俳優舞台生活五十年
  作者 : 田辺若男

  出版 : 春秋社
  作年 : 1960年

 

 

田辺若男 『俳優舞台生活五十年』 春秋社


一方ならぬ(気概故にまた)苦労をした男が自分の錐揉む俳優人生を振り返って紐解いても紐解いてもいまに続く苦労が掘り当てられる、そんな自叙伝を読みながらやや呆然とさせられるのは自叙伝とは永遠に未完であるというわかりきった事実です。いまではとっくに亡くなっている田辺は本作を足早に取りまとめた戦中から戦後(日本共産党に入党して)しばらくで締めくくって作中の田辺にはまだいくらも未来があることが何か物悲しいことのように最後の頁にぶら下がっています。明治に国を仕切り直したために国の発展と西洋芸術の体得、そして近代の矛盾をなけなしの暴力で解決しようという革命の高鳴りまでがうねりのようにひとつの時代に迸ってそんななかを青年として生きるということは青年自身が時代の矛盾となることであって、いやはや理想に上向いた眼差しではついつい泥濘に足を踏み入れます。勤めた鉄道が国に買い上げられるのにひとり頭涙金が出て時代も明治の終わりばな、十七歳の目に広がる自分の人生とは異なもので、どうしたことか新派役者に弟子入りするとまるで現実に追いつかれまいとするかのようにこの時代に湧き上がった多種雑多な演劇のあれこれを田辺若男はくぐり抜けていきます。川上音二郎一座に入るかと思えば坪内逍遥の文芸協会、二世左団次の自由劇場、井上正夫の新時代劇協会、中村吉蔵の新社会劇団... そしていよいよ島村抱月の芸術座です。ここで島村に突きつけられた言葉、<我々の生活に欠くべからざる真の劇>とは何か、芸術に生きるのか、職業に生きるのかという(役者で喰えないと肚は決まっていても背中と腹は隣り合わせ、芸術を背負っても食っていかねばならぬ身に)この言葉は終生田辺のいまを問い詰めます。それにしても自ら放浪の役者というだけあって劇団から劇団へ(それだけこの時代には上にも下にも右にも左にも一座があり小屋があって挙句に時を同じく始まったカツドウが土の上にまで芝居をひろげて)腰を落ち着ける間もありません。それが役者として手堅い評価を得ながらひとつ軽い、そして年齢を重ねるごとにその釣り合わなさが寧ろ周囲に煙たい思いにさせることにもなって、端的なのは1938年文学座の発足に田辺も名前を連ねています。しかしいま文学座を思い出して田辺を思い浮かべるひとはいないわけで、熱望した<真の劇>に巡り会いながら半年もしないうちに声を掛けてきた北村喜八の劇団に移籍です(、まあそことて村瀬幸子を筆頭に若き田島義文や清水元を擁して気概に溢れていたでしょうけれど... )。不義理を詫びにいった久保田万太郎には円満な退座を聞き入れて貰ったと言いますが、彼を見送る久保田の目が何か見えてきそうです。振り返れば破竹の新国劇にあって妻を巡る沢田正二郎と確執、引き合わされたときは絵を描く妙な女だと言われて転がり込むまま結婚までした相手は都会の塵芥から必死にのし上がろうと(今度は田辺を伝手に知り合った詩人たちのなかへと飛び込んで)家を出たそれがのちの林芙美子、そんな田辺の挿話のなかで思わず時代の暴虐に立ち尽くすのが戦争末期のこと。戦時体制に役者は鑑札になり芝居は戦地、銃後の慰問に組み入れられるなか瑞穂劇団に属する田辺は改組によって桜隊に編入されると六月末に広島へ旅立ちます。そこを拠点に中国地方を渡り歩く芝居の日々ですが一度長野に疎開させた妻子の許に戻るのが七月の下旬。程なく電報が届いて六日からの稽古を告げられると急いで広島に戻りますが、連日連夜の空襲で列車は思うに任せず駅に野宿をしながらほそぼそと乗り継いで漸く呉に着いたのが六日の夜、山越しに遠く広島の上空が劫火に真昼のように燃え立っていて、あぁここも空襲かと呟くのに朝からああやってずっと燃えとると誰知らぬ声が不気味な重さで伸し掛かってきます。列車は広島の手前で止まってしまい、ともかく仲間の許へと歩き出しますが市の外縁からして壊滅的な破壊を踏み分けるうちに起きた被害の異常さが一歩一歩立ち上がってきます。市内にはとても入れず押しとどめられ運び出される被災者が機関車一杯に詰め込まれて絶望的な現実が燃え続ける火となり、ひとびとの呻き声となり、自分自身の空っぽの胃袋となってそれでも動いていて一瞬で世界が吹き飛んだ絶対的な終わりといまだ刻々と人間を駆り立てるものの狭間に生きることが揺れています。明治この方戦前の国家を貫通するひとつの自叙伝が最後に刳り貫いた巨大な悪夢ですが、あの一瞬に私たちもまた宙吊りにされたままいまや宇宙へと広がる人類の力を前に生き物としての自分たちの意義を思わないではいられません。

 

 

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