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工場見学レポート 

数回にわたって「吾左衛門鮓 鯖 」にまつわる様々な事柄について書いてまいりました。あの運命の出会い(?)から3カ月、商品を知り、社長にお会いしてお話を伺い、鮓や鯖鮨についてまで掘り下げ、社史まで知り、いまやすっかり「吾左衛門鮓 」通の私です。



こうなってくると、この目で商品が出来る過程を見てみたくなってくるものです。「百聞は一見にしかず」、というよりは、鯖鮨の「追っかけ」もついにここまで、といった感もありますが、20109月初旬に鳥取県米子市にあるケータリングセンターを訪ねてまいりました。



現地でお迎えくださった、株式会社米吾 社長 内田雄一朗様、総務本部長 長瀬晋吾様、営業部 推進役 内田茂貴様、工場長 上田猛様、通販事業部 部長 角戸栄子様、その他皆々様にこの場を借りて御礼申し上げます。



是非このブログをご覧の皆様にも足を運んでいただきたいという願いをこめて、アクセスから工場見学の様子をご紹介させていただきます。


行程

1日目

2005

羽田発、米子行きに搭乗





ホテルハーヴェストイン 米子  泊

2日目

930

ホテル発、ケータリングセンターへ





説明 上田工場長(製品の歴史、製造工程) 於:会議室





工場見学





説明 内田推進役(氷温熟成システム) 於:応接室



113 0

ケータリングセンター発、ホテルへ



1200

ホテルにて内田社長と会議、撮影(新商品試食含む)於:ホテルハーヴェストイン米子  会議室 洋室:ブリリアント





昼食~ホテル館内視察



1400

ホテル発、米子空港へ(レンタカー返却時間を含む)



1530

米子発、羽田行きに搭乗



1700

羽田到着


アクセス

東京からの交通手段としては、飛行機が最も便利です。羽田空港から米子空港へは上りも下りも15便ずつ、所要時間は約1時間半、新幹線ならひかりで名古屋までの時間とほぼ同じという近さです。


米子空港は市街地に近く、到着便に合わせて運行されるシャトルバスで30分かからずに米子の中心地に着いてしまいます。バスの運賃が570円と言うのも魅力です。


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出発日は台風で飛行機の出発が20分遅れて、20時半頃となってしまいました。空港から米子市街まで何が早いかと気をもみましたが、荷物を受け取ると目の前にバスが待っていてくれたおかげで23時前にはチェックインをして部屋でくつろぐことが出来ました。



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もちろん宿泊先は「米吾」が経営し、米子駅から徒歩1分の「ホテルハーヴェストイン米子 」です。開発秘話については「米吾 」の歴史をご紹介した回で詳しくお伝えしています。当時副社長だった雄一朗氏が、“宿泊客が快適に過ごせることを第一に考えて”凝らした工夫である、リニアモーター式の振動の無いエレベータに乗り、遮音性抜群のドアを閉じて荷物を置くと、窓辺にはホテルメイドの焼き菓子が手書きのウェルカムカードと一緒に置いてありました。寄り添うように置かれた和紙の折鶴が、ホテルからの暖かい歓迎の気持ちを運んでくれています。米子中心街の夜景を眺めながら、大好きなメレンゲを口に入れると、口の中でふわっと溶けていきました。程よい甘さが体に沁みて、ホッと和みます。その晩は心からゆったりと過ごさせていただきました。


蛇足ではありますが、米子空港は現在「米子鬼太郎空港」と呼ばれており、空港施設内のいたる所に「ゲゲゲの鬼太郎」の主人公、鬼太郎やその仲間達がいます。NHKの朝の連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」放映で再ブレイク中の「ゲゲゲの鬼太郎」の著者、水木しげるさんの故郷、境港は空港からそう遠くはありません。





