『ターミネーター』シリーズがそのご長寿のうちにいつしか現実に抜き去られてしまったのはやはり核戦争後という危機のヴィジョンでしょう。シリーズ第一作が製作された80年代半ばにはSS20の配備(と当時の限定核戦争から核の冬までの議論)が新たに反核運動を揺さぶって来たるべき核戦争とその後の絶望的な荒廃はそれなりに実感のある(とは言えまあ空想的な)未来だったわけです。まさにそのような荒廃の未来を背負ってこそ超人的な機械が人類を殲滅せんとする作品の世界観が成り立っていたものを現在では全面的な核戦争という破局はひとびとの喫緊の危惧からは後退してそれよりもはるかにテロリズムの(まさに街路から遺伝子、ネット空間まで広がった)突発や災害、食糧危機にまさに進行形の感染症へひとびとの危機意識は移っています。だいたい独裁的な大国のあのひとこのひとがさまざまな情報戦を駆使しながら国民の判断力を撹乱している現状から見ても知能で圧倒的に優位にある機械が人間と全面的な武力闘争に陥っているという図式は何とも古風でしかありません。(しかもそれまで文字通り機械的に優秀であった機械が自我を獲得した途端に人間の原初的な権力欲に取り憑かれるというのも何とも人間中心主義的です。人間と共存することが機械に然程不便があるようにも思えないのにそれを峻拒するのは自らの優秀性に奉じた優生思想でしょうしね。)とそんなことを思いつつティム・ラミー監督『ターミネーター : ニューフェイト』(2019年)を見ていて(まあかの作品に限らないことではありますが)アクション場面のいつ終わることない尺の長さにまず戸惑います。敵が標的である女性を発見して襲撃するところから始まる一連のアクションが工場から路上そして高速道路へと引き続いてひとまずの終結を見るまでに90年代までのそれと比べても優に2倍か3倍はある長さです。最初から最高度の暴力の緊張度が引きも切らず高速に繰り返されながら何度もこれが決定打かと思う一撃を放ちつつそのたびに敵が立ち上がってきて一向に場面が区切られる気配がありません。語りの緩急にアクションを嵌め込むのではなく観客が(見ながら留めようもなく)見流していくその放心まで場面を高速に空廻りさせていきます。勿論CGとワイヤーアクションによってこそですがしかしこの時間と身体の感覚こそ解きほぐしたいところでおよそ今回のお話ではそこまで辿り着けませんがそれを望みつつはるかな前史を見て参りましょう。

 

 

 


ウィリアム・A・ウェルマン監督『民衆の敵』は1931年の製作で勿論トーキーですから主演のジェームズ・キャグニーは自らの口にセリフを乗せていきます。酒場で女を引っ掛けた浮かれ気分も束の間生活を共にするようになると(ギャングの刃渡りするような毎日に溜め息ばかり多くなって)何かと所帯じみた女に嫌気が差してその辛気臭さに悪態をつくなり皿に輪切りのグレープフルーツを女に殴りつける場面は(確か)キャグニーのアドリブでいま見ても呆気に取られた女の顔がこじれた朝食に置き去りにされる悲しみを浮かべています。結末もそれぞれが見せ場を募らせながらそれを上廻る残酷さが抉るようで簀巻きにされてドアに立たされたキャグニーはとっくに殺されていて... ひとが真後ろにひっくり返る圧巻が『私が棄てた女』(浦山桐郎監督 1969年)の小林トシ江だとすると前に棒倒しになるおぞましさが砂煙に立ちのぼるのがこのときのキャグニーです。それにしても本作を見ていてわかるのはトーキーが獲得したのが単に音声ではないということです、冒頭町の悪ガキがデパートのひと混みに紛れ込むのを支配人にめざとく見つけられて(彼をからかいつつ)エスカレーターを駆け上ると折悪しく警官に出くわして取って返してエスカレーターの間の斜面を滑り降りる、この一連の体の動きが何というか芝居にリズムが刻まれていない、即興的な滑らかさです。他にももう悪ガキでは済まない真夜中の窃盗に手を染めて駆けつける警官に仲間と建物の屋上に逃れると(一瞬も迷うことのない)滑らかな決断で雨樋に飛び移って滑り降りる、まったく淀みのない身体の闊達さです。

 

 

 


トーキーが(セリフを身体から音声に移すことで)生んだのがこのような空間を自由に分節し横断する身体であってそこから逆にサイレント映画での身体が見えない(というか聞こえない)リズムに律せられていることに気づきます。例えばチャップリンやキートンを見ていると歩くだけで画面が節づけられそれが語りのリズムとなって更に彼らの芝居を律していってやがて映画全体の躍動へと反響していきます。勿論そこは役者の身体のみならずキャメラを手廻すキャメラマンの指先も与って場面が弛むと思えば1秒のコマ数を減らしてカタカタと動きを上げてみせます。それがよく表れるのが西部劇の馬の疾駆で大地を打ち鳴らすようなだく足の連打はいっかな馬の健脚を以てしても映像の平板さに呑まれてしまってそこはキャメラマンがクランクを僅かに早く廻すことで隆々たる地響きに変えていきます。撮影中も芝居の見せどころに合わせてこまめにコマ数を調整して(ヒロインの輝くばかりのアップにはやや速度を落としつつ肌理を添えてやって)それもこれも音声と同期する必要がないサイレントであったからこそ指先の感覚ひとつで行って... 尤も当時のキャメラマンはディゾルブもアイリスも(編集ではなく)キャメラでこなしていたというんですから恐れ入ります。ケヴィン・ブラウンロウ『サイレント映画の黄金時代』(国書刊行会 2019.12)を読んでいると俳優によってはキャメラを廻す機械音に気が散ることがあり彼らの耳を紛らすために撮影中に音楽を弾かせるうちだんだん芝居の高揚にオケを入れるなどサイレント映画の撮影に音楽が付きものだったとあって(その聞こえざるリズムに乗って)画面のなかの彼らの身体が芝居に拍を刻んでいたことが種明かしされます。ついついサイレント映画というと(スタンリー・ドーネン監督『雨に唄えば』でサイレントのスター女優であるジーン・ヘイデンが見せる目一杯に腕をひろげて喜びを顔を指の間に覆っては悲しみをというあの)身振りの大仰な芝居を思い浮かべますが何気なく歩いてもリズムを刻む身体こそその本質ということなのでしょう、トーキーが齎したのはそんな身体を無拍の自由に(一端)返してやることで最後にそんな変革の現場の小咄を、トーキーになってとにかく防音、防音、口を閉じろ、音を立てるなと煩くなって逆に現場はサイレントになったとか。

 

 

 

ウィリアム・A・ウェルマン 民衆の敵 メイ・クラーク ジェームズ・キャグニー

 

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ウィリアム・A・ウェルマン 民衆の敵 ドナルド・クック ジェームズ・キャグニー

 

 

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