創業の経緯について | 「米吾」オフィシャルブログ

創業の経緯について



創業の経緯について

社名の由来でも少しご紹介しましたが、「米吾」 は「米屋」という屋号で営んでいた回船問屋、米問屋から生まれた会社。しかし、「米吾」が生まれるまでにはもう少し、伏線があるのです。



「米屋」の事業内容から、現在の「米吾」 への繋がりを想像すると、回船問屋という流通業を廃業し、米問屋だけに専念したのでは、と想像する方も多いのではないでしょうか。ところが、その間をつなぐ意外な業態がもうひとつあったのです。



5代目吾左衛門が建設した千石船によって、大量の荷物の運搬が可能になったことから、米屋の回船問屋としての業務は順調に推移していました。



「明治の廃藩置県で、米問屋はどこも行き詰ったのです。それで、いままでの仕事をやめて旅館を始めたのです」



廃藩置県というとGHQによる第二次世界大戦後の改革を連想させられますが、明治の開国の頃にも大きな変化があったのです。江戸時代の農地は所有するものではなく、使用するものでした。自治体共有の土地を、その管理者が使用権を農民に割り当てていたのです。そこに、欧米から所有という概念が持ち込まれ、米を取り巻く環境は大きく変化しました。また、政府が鉄道敷設を奨励したことから、流通も危険の多い海から陸へと移行する気配を見せます。10代目の内田吾吉郎氏は、そんな時代の流れから既存の全事業に見切りをつけ、明治6年(1873年)に廃業。翌明治7年(1874年)に「米五館」を開業し、宿泊業へと業態転換を遂げたのです。



吾吉郎氏は明治4年(1871年)、大阪で日本初のガス灯が灯ったわずか3年後に、その文明開化の光でライトアップされた近代的な旅館を作りました。施設の充実ばかりでなく、丁寧な接客でも評判を呼び、宿泊客には板垣退助や小泉八雲など著名人も多かったそうです。長期滞在客の中には、山陰本線敷設工事の責任者であり、後に鉄道次官も務めた石丸重美氏もいました。吾吉郎氏は石丸氏の用地買収にも協力し、それが縁で米子駅構内での弁当・仕出しの営業権を得ることになるのです。

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 仕出し 


明治35年(1902年)、山陽本線開通とともに始まったその業務を担う会社として創業されたのが「米吾」 でした。



提供する食事に米は使うけれども、回船問屋、米問屋とは縁もゆかりもない宿泊業という新業態を始めたことから「米吾」 は生まれました。10代目吾吉郎の英断が産んだ副産物とも言えそうです。時代を読み、新しいことにチャレンジするエネルギー、その結晶が「米吾」 なのですね。