14代内田雄一朗「進化」、そして… 1996年~



ここからは、現在の社長である内田雄一朗氏の代に入ります。せっかくですので、インタビューの際に伺ったことも含めて少し詳しくご紹介していきましょう。


平成8年(1996年)、組織の株式会社化に伴って健二郎氏が会長職に就き、社長職には雄一朗氏が就任しました。死去によらない代替わりは内田家では初めてのことです。


実は、それ以前にも「初めて」はあったのです。それが、雄一朗氏が副社長時代に手掛けた「ホテルハ―ベストイン 米子」の建設です。これまでの内田家において、こうした大事業は次代を担うものが社長と共に行うことはあっても、完全に任されてやることはありませんでした。そういう意味でも、健二郎氏は「先駆的」であったようです。


平成4年(1992年)米子駅前西側土地区画整理及び移転事業の一環で、昭和42年(1967年)に建設した「米吾ビル」は取り壊しを余儀なくされました。西に50mほど移転した先に、かねてから駅前での宿泊施設運営を考えていた雄一朗氏がビジネスホテルの建設を提案したのでした。


「融資を求めて銀行でプレゼンテーションを行うと、皆さん頷きながら聞いて、『良く分かった』と言って下さるわけですよ。それで、こちらは意気揚々と社に戻って報告するわけです。すると、私が帰社している最中に、銀行から父に『あれはやめた方がいい』と電話が入っていたらしく、大目玉を食らいました(笑)」


しかし、駅前という好立地でもあり、ターゲットを明確にして適正な価格で質の良いサービスを提供すれば絶対にうまくいく、と雄一朗氏は建設に向けてそれまでに収集したデータから確信していたのです。そして根気強くその裏付けデータをまとめた資料を示し、社内や銀行の説得を続けました。


「最後には土下座までして、ようやくOKが出ました。でも、名前に『米吾』とは入れないという条件が付きました。失敗したら、社名に傷が付くということだったのでしょうね。」


「米吾」の名、先祖代々の歴史の重み、といったものをこの時に雄一朗氏は改めて受け止めます。周囲の大きな反対の声を聞いていた時には、吾吉郎氏が大きな業態転換を果たした時に想いを馳せたこともあったでしょう。


建設にGOサインが出た後も、雄一朗氏は綿密な調査を重ねて宿泊客が快適に過ごせることを第一に考えて細部に至るまで様々な工夫を凝らしました。こうした「おもてなしの心」で建設された「ホテルハーベストイン米子」は平成6年(1994年)にオープンします。利用客の口コミで順調に客数が増え、いまや周辺ホテルの中ではトップの稼働率を誇っています。


大きな試練を乗り越え、また、大きな実績を持って社長に就任した雄一朗氏が、就任後の初仕事として取り組んだのが、あの「氷温熟成技術」の開発でした。「夢を持って働ける工場」、深夜の時間外労働を強いられない環境作りを目指してこの開発に取り組んだお話は既にお伝えしています、「会社の経営上重視していること」をキーワードにブログ内を探してみてください。


計画的に生産した商品を急速冷凍し、受注に応じて1個のムラもなく作りたてと同じ状態に解凍でき、さらには品質の向上まで出来るという、夢のような技術の確立には4年もの年月がかかりました。平成13年(2001年)には特許も認可され、世界に類を見ない「近未来の食品生産を担う」技術として国内・海外から注目を浴びています。


また、この技術の開発によって生産量を確保できるようになったことから、雄一朗氏は「吾左衛門鮓」を駅弁から贈答品、土産品として売り出し始めます。県外では特に効率的に情報発信ができるという観点から首都圏に進出を図り、平成14年(2002年)からは歌舞伎座でも販売されました。インターネット事業は平成6年(1994年)から弟の内田幸男氏が有限会社「米吾の里」で手掛けていましたが、「米吾」本体でも通信販売業務に乗り出したのもこの時期です。


列車のスピード化によって駅弁を含めた駅構内の販売売上は頭打ちになり、仕出し料理の地域内だけの販売も市場に限りがあるため、現状に甘んじていれば経営が成り立たなくなる。社長就任時のこの危惧を払拭するためにとった営業施策も功を奏して、「吾左衛門酢」は順調に販売量を伸ばし、日に多くても300食が限界だった地域の特産品から年間約65万食を売り上げる商品に成長しています。


