『さびしんぼう』(1985年)のヒロインは主人公への儚い恋心を紡ぎつつ(まあ大林宣彦の近親恋愛の主題もあって)実際は主人公と同じ年齢の(写真から抜け出した)母親です。この(実際にはひとりながら息子と同じだけの年齢差で向かい合う)ふたりの女性を貫くのがピアノを弾く男子への高ぶる憧憬でして母など(というかヒロインにしてもほんの数年後の自分が)お坊さん相手のお見合いでまずはピアノが弾けるかを問いただす白熱ぶり。ですから乙女の浅はかさできっと夢多き女性となっているものと思い描いていた中年の自分が現実には息子の成績にやたら平常心を失っているその姿に反発しつつも彼女が息子にピアノの練習を励行するのにはヒロインは大いに賛成なわけです。勿論女性たちのこの熱意の微塵もない息子は強いられるままに向かったピアノを前に母ご指名のショパンを弾いても雨だれどころかぼたぼたと雨漏りするような爪弾きでやる気のないのは一目瞭然、母の眉間の皺も一段深くなろうというものです。それにしてもギターを弾く男性というのは映画でも戦前からお馴染みで(ロカビリーが出現するまで男性がギターを背負えば流しというのが通り相場で)侘しさと隣合わせ、それに比べるとピアノを弾くというのは(例え酒場の壊れピアノでラグタイムを叩くにしたって)華やかで垢抜けて見えます。実際『さびしんぼう』のヒロインにしてからが初恋の美少年が颯爽とショパンを奏でたその姿を中年のいまにおいても胸に焼きつけているんですからその威力たるや。となれば二枚目スターがおめおめと見過ごしにしているはずはありません。例えば田宮二郎、長身を颯爽とした三つ揃いに着こなして八重歯を覗かせるあどけない微笑で女性の心を掻き立てるとナイトクラブのピアノに腰掛けます。ここで彼にピアノが弾けるのなら問題はありません、しかしそうでないと待ち受けているのはピアノ越しに笑みをたたえて弾いている(真似の)田宮、カットバックで鍵盤の上を流麗に弾き渡る指、曲に酔いしれる田宮のアップ、鍵盤の十指も更に華麗に(どころか超絶的な運指を物ともせず)行きつ戻りつして、いよいよ自らの演奏に陶酔しきりの田宮から女性への満面の微笑みが投げかけられて... と何とも言い訳めいた何とも噛み合わせの悪いカットバックの応酬となるわけです。今回はそんな指の運命を紐解いて参りましょう。

 

 


そもそもオスカー・レヴァントのように実際に弾いている(どころシェーンベルクを先生に持つ押しも押されぬ音楽家でもある)のであれば作中で演奏を披露しても弾いている指を改めて写そうなんてそうは思わないものです(ヴィンセント・ミネリ監督『巴里のアメリカ人』)。それは『お嬢さん乾杯』(木下恵介監督 1949年)の原節子にしてもそうでひと柄は折り紙つきながら戦中戦後をがむしゃらに生き抜いていまは自動車の修理業で成功している佐野周二は幾分がさつものです。まあ敗戦という奈落がなければ華族の令嬢である原と縁づくこともなかったふたりですがいまや(父は戦犯で獄中にあって)邸宅も抵当という原には背に腹は変えられぬ現実でして恥を噛み締めても家財の売れるものは売っていくしかなくピアノもかつてそこにあった名残りだけがぽっかりと空いています。そこに自分が買ったピアノを(まあ原を喜ばせたさで)これみよがしに担いでやってくる佐野でして原の居たたまれなさをよそに演奏を所望するあの場面です。原と没落華族と言えば『安城家の舞踏会』(吉村公三郎監督 1947年)も勿論のことかの映画もやはりピアノが痛ましくもそこにあってかつては使用人ながらいまでは闇屋に才覚を奮って波打つ時流にのし上がっているのが神田隆で一方冷え冷えと(何か冬に夏物を着るような)侘しさに沈んでいるお屋敷はその神田の援助を受けたかどうかで(今さらながらの家柄の意地に煮え切らぬ)話し合いを続けています。原は時代の荒波が自分たちを押し流そうとしているのに元はどうだああだと言い募る無為をとっくに受け入れていますが神田にしても元の主人を前にやはり自分の晴れがましさを隠せません。華やかなご令嬢に比べれば使用人の娘でしかなかったわが娘がいまでは彼女たちに劣らぬ暮らしに習い事も身につけてそれを披露するために着飾った娘にピアノの演奏を無理強いします。一同の(、自分たちのかつての華やぎを晒しものにされるような)冷ややかな伏し目のなかをその視線の意味をひとり痛いほど感じながらピアノを弾く津島恵子にもアップと鍵盤のカットバックは必要ないでしょう。

