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商品ラインナップ

「米吾」 のオフィシャルブログ、お楽しみいただいておりますでしょうか?「米吾」 について、つまり会社自体をご紹介した第1回に続く第2回目は、「米吾」 の商品をご紹介しましょう。



前回同様、社長の内田雄一郎さんに伺ったお話と、社史やカタログを基にまとめていきます。私の惚れこんだ「吾左衛門鮓 鯖」ばかりではなく、「米吾」 にはまだまだたくさんの商品があるのです。ひとつひとつの詳細はHPでご覧いただけますが、なかなか載せきれないストーリーもあったりするのです…そんなHPから溢れてしまった「ちょっといい話」を中心に書いていきたいと思います。



知ることは、味わいを深めることにも繋がります。これを読んだら美味しさ倍増、となるかどうか、お試しください。



商品ラインナップ

現在「米吾」 の主力商品は、「米屋」時代から事業の核であった鳥取の良質な米と、日本海の海の幸、その昔北前船が北海道から運んだ昆布を使った押し鮨、「吾左衛門鮓」です。種類は、鯖がオリジナルの「鯖」、「鯖江戸風」、「燻し鯖」の3種に「漬け鰺」「鱒」「鯛」「蟹」の全7種類。


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鯖江戸風


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燻し鯖


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「この『吾左衛門鮓』は先代が考案したものなんですよ。」



「米吾」 」の前身である「米屋」は江戸の創業。米屋代々の当主の名である「吾左衛門」を商品名に掲げていますが、考案者が昭和に入ってからの当主である13代内田健二郎氏とは意外です。



「『吾左衛門』を名乗り、回船問屋を営んでいた頃の祖先が航海の無事を祈って船子達に鮓をふるまったことがヒントになっています。それは船子鮓と呼ばれて、鮓飯は昆布ではなくワカメで包んでいたとも言われています。素材を吟味し、改良を重ね、いまの形にいきついたのです。」



祖先とは、5代目吾左衛門。当時の航海は帆掛けによる風頼み、沿岸航路を辿るしかなかったため、逆に安全性には優れていたそうですが、地に足を付けない生活が続くのはやはり辛いもの。そんな船子たちの仕事の労をねぎらった温情あふれる鮓を現代によみがえらせたのが「吾左衛門鮓」なのです。





内田健二郎氏もまた、どこか5代目吾左衛門に重なるお人柄。健二郎氏の父、雄一郎社長の祖父に当たる12代内田保秀氏についても健二郎氏は「どこでも悪口を聞いたことがない、お蔭で仕事がやりやすかった」と言っていたそうです。健二郎氏に船子鮓を思い起こさせたのも、内田家に吾左衛門の昔から脈々と引き継がれてきたものがあるからだったのかもしれませんね。



そもそも、「吾左衛門鮓」の開発は「山陰には名物が少ない。地場の食材を使った商品は出来ないものか」という、自社のみならず地域全体を活性化したいという健二郎氏の想いから始まりました。まずは境港に水揚げされる寒鯖を〆た「鯖」と、日本海名産の「蟹」が発売され、これらが好評を博したことから、徐々に「漬け鰺」や「鱒」、「鯛」、「鯖」も「鯖江戸風」「燻し鯖」と増えて、現在の充実したラインナップが形成されていくことになりました。



通信販売ではこの他に、「吾左衛門鮓 燻し鯖」に乗せた鯖の燻製の単品販売である「燻製鯖」、海産雑炊シリーズに「たいぞうすい」「かにぞうすい」、ご飯ものでは「炊き込み風かにめし」、「大山おこわ」、「赤貝おこわ」、そして吾左衛門鮓に付いていた醤油が好評で商品化された「吾左衛門の醤油」、カニの甘露な風味を活かしたダシ醤油「吾左衛門の醤油かに」があります。



もちろん、「米吾」 創業の頃からの弁当や仕出し料理の事業でもバリエーションは豊か。「米吾ひとあじ」と記されたお届け料理カタログには弁当、寿司、オードブルなど押し鮨シリーズを除いて46のメニューが掲載されています。さらに、「米吾」 全体では130もの商品が用意されているのです。



そのいずれもが、豊かな自然に恵まれた鳥取産の米のおいしい食べ方を教えてくれるもの。そして、先祖代々引き継がれてきたおもてなしの心を伝えるもの。その想いの結晶である「吾左衛門鮓」が、14代内田雄一郎社長のもとで日本全国、そして海外へと市場を広げているのには、またひとつここに新たな想いが加わったからなのです。


