思い出すのはご飯時の宵の口、昭和50年代と言ったらいいのか1970年代と言ったらいいのかのちのバブルのお尻がむずむずする派手さもなく、現在のただただ世界を漂流している溶けかけの氷山みたいな危うさとも違って、もっと汗ばんで腹にずっしりとご飯が詰め込まれていた頃の日本の夕飯です。お育ちが知れる通り食べながら子供は付けっぱなしのテレビに気を取られがちで、その番組がどんな趣向だったかもううろ覚えながら確かこんな感じ。出題される問題を俳優、タレントの回答者がひとりづつ尤もらしい答えとその理屈を順々に披露していって一般参加者はそのうちの誰が本当の答えなのかを賭けるそんなクイズ番組で、おわかりの通り回答者の最後のひとが進行の肝でして、突拍子もない答えと雲を掴むような屁理屈で参加者ともどもテレビの前の私まで笑いに引き込みます。厄介なのはたまにそれが正解だったりするからでまさしくトリックスターの面目躍如といったところですが、その最終枠に座っていたのが佐野浅夫、珍回答を高らかに宣ったあとに必ずつける締めの言葉が<ハイッこれほんと>、何とも嘘っぽい限りです。黙って座っているとひとの皮の薄いそらとぼけた風貌でそれが(先程申したようにたまに突拍子もない彼の屁理屈が正解だったときなど)一杯喰わせた喜びにそれまでの鹿爪らしい顔つきを一気に破顔させて、私の佐野の記憶はこれに始まります。
やがて映画を見る年齢になると改めて俳優の佐野浅夫に出会うわけです。日活映画で裕次郎や旭を取り巻いて映画会社のスターたちを物語に肉づけしていく芝居の肌理を担って... まずはいくつか見繕ってみましょう。井田深監督『街に気球があがる時』は1961年に長門裕之と吉行和子が大学生ということにいま見ても何とも晴れ晴れとした希望を感じます。勿論この微妙な数字、1961年がざらつくのは大学生である故に前年の安保闘争に敗れた傷を負っているからで、しかし(それすらも脛にではなく額に向こう傷を受けたぐらいの負けん気で)頑張ればいまよりきっといい未来がくると信じています。とは言えふたりともなかなかに苦学のいま、吉行など体が資本と男たちの倍は食べ割のいいアルバイトを手放すまいとひとを差し置いても自分を売り込む抜け目なさ、広告にアドバルーンが空高く舞い上がっていたそんな時代の宣伝社に喰い込んで社長の佐野浅夫とて容赦なく直談判です。かつかつの経営でついつい吉行の口車に乗せられる佐野は吊るしの背広のようなぶかぶかの立ち姿ながら生き馬の目を抜く宣伝業界で案外しぶとく生き残っている古強者という案配。鈴木清順監督『ハイティーンやくざ』(1962年)では一端の遊び人を気取っていますが愚連隊に凄まれると顔を八角形にして引き下がる中華屋の親父で娘が店を暇なのをいいことにゴーゴーだか何だか呑気に踊っているのを苦虫潰して見ております。まあ悪さに手を出すと言ったところで呑み行為ぐらいでいまも当たり馬券を引き当てるとちびた背丈で大きく胸を張ってはひらひら手招きする札束に笑いが止まりません。一転西村昭五郎監督『不敵なあいつ』(1966年)では刈り込んだ半白頭に頑固者の気っ風を漂わせていまも表看板を組から会社に変えた強面の者たちが親睦会などと称しては体のいいショバ代を要求するのを頑として撥ねつけます。以前からの一本気で肩で風切る連中のいいなりにならなかったばかりにとっくに片足を不自由にさせられていますが、それでも一歩も退く気のない性分です。三人三様の佐野が年10本の主演を抱えて来る日来る日も型に嵌った主人公を演じる日活スターたちに寄り添い、絡み、支えている姿が見えてきます。
フィルモグラフィーを埋め尽くすのはやはり日活映画で、それは佐野が日活と提携する民藝の団員だったからです。(そして改めて民藝のことを思うとき通常は無法なアクションでも甘酸っぱい青春映画でも日活色に馴染んで見せる民藝の面々が日活ながら民藝的な姿勢を押し立てたのは熊井啓監督『日本列島』(1965年)や『帝銀事件 死刑囚』(1964年)でしょう。後者は言わずと知れた占領期に青酸カリを扱う余りの手際のよさから731部隊の関与も噂される銀行強盗事件と難航する捜査に脇から押し出されるように犯人へと確定されていく北海道の画家の運命を描いて主演は信欣三。前者は米兵の変死体の背後に蠢く偽ドル事件を敗戦日本のどさくさからいま以て占領が続く沖縄の暗闇へと追う宇野重吉ですが、M資金的なGHQの亡霊は真実の光で底を照らすにはいまも黒ぐろと欲望に渦巻いていて死体で浮かんでいる宇野の余りの呆気なさに事件の底知れなさが浮かんでいます。他社を見ても戦前に産児制限を推進しやがて無産政党から立候補した山本宣治を下元勉が演じた山本薩夫監督『武器なき斗い』(1960年 大東映画)や滝沢修を主演に宇野重吉、清水将夫、伊達信、細川ちか子、高野由美、芦田伸介、日野道夫、北林谷栄の下で山内明、鈴木瑞穂、下元勉、そして佐野浅夫が端役で出演する当時の民藝の層の厚さに圧倒される吉村公三郎監督『夜明け前』(1953年)もやはり民藝らしさという気がします。)