■ブログ炎上?! モラハラ・パワハラ・DV・虐待 | 心屋仁之助オフィシャルブログ「心が風に、なる」Powered by Ameba

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見えないけれど、やさしく包んでくれる。
風のように、水のように、普通の幸せに気づける、
そんなお話をお届けしようと思います。

昨日の記事 に、

沢山のコメントありがとうございました。


すわ、炎上か?!というぐらいの

「反応」でしたね。



以前に、「暴力」について

書いた時も同じような反応がありました。


このあたりの記事ですね。


■性的虐待を受け容れる



きっと今日も炎上するでしょう。

でも、とても大事なことなので書きますね。



こんにちは

性格リフォーム

心理カウンセラー


心屋です。



---



反応するひとは、

相手のことを分析して、悪く言って

如何に相手の言動がひどいかを語り、

病名をつけたりして、

闘う方法を述べます。


つまり

「自分がいかに間違ってないか」

「自分がいかに正しいか」

の証明にやっきになるのです。


それで何の解決になると

思っているんだろう。


「あいつが」

「あのひとが」


って、


「自分は」どこに行ったんだろう。


自分が「正しさ」を主張するほどに

自分の周りに「正しくない出来事」が集まってくるのに。

(ええ、今の僕の行動も、反対意見ばかり集める結果になることも承知の上でね)



そういう「被害者反応」

そして「加害者糾弾」を叫ぶ人は


僕は叩き出します。




真摯に自分に向き合おうとして

頑張っているこの場を荒らすからです。



誰にでも噛みついて

権威をかさに来て

「専門家」と名乗るものを妄信して


自分が被害者であることを振り回して

周りを糾弾している自分の行動が



一番の「言葉の暴力」であるからです。

一番の「パワハラ」であるからです。



手足を出さない

態度を出さない


だから、わたしはひどいことをしていない、と。


でも、言葉の暴力が

実は一番ひどいことに気づいていないのです。




訴訟の国、糾弾の国 アメリカから入ってきた

相手を悪者に決めつける言葉を振り回す、


そんなひとは、

僕はここにいて欲しくないのです。




いじめの問題も全部一緒です。


人間関係は

被害を受ける人と、害を加える人 がいないと成り立ちません。

二人の共同作業です。




誤解を恐れずに言いかえれば


被害を受けたい人と、害を加えたたいひと で出来ています。


被害をさせる人と、加害を「させられるひと」の共同作業でもあります。




加害者は、どうして「害」を加えるのか、

それは「害をくわえられた」と思っているからです。


心の底に「受け容れられなかった恐怖」があるからです。



自分は、ひどいことされた、被害をこうむった、と

態度で、言葉で、目線で、「先に攻撃された」と。


「ばかにされた」「大事にされなかった」と

「だから」加害するのです。



「自分は何もしていないのに」

「わたしは悪くない」

「正当な権利だ」


と。



一方、被害者も


「自分は何もしていないのに」

「こんなにしてのに」


ひどいことされた、大事にされない、

理解してもらえない、と訴える。



そう、ふたりの心の傷は同じなのです。




どちらも、被害を受けたと叫んでいるのです。

だから、終わらないのです。


どちらも

「いかにひどいことをされたのか」合戦になるのです。





被害者が、加害者を糾弾して、

別の場所に逃げても、その


「自分はひどいことをされる人だ」という

心の傷がいやされない限り、同じことに出会います。




被害者が戦って

加害者をやりこめても


今度はまた「やられた」と

戦いの連鎖は終わりません。




ひどいことをされるのであれば

さっさと別の場所に逃げればいいのに


自分の正当性を訴えるために

もしくは、自分が


「ひどいことをされる人間だ」

「わたしが悪いんだ」


ということを

味わい続けるために

そこに居続けてしまうこともあります。



さっさと別の場所に逃げて

「もうひどいことをされる自分をやめる」と決意して

幸せに暮らしている人もいるのです。



---


主語は「自分」以外にあり得ないのです。


「あのひとが」では、物事は解決しません。


「わたしが」どうするか、しかないのです。



「わたしが」何と闘っているのか

「わたしが」どんな自分の過去と闘っているのか


「わたしが」なにを拒絶して心が偏っているのか

「わたしが」何を正義とし、悪とする志向に偏っているのか


「わたしが」自分をどんな人だと思い、どう扱っているのか。



そこを何とかしない限り

この問題は終わらないのです。



僕は、「こんなひどいことされた」という「被害者理論」は

いっさい受け付けません。


そんな、被害者理論で固められた

「専門書」「専門家」なんて、論外です。


彼のような人の話 には大いに共感しますが。



たとえ

それを受け付けないことで

ひどい人、気持ちのわからない人、

カウンセラーらしくないといわれても

受け付けません。


それが、一銭の得にもならないこと

それを理解することで相手が増長すること、


そして、その「被害者理論」から

抜け出すことでしか問題は解決しないと信じているからです。





昨日の「質問」に対して


パワハラされている人は、誰かにパワハラしてください。


と書きました。


これは、本当にやるのですか? ただの比喩ですか?

と訊かれましたが


「本当にやる」のです。

(その他の追加質問にまだ答え切れてなくてごめんね)



本当にやる、つまり


「加害者」になることで、

「加害者」を「やってみる」ことで


「加害者」という、

「自分が一番なりたくないと拒否しているタブー」を犯すことで


初めて、

その「偏り」「タブー」が壊れて

「被害者」から抜け出せるのです。



加害者をやってみると、

もう一つ気がつきます。


「そんなことは、自分は前からとっくにやっていた」

ということにね。


被害に遭うときは、

過激な表現ですが

「善人づら」しているときです。


「わたしは悪くない」という思いに

凝り固まっているときです。



自分の中から、

悪を追い出し

いいひとでござい、と

自分にウソをついている時です。


もう一度言いますね~


パワハラされているひとは、

だれかにパワハラしてみてください。


無視されてる人は

誰かを無視してみてください。


大事にされない人は

誰かのことを粗末に扱ってみてください。



すると


もう

パワハラもされないし

無視もされないし

大切に扱われるのです。


それは

「被害者」から抜けだしたからなのです。


世界は、一瞬で変わるのです。


それをする「勇気」だけで

変わるのです。


いいひとをやめる、

悪い奴に「戻る」勇気だけなのです。



---



ただ、ひとつ


自分が小さな頃にうけた「被害」

これだけは例外です。


本当に、何も悪くなかった。

本当に、意味がわからなかったのに


親から、誰かから、不当な扱いを受けた、



そんなときは、十分その子(小さな自分)を

いたわってあげてください。



そして

「もう、そこにいなくていいんだ」

「もう、終わったんだ」


「そうされたからと言って、あなたは“そういうひと”ではないんだ」

「あなたは、わるくなかったんだ」

「つらかったね」


と、いたわってあげてください。

そして、終わらせてあげてください。


そのことを「引きずること」

それによって「戦い続けること」が

一番人生を狂わせるからです。


あなたは

もう、その子供の頃からの戦いを

終わらせて


幸せになっていいんです。



今までの「戦い」は

もう終わらせていいんです。


そんな「損」もあるのです。




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