11代内田秀蔵「基盤作り」「拡張」1905年~1926年 | 「米吾」オフィシャルブログ

11代内田秀蔵「基盤作り」「拡張」1905年~1926年

明治38年(1905年)、吾吉郎氏の死去によって「米吾 」を引き継いだのが秀蔵氏でした。明治45年(1912年)には「米五館」を廃業、これによって内田家の主業務が宿泊業から仕出し料理と駅弁の販売にシフトします。


廃業の年に開催された「全国特産品博覧会」には、当時23500人の町に30万人超の参観者があったと言われており、住民の10倍以上にあたる人々が米子の街を賑わしました。この博覧会は、県外の旅客に米子の存在をアピールし、ひいては街の発展につながるようにと企画されたものでした。本格的に仕出し業務に取り組む決意の秀蔵氏は、その意気込みを集まった人々に示し、「この店の味は特別」と言わしめたそうです。米子に米吾あり、と認識させたその味が現代に引き継がれ、「吾左衛門鮓 鯖 」を生んだ土壌となっているのです。


秀蔵氏が社長を務めた時期に、「米吾 」は順調にその基盤を固めました。特に、駅弁業務は昭和11年(1936年)京都と幡生を結ぶ山陰本線全行程が開通し、さらに山陰・山陽連絡線が整備されてきたという時期とマッチして拡大します。米子駅を起点として各方面に向かう人が増え、その小休止に駅弁を求める姿も増えるようになったことで需要がますます高まったのです。


業績を伸ばした陰には、妹であるとみ子女史の存在が大きかったとも言われています。秀蔵氏は晩年、妹とみ子と次を担う息子の保秀と共に米子駅前に鉄筋コンクリート3階建の「米吾ビル」の建設を計画します。大正15年(1926年)には、当時としては珍しい近代的な建物が完成し、米子のイメージアップにも貢献しましたが、秀蔵氏は完成を待たずに前年他界しています。