そして、平成14年にアメリカロサンゼルスの大手スーパーでの「全国有名駅弁まつり」に出店し、成功を収めた実績から、今後雄一朗氏が視野に入れているのは海外です。単なる市場のグローバル化だけではなく、「吾左衛門鮓」を世界に人々が口にすることによって食材である鯖や米、酢、昆布の成分や食文化について語り合い、家族団らんのきっかけになればと願っているそうです。世界中の食卓の中心に「吾左衛門鮓」がある、その日が来ること目指して雄一朗氏は次なる展開のチャンスをうかがっています。


「米吾の歴史の中で、自分は1バトンランナーに過ぎません。しかし、何らかの足跡を残したうえで、後進にバトンを渡すことが自分の役目だと思っています。」


代々伝統を守りながら、新たな挑戦を繰り返してきた内田家の当主が、回船問屋の祖先が船子に振舞った船鮨をヒントにした商品を目玉に日本海を飛び出して、世界の荒海に乗り出しました。そして、その視野には、次世代の「米吾」像までが入っています。


「おもてなしの心」と「チャレンジ精神」、綿々と受け継がれる内田家のスピリッツで、世界の市場に殴り込みをかける日も遠くありません。始めることも、そして続けること、どちらも難しいことです。その両方を成し遂げてきた内田家、そして「米吾」の発展のカギはこのスピリッツにあると私は思います。


参考文献

株式会社 米吾「米吾 悠久の記念誌」 株式会社 米吾 2002

米子市編纂「新修 米子市史」 毎日新聞社 1974

日本経済新聞 「200年企業 492009422日 

月刊ベンチャーリンク 「地方発 元気企業」20069月号


参考URL

法政大学経営学部 鈴木健教授の随筆http://www.i.hosei.ac.jp/~tsuzuki/teacher/yonago/yonago.html



















13代内田健二郎「先駆」「発展」1957年~1996年

昭和32年(1957年)の社長就任直後にあたる昭和36年(1961年)に、健二郎氏は山陰本線米子管理局内の鳥取、島根両県の駅弁業者を集めた米鉄車内販売株式会社を共同設立に導きました。山陰本線車内における需要の掘り起こしによって、駅弁業務はさらに拡大していきます。



昭和37年(1962年)には、改築された米子駅2階に「観光食堂」を開店。また、ゴルフブームを予見して米子ゴルフ場にも食堂を開店しています。エンドユーザーの生の声を聞ける事業にも力を入れた展開が、「吾左衛門鮓 鯖」を生み出す土台になっているとも言えそうです。



昭和40年(1965年)には、「米子米吾ビル」が米子駅前の整備事業により撤去されることとなりました。その2年後の昭和42年(1967年)に、同じく駅前で、より利便性の高い場所に地下1階、地上6階建てのビルとして再建されました。従前通り、ビルには本社機能を置く他、結婚式場、会議場、食堂、貸事務所など多機能ビルとして運用しました。こうしたやり方は、まさに現在の複合ビルの先駆けでした。



「米吾ビル」からなくなった仕出し調理場としては、昭和45年(1970年)には米子市奈喜良地区にケータリングセンターを新設しました。品質を保ちながらの生産性の向上はもちろんのこと、流通面を改善し、それが新たな市場を掘り起こして一層の業務拡大へと繋がります。



昭和50年(1975年)頃からは、ここで「吾左衛門鮓 鯖 」の開発始まり、昭和53年(1978年)に発売されています。好評を得て、昭和55年(1980年)には「吾左衛門鮓 蟹」も追随することとなりました。



「私の責任は重かった。まさか命までは取られないだろう。誤魔化さないように誠心誠意やれば何とかなる。なんとかなるわい」



様々に時代の先駆けとなる事業を興し、次世代の発展の基礎を作った健二郎氏は、社長就任当時を振り返ってこう言ったそうです。吾左衛門の昔から、内田家に引き継がれてきた開拓者精神の基本にあるのは「誠心誠意」、おもてなしの心であることが、伝わってきます。