 

木下恵介 お嬢さん乾杯 佐野周二 原節子

 

 

 


映画史の挿話として不思議に思うのは『ジャズシンガー』(アラン・クロスランド監督 1927年)で言わずと知れたトーキー映画の幕開けを告げるかの映画においても主人公がピアノを弾く場面が登場します。ラビの厳格な家格を守る父からすれば息子が歌手になるなど打ち据えても思い直させるべきもので事実痛いほど打擲されるのですがそれが却って決心を固めさせると主人公は家を飛び出して歌手の夢を追い求めます。やがて大劇場に招聘されるほどの成功に上りつめるとその自信を翻して家に戻りひとり母にピアノを弾き語るあの場面です。軽妙な流行歌を聞かせながら歌の合間に母にあれやこれや尋ねるのはアル・ジョルスンのアドリブでジョルスンの勘のよさに賭けたサム・ワーナーはこのときばかりは他の兄弟をセットから締め出します。歴史的な場面となりますが驚いたのはこの演奏、勿論同録されていますがジョルスンの演奏ではありません、キャメラの外れでバート・フィスクが演奏していて(Scott Eyman "The Speed of Sound:Hollywood and the Talkie Revolution 1926-1930" Simon & Schuster;Reprint" Simon & Schuster 1997.3.13)やはりここは虚を衝かれるジョルスンの鮮やかさです。しかし二枚目たちの逆襲が起こるのはこれからでして確かにピアノは弾けないけれど観客が見たいのは(お仕着せの手の方じゃなく)とびっきりのこの美貌だろうとロバート・テイラーは顎を撫でておりますよ、ロイ・デル・ロース監督『踊る不夜城』(1937年)です。ドル箱と謳われたエレノア・パウエルとのミュージカル映画でこの度は富豪の演出家であるテイラーは移動中の列車で自らピアノに向かうと新曲を披露します。アップライトの背丈からしっかり美貌の顔を突き出すと曲を演奏している(という芝居の)間それらしく肩を揺らすこともせず(隣のパウエルに歌わせるだけ歌わせておいて)自分はただ微笑んで観客の女性たちを蕩けさせます。ただ上には上がおりまして『ゴールド・ディガーズ』(マーヴィン・ルロイ監督 1933年)は大富豪の次男坊であるその身を窶して場末に作曲家として生きるディック・パウエルです。新作ミュージカルの公演間際にセットから衣装から一切合切を当局に差し押さえられていまや干乾しの女優たちと隣合わせに暮らしていてそのなかのルビー・キラーとは恋仲です。興行師が再起を賭けた新作をぶち上げて皆の期待を一身に集めますが恐慌に荒ぶ巷を掬い取れるような新しい感性の作曲家を探しあぐねてそこにパウエルです、是否聞かせてくれと乞われるままに自信の一曲を披露します。そりゃあディック・パウエルなんですからピアノを後ろから撮って首だけ出すなんて姑息なことはしません、堂々と鍵盤を斜めからキャメラを据え置きにしています。前奏から弾き語りに彼の歌になると興行師でなくとも魅了されますよ。やがて曲の激しさに鍵盤の上を右に左に腕を波打たせ十指をさざなみ渡らせます...  が見ると指はちょっぴり浮かせたまま鍵盤には一切触れていないことがわかります。熱の籠もった渾身の演奏を(わざわざ鍵盤ごと写して)まったく身振りだけでこなすとはさすが指の先までディック・パウエル。

 

 

 

 

 

 

マーヴィン・ルロイ ゴールド・ディガーズ ディック・パウエル ネッド・スパークス

 

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