まあそうだけに突然日活以外の映画に顔を出されるとぐっと目を引いて、大島渚監督『青春残酷物語』(松竹 1960年)では美人局に捨鉢な荒稼ぎを繰り返す主人公をしょっ引くと彼が悪党ぶったその隠れ蓑に戦後社会の不正義、金持ちの驕慢をあげつらうのをそれこそお前の合わせ鏡だと鼻面を引っ掴んで現実に突きつけるなかなかに骨のある刑事です。そしてこのことが怒れる若者だった主人公を骨抜きにして行き場のない結末に沈めることにもなります。渋谷実監督『酔っぱらい天国』(松竹 1962年)は仕事ぶりは堅物ながら酒が入るとアブサンを垂らす角砂糖のように人格が溶け出してしまう会計課長が笠智衆です。上役に擦り寄ってそうでございます、そうでございますと満面で賛成していたら算盤と帳簿の代わりにアメリカから最新のコンピュータが導入されてガランと何もなくなった会計室でもうすることのなくなった笠共々コンピュータの番をさせられる部下が佐野、いやになっちゃうなあ、まったくいやになっちゃうなあ。
さて佐野浅夫の点鬼簿に一筆書き添える映画となりますと、原爆に両親を奪われた挙句に小さな体に放射能を浴びて生きる刻々を発病との背中合わせにある渡哲也がそれでも若者らしい、照りつけるような恋を掴もうと懸命に手を伸ばす蔵原惟繕監督『愛と死の記録』(1966年)は忘れ難いところです。渡をわが子同然に思いつつ同時に彼が背負うものの重さを彼以上に知りながらまっとうできるかわからない恋をそれでも渡のひたむきさに応えて迎え入れるのが世話役の佐野です。戦争の夥しい白骨がいまも敷き詰められているかのようなモノクロームの潜めた息遣いにあって抱き合いながら運命に呑み込まれていく若いふたりの傍らで大人であることの無力と無念さに打ち拉がれる佐野の姿は自分がいまのような年齢になるとぐっと身に染みてきます。とまれ本作は広島と映画ということでいづれお話することもありましょう。佐野浅夫の一本に私は鈴木清順監督『河内カルメン』(1966年)を挙げたいと思います。鵺のような妖艶さに疼く母親と彼女に絡みつく生臭坊主から逃れて田舎を飛び出す野川由美子はさりとて都会で生きていくとなればとどのつまりはキャバレーです。最初こそ襟元を掻き合わせる頑なさで酔ってしどけない男たちに目を剥きますが明るい美貌に不思議な気っ風で見る見る店の人気を拐っていきます。見れば店の入口でしのつく雨に濡れそぼるのが通いつめた佐野浅夫で勤め先の金を使い込んでいまでは(店に入るお金もなく)出入りに顔を見せる野川にぶら下がるのだけが生きがいです。行く宛もなく思えば自分のために金を使い込んだと思えばほっとくこともできずにアパートに入れてやると、まめまめしく立ち働いて野川を送り出す毎日。だめな男だと思いながら気の優しいのにほだされてとっくに男女の仲になってみれば何となく満たされてきます。佐野は新婚気取りにカーテンの吊り輪を指輪にして嵌めていますが、だんだんと野川が自分の手のなかに入れておける女でなくなっていくことが目に眩しく輝いて見えます。大きく伸びていくだろう野川のこれからを思えばいつまでも自分のようなものがぶら下がっていては彼女のためにならず、夢のような日々もここらが身の引き際、二間ばかりのアパートを掃除しながら萎れていく心で微笑んでは指に嵌めた針金の指輪をそっと排水口に流します。野川にすれば情が移っていないわけではなく、寧ろ悪しざまに罵ってくれた方が売り言葉に買い言葉でポンポンポンと別れに踏ん切りをつけられる、それを聞き遂げてやって<わいはなぁ、おのれから離れたれんぜぇ、金輪際、離れたれんぜぇ>と声を張り上げながら(怒声と裏腹に)自分が洗ったわずかばかりの衣服を小さく畳んでいく佐野の横顔は野川でなくとも胸を衝かれます。部屋を出ていくその戸口で大きく自分の、(野川からひらひらと舞い落ちて)ひとりぼっちになるこれからを睨んで、いま失おうとしているものの大きさに一瞬言葉もなく立ち尽くしたまま佐野は姿を消します。スターを支え、映画を支え切る役者の力量を見る思いです。
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鈴木清順『河内カルメン』佐野浅夫・野川由美子
鈴木清順『河内カルメン』佐野浅夫
蔵原惟繕『愛と死の記録』 渡哲也・佐野浅夫
鈴木清順『ハイティーンやくざ』川地民夫・佐野浅夫
西村昭五郎『不敵なあいつ』深江章喜・佐野浅夫
井田深『街に気球があがる時』佐野浅夫
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