映画会社が製作に旺盛だったその昔映画の尺を決していた原理は複雑にして明瞭なものでしてまずはその映画が本編か添え物かでおよその長さに振り分けられ本編も正月や盆の掻き入れどきの公開かどうか、オールスター、創立何周年記念作となると予算にも力が入りますがまあそれでも2時間を越える作品は稀です。尺を決める必須の要因に二本立てにして映画館で日に何回掛けられるかということがあってお客をさらで入れ替えられる回数が即ち売り上げの上限なわけですから館主たちにすれば途端に死活問題であって映画会社への突き上げは一入です。直営館とは別に巷のさまざまな映画館を自社作品の配給網に組み入れるブロックブッキングで興行の拡大と安定を計っている映画会社からしても目指すところは同じで映画の尺がおいそれと二時間の坂を越えられないわけです。これを念頭に置くと黒澤明が客分である松竹で『白痴』(1951年)を監督して265分の尺で完成させたこと、また内田吐夢が当時凋落する時代劇に労使問題をこじらせていた東映で『飢餓海峡』(1965年)を192分の尺で撮ったことの戦いの線がぐっと浮き彫りになってきます。(因みに当時松竹にあった中平康は黒澤映画の最高の一本にこの『白痴』を挙げてただ小面憎いのは会社に切り刻まれた166分の現行版ではなくもはや跡形もなく幻となった265分版だとか、いやはや。)戦前の日活において『限りなき前進』(1937年)『土』(1939年)によって監督としての自らに自信を深める内田は会社の反対を押し切って(このとき製作を取り仕切っていたのはあの、大蔵貢... )『歴史』という長大な作品を世に問いますが目も眩む不入りに(まあ大蔵にすればそれ見たことかですが)責任を取って日活を退社、以降南旺、満映に中国残留九年という人生の流転に呑み込まれて映画がどういう理屈で決定されているかなど骨の髄まで知っていて、知っていながら192分の映画を撮るわけです。それは黒澤としても同じことでもはや労働争議というよりも一揆の様相になっていた東宝で映画の製作が止まっているからこそ他社で撮っている身で265分の映画を作る覚悟は生半可なことではありません。製作、配給、興行を統合する当時の映画産業にあって彼らの長尺が突きつけているのは製作という部門こそ(他の二部門にはるかに制約されて)一番弱いその構造です。事実いよいよ斜陽どころか胴体着陸の激震に震える70年代に入ると映画会社がそうそうに見切るをつけるのが製作で自社作品を絞り込む一方で強い配給に物を言わせて外部で製作させた映画を買い叩きます。

 

 

 

 

そんなことを思い起こすのも昨今の映画の尺に何とも決まりの悪い思いをさせられるからで例えば村上春樹の短編に基づきながら見る見るそれを自らの映像のなかに浸し込んでいくイ・チャンドン監督『バーニング 劇場版』(2018年)は実際見事な語りですがこれが148分と聞くとやや言葉を失います。オールスター映画にして過酷なスペクタクル映画でもあってまさに70年代日本映画の大作と謳われる『八甲田山』(森谷司郎監督 1977年)が169分、帝国海軍の堂々たる主力を題名に掲げて同じくオールスターの大作『連合艦隊』(松林宗恵監督 1981年)で145分、東映がやくざ映画の低迷を渾身の一撃で巻き返そうとやはりオールスターの布陣で放った『やくざ戦争 日本の首領』(中島貞雄監督 1977年)など139分で...  もやくやした人間関係を追ってほぼ韓国人青年3人で撮られた作品が当時の俳優という俳優を掻き集めるように作った畢生の日本映画とほぼ変わらぬ尺です。これは何も韓国映画に留まらず昨今の映画全般に言えることで勿論そこにはデジタル化によって撮影からも上映からもフィルムという条件がなくなったことも大きいでしょう、60年代当時映画の収益はほぼ映画館に限られ(あとはぽつぽつとテレビ放映権)それがいまや多様に展開して映画の環境が大きく開かれたのは確かです。長尺のみならず映画の尺そのものが配給の制約からある程度自由になることはまさにあのときの内田や黒澤が夢見たことですが、ただ私がいま思うのはそのことを少し逆向きに見てみたいということでして...

