「米吾」オフィシャルブログ -5ページ目

12代内田保秀「多角化」「地域振興」1926年~1957年

大正15年(1926年)、社長職に就いた保秀氏にとって、先代秀蔵とともに建設を始めた「米子米吾ビル」の竣工が初仕事となりました。「米子米吾ビル」は、山陰線全線開通によって多くの人が訪れるようになった米子駅のシンボル的存在となり、見物客が絶えなかったそうです。


保秀氏は、事務所と仕出し調理場もビル内に設けて効率の良い事業運営をし、ますます本業を充実させていきます。近代的なオフィスでの集約型経営は、昭和という新時代の幕開けに相応しいものであったと言えるでしょう。


本業と共に、映画館や温泉旅館の経営、米子駅前の倉庫街を買収して食堂に変えた美観計画、タクシー部創設による交通利便策など企業の利益にとどまらず地域の活性化にもつながる事業も興し、この時期一気に米吾は多角化していきます。


米子飲食店組合長なども務めた保秀氏は人望があつく、昭和22年(1947年)に後援者の要望で米子市市議会議員に立候補し初当選を果たしています。戦後まもない混沌とした時代に地方自治の再建こそ重要であるとして、精力的に市政にも取り組みました。昭和24年(1949年)には、「米吾」を有限会社として、ますます本業にも勤しみつつ、昭和28年~30年(19531955年)には市議会副議長に推挙されて勤めました。


昭和32年(1957年)に60歳で幕を下ろした人生において保秀氏は、企業家として利益を追求するのみならず公益、社会事業にも貢献して米子市市政にも大きな足跡を残しました。





11代内田秀蔵「基盤作り」「拡張」1905年~1926年

明治38年(1905年)、吾吉郎氏の死去によって「米吾 」を引き継いだのが秀蔵氏でした。明治45年(1912年)には「米五館」を廃業、これによって内田家の主業務が宿泊業から仕出し料理と駅弁の販売にシフトします。


廃業の年に開催された「全国特産品博覧会」には、当時23500人の町に30万人超の参観者があったと言われており、住民の10倍以上にあたる人々が米子の街を賑わしました。この博覧会は、県外の旅客に米子の存在をアピールし、ひいては街の発展につながるようにと企画されたものでした。本格的に仕出し業務に取り組む決意の秀蔵氏は、その意気込みを集まった人々に示し、「この店の味は特別」と言わしめたそうです。米子に米吾あり、と認識させたその味が現代に引き継がれ、「吾左衛門鮓 鯖 」を生んだ土壌となっているのです。


秀蔵氏が社長を務めた時期に、「米吾 」は順調にその基盤を固めました。特に、駅弁業務は昭和11年(1936年)京都と幡生を結ぶ山陰本線全行程が開通し、さらに山陰・山陽連絡線が整備されてきたという時期とマッチして拡大します。米子駅を起点として各方面に向かう人が増え、その小休止に駅弁を求める姿も増えるようになったことで需要がますます高まったのです。


業績を伸ばした陰には、妹であるとみ子女史の存在が大きかったとも言われています。秀蔵氏は晩年、妹とみ子と次を担う息子の保秀と共に米子駅前に鉄筋コンクリート3階建の「米吾ビル」の建設を計画します。大正15年(1926年)には、当時としては珍しい近代的な建物が完成し、米子のイメージアップにも貢献しましたが、秀蔵氏は完成を待たずに前年他界しています。




10代内田吾吉郎「転換」「創設」1902年~1905年

吾吉郎氏が「米吾 」本体に携わったのは創設された明治35年(1902年)から亡くなるまでの3年でした。会社にとっての3年とは、組織としての形式が整うか否かという短い期間。吾吉郎氏の貢献はむしろ、創設後よりは創設に至る経緯にあります。


明治という新しい時代の到来を機に、9代目まで綿々と営まれてきた回船問屋と米問屋をたたみ、宿泊業への業態転換を遂げた吾吉郎氏。明治の農地改革、船から鉄道へという流通手段の移行は、国を挙げての動きであり、逆らい難い大きな時流でした。業態転換は、家を守る者として、この時点で当主であった誰かが下さなければならない決断でした。自身の中での葛藤、そして周囲との確執、苦労は察するに余りあります。その際に生じた軋轢の大きさは吾吉郎氏とその妻の墓だけが、内田家代々の墓の隣に独立して建てられていることが物語っています。


様々な苦難を乗り越えて開業した「米五館」を、軌道に乗せるまでにはさらなる努力を要したことでしょう。その努力が実を結び、吾吉郎氏がお客様に提供した食事の水準の高さと安全性が「米吾 」創設へと繋がりました。現社長である雄一朗氏は「あのチャレンジ精神には頭が下がる」と先祖の偉業をたたえています。