムにもこの当時の写真はありません。

 

ただ一つ憶えていることは、「ばら組」だったことと「新田健一(にったけんいち)」と名乗っていたことです。

そんな時、何回か夜に知らないおじさんがやって来ては父母と話しているのを見たことがあります。

 

そしてある時、母に呼ばれてこう言われたのです。

 

「けんちゃん、もうちょっとしたら幼稚園を変わるからね」

 

私はどういう意味かよく理解できずに、ただ頷くだけでした。

 

その後どのくらいだったかは覚えていませんが、新しい幼稚園に行くことになりました。

 

家の近くの大きい道路まで、バスで迎えに来てくれました。

 

そして着いたのが、明石朝鮮初級学校です。そうです、北朝鮮系の民族学校だったのです。

 

そして私は姜健一(カン・ゴニル)という名前に変わりました。

 

私は、それでもなお自分が朝鮮人であることにピンと来ていませんでした。

 

幼稚園で覚えている風景と言えば、昼寝の時間で、一度その時にうんちをしてしまったことを憶えています。

 

当時の私は、内向的な性格だったんだろうと思います。

 

幼稚園で仲良かった友達は思い出せません。

 

ただ家の隣に住んでいた、なおみちゃんとよく遊んでいたことを憶えています。

 

意味も知らずにキスするほどに仲が良かったです。

 

 

そうやって私の幼稚園での時期は過ぎていきました。

 

 

第3話に続く

 

 

 

昭和40年(1965年)2月25日午前4時、兵庫県明石市西新町の産婦人科医院にて、私は誕生しました。

 

当時の母子手帳は今でも私の手にありますが、なぜかしら体重が記載されていません。

 

でも難産ではなかったようです。

 

塗装業で26歳の父と専業主婦で24歳の母の間にできた待望の赤ちゃんでした。

 

二人は、正式な見合いではないものの、親同士の関係で知り合い、結婚し、兵庫県明石市茶円場町の

木造アパートの2階に新居を構えました。

 

その後、母は身ごもりましたが、流産したのでした。

 

だから”待望”だったのです。

 

父は、そういう経緯もあって、せっかく生まれた私が健康が一番で育つようにと「健一」という名を付け

ました。

 

私には母から聞いた、自分の記憶にはない幼児の時期の話として2つの話があります。

 

1つ目は、明石市にある魚の棚商店街のおもちゃ屋の前で、大の字になって泣き喚きながらおもちゃを

せがんだこと。

2つ目は、自宅のアパートが一番鋼鉄製の階段に近かったのですが、母が洗濯をしているすきに、私が

三輪車を乗ったまま、階段を転げ落ちたのに、鼻の頭に傷一つで済んだこと。

母は1つ目の話を周りの目が恥ずかしかったと言い、2つ目の話では落ちてしまった私を見て顔が青ざ

めたと言いました。

 

私の中にはアパートで生活した記憶はなく、アパートの前にあった貸家に引っ越した後から記憶にある

のです。

 

 

第2話に続く/a>