 

 

 

 

 


例えば斎藤工監督『blank13』(2018年)は借金まみれの父親に捨て置かれた母子の、今頃になって父の死を知ることになった子供は子供なり母は母なりの思いを追っていきます。斎藤の意気込みは効果を入れ込んだ映像や彩度を落とした色調にも伺えますが(それもだんだん単調な反復になって)後半は役者任せに演芸会をベタ撮りして映画としては破綻しています。斎藤に映画への(意気込みほどの)見識を感じないのは冒頭で<実話に基づく物語>と掲げるこの言葉が映画に何をもたらすのか作り手に見極められていないことで、これが実話に基づくかただのフィクションかで映画にどんな差異が生まれるのかその見極めがあってこその、あの言葉です。本作が70分。例えば半野喜弘監督『雨にゆれる女』(2016年)は如何にも過去に訳を潜めた男がチンピラめいた同僚から押しつけられる若い女との、やがて絡み合うそのなりゆきを描きますが、ロマンポルノめいた題名はともかく原色で画面を圧する文字の組み方にしても音楽の深刻で(敢えて)安っぽい被せ方にしてもシャブロルをなぞります。ただ何というかそういう(自意識の募った)作り手の視点のみあって観客には実際どう見えるのかいま一度立ち止まってみることも必要でしょう。ランプに火をつけるとその炎にねっとりとナイフを練り込みながら重怠い音楽を重ねる冒頭からして(私などこの中途半端さはわざと為されているのだと早合点していつ青木崇高が炙りすぎたナイフを<熱ッ>とおっことすのかと)それほどに映画は緊張にも切実さにも高まらず以降観客とのこの乖離を埋めないまま映画は作り手の自意識を映し続けます。本作が83分。例えばオダギリジョー監督『ある船頭の話』(2019年)は題名のままの映画で... ただ私が感じるのは文明と自然といういまさらながらの対立を引き込みながら最後はこの対立に物語が阿ってしまって川べりの船頭小屋をほぼ一幕物にして映画を語りながらついぞ映し出されることのない<町>の規模をどのように想定しているのか、やがて一本の近代橋の開通によって土地のひと柄ごと生活の激変が起こるなど寓意にしても図式に過ぎます。(脚本にちぐはぐなところはいくらもありどう見ても五十絡み六十絡みのこの船頭に向かって工夫の若造が<お前、女抱いたことがあるのか>と甚振るのには仰け反りましたが... )ただかの映画の穴は船頭である柄本明が自分が救ったこの少女に一体どのような思いを重ねているのかはっきりしないことで娘なのか母なのか女なのか(或いはあの取ってつけたマリア像なのか)それぞれ別様の欲望となって体に逆巻くそれをきちんと見据えないために結末の激流にふたりして向かうのもただなりゆきに流されているようにしか見えず、その本作が137分。さて私が言わんとするのはこれらの映画をいま一度映画会社に制約を課せられていた昔に引き戻して改めて映画の尺を考えてみることです。内容の嵩からして差し詰め斎藤は30分、半野が50分、オダギリが70分というところでしょう。まあ胡乱な話ではありますが一考の価値はあるのは例えば半野など50分の内容を83分の映画に仕立てて140分の映画のような語りで描いていることがわかります。オダギリが物語の主題を突き詰めないで済んだのも70分の映画を137分で撮っているからでこの冗長さに何ごとかを描いているかのような水嵩が生まれているわけです。制約が一概に表現を縛るのでも自由が即ち表現を解き放つのでもない、そういうことだと思います。

 

 

 

 

 

 
 

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