商品名は全て「吾左衛門鮓」を頭に冠しており、例えば「鯖」は「吾左衛門鮓 鯖」、「鯛」は「吾左衛門鮓 鯛」と呼ばれています。




主な事業内容について



な事業内容について

明治45年(1912年)に「米五館」を廃業してからは、米子駅前に拠点をおいていた「米吾」 での仕出し料理、駅弁の販売が主業務となりました。



内田雄一朗社長の祖父に当たる12代内田保秀氏の代には地上3階建ての「米子米吾ビル」を新築し、仕出しの調理場を一本化したことによって事業機能が高まります。現在は、父親であり、先代社長の内田健二郎氏が始めた駅弁の車内販売サービスや宴会、レストラン業、また、内田雄一朗氏が社長になる以前に手掛け平成6年(1994年)に開業した「ホテルハーベストイン米子」 のホテル事業も営んでいます。

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「ホテルハーベストイン米子」  



弁当の製造販売部門では、昭和53年(1978年)に内田健二郎氏が米子の名物駅弁として初代が船子に振舞った船子寿司をヒントに開発した「吾左衛門鮓 鯖」 が人気を博し、「米吾」 の主力商品ともなっています。さらに、内田雄一朗氏が4年もの月日をかけて平成11年(1999年)に開発した独自の冷解凍技術により、計画生産・出荷が可能となり、市場はは鳥取県のみならず、東京の有名百貨店の他、海外へも広がっています。さらには品質の向上という副産物もあり、人気に拍車がかかっています。





技術開発過程では、眠れぬ夜もありました。歯車がひとつ噛み合わなければ、いま思い出として語ることもなかったかもしれません。美味しものの陰に、苦労あり。その恩恵だけをいただくことができる幸せに感謝して、味わいたいですね。



次回は、「米吾」 さんの商品と将来の展望についてお伝えします。どうぞお楽しみに!














創業の経緯について



創業の経緯について

社名の由来でも少しご紹介しましたが、「米吾」 は「米屋」という屋号で営んでいた回船問屋、米問屋から生まれた会社。しかし、「米吾」が生まれるまでにはもう少し、伏線があるのです。



「米屋」の事業内容から、現在の「米吾」 への繋がりを想像すると、回船問屋という流通業を廃業し、米問屋だけに専念したのでは、と想像する方も多いのではないでしょうか。ところが、その間をつなぐ意外な業態がもうひとつあったのです。



5代目吾左衛門が建設した千石船によって、大量の荷物の運搬が可能になったことから、米屋の回船問屋としての業務は順調に推移していました。



「明治の廃藩置県で、米問屋はどこも行き詰ったのです。それで、いままでの仕事をやめて旅館を始めたのです」



廃藩置県というとGHQによる第二次世界大戦後の改革を連想させられますが、明治の開国の頃にも大きな変化があったのです。江戸時代の農地は所有するものではなく、使用するものでした。自治体共有の土地を、その管理者が使用権を農民に割り当てていたのです。そこに、欧米から所有という概念が持ち込まれ、米を取り巻く環境は大きく変化しました。また、政府が鉄道敷設を奨励したことから、流通も危険の多い海から陸へと移行する気配を見せます。10代目の内田吾吉郎氏は、そんな時代の流れから既存の全事業に見切りをつけ、明治6年(1873年)に廃業。翌明治7年(1874年)に「米五館」を開業し、宿泊業へと業態転換を遂げたのです。



吾吉郎氏は明治4年(1871年)、大阪で日本初のガス灯が灯ったわずか3年後に、その文明開化の光でライトアップされた近代的な旅館を作りました。施設の充実ばかりでなく、丁寧な接客でも評判を呼び、宿泊客には板垣退助や小泉八雲など著名人も多かったそうです。長期滞在客の中には、山陰本線敷設工事の責任者であり、後に鉄道次官も務めた石丸重美氏もいました。吾吉郎氏は石丸氏の用地買収にも協力し、それが縁で米子駅構内での弁当・仕出しの営業権を得ることになるのです。

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 仕出し 


明治35年(1902年)、山陽本線開通とともに始まったその業務を担う会社として創業されたのが「米吾」 でした。



提供する食事に米は使うけれども、回船問屋、米問屋とは縁もゆかりもない宿泊業という新業態を始めたことから「米吾」 は生まれました。10代目吾吉郎の英断が産んだ副産物とも言えそうです。時代を読み、新しいことにチャレンジするエネルギー、その結晶が「米吾」 なのですね。