大林宣彦 Nobuhiko Obayashi

 

実際にこのように大林宣彦の訃報に接して自分の思春期(という文字ほど美しくも甘酸っぱくもなくただうずうずと若さのあれこれに渦巻かれてそうこうするうちにあれほどあった若さ(というひたむきな不器用さ)があるとき嘘のようにもう自分にないことに気づかされてその分世界はひと廻りもふた廻りも小さくなり自分なりの居心地もわかってきて...  さてそんな帰らざる日々)とどう訣別するのか改めて突きつけられる思いです。当時町のそこいらにあった二番館、三番館の(名前ばかり立派な<ピカデリー>や<アカデミー>のそんな)闇のなかで『さびしんぼう』(1985年)を見ていたときの私には(勿論自分が五十路を踏み分けることなどまったく思いもよりませんがましてや)大林宣彦を見送る日が来ることを(ひとは皆死ぬ程度の事実としてはわかってはいてもそれを迎える自分に去来し自分が生きてきた時間がそのひとの死によって大きく噴き上げられて改めてあのピカデリーの闇のなかにもう一度立ってそのときには実感のなかったこれまでの時間に思いを巡らせるのだということを)本当にはわかってなかったわけです、当たり前ですが。

 

 

 

少し記憶が澄んでくれば(まさに水中花でも引き寄せるように)『ふたり』(1991年)の大林自身が作詞したという主題歌も(映画はやや時代錯誤な設定の上に大学で女子学生の憧憬を一身に集める双璧の美男が尾美としのりと宮川一朗太という人選に目をしばたたかせられる)『姉妹坂』(1985年)で布施明が朗々と歌い上げる主題歌も当時大林が何かと口ずさんでみせた『野ゆき山ゆき海べゆき』(1986年)の佐藤春夫の詩も諳んじられるのはやはりあの時代を大林に随伴していた故でしょう。思い出すままに触れますと大林の商業映画のデビュー作である『HOUSE』(1977年)とは袖触れ合うところですれ違って... と言いますのは(一体何が持ち上がったものか子供には話の端々が漏れ聞こえるばかりでともあれ)親戚が一同に会することになってそういう込み入った話し合いにいて困るのがそれぞれが連れてきた子供たちで集めればそれなりの数になるのを気のいい叔父さんが映画に連れて行ってやろうというのです。大きな街ですから映画には不自由しませんが子供に見せて大丈夫となると絞られるそのなかに『HOUSE』があって(確か男の子たちは『ジョーズ』に群がって)女の子たちはこれに行くというのですが(男の子に聞けば鮫がひとを食べる話だと言い女の子に聞けば何か不思議な館で生首が飛んだりする映画だと教えられてすっかり気圧されてしまい)結局私は叔父さんとふたりで『トラック野郎 男一匹桃次郎』を見て(黒い濁流に呑み込まれる結末のあとをひとり両肩を抱いて喪失と虚脱を苦く噛み潰す桃次郎の横顔は40年以上経ったいまも私と共にあって)... 。

 

 

 

 

 

 

大きな裁ち鋏が紙を切っていく音は広大なものを進むひとつの走破のようで刃渡りを一杯に広げて紙を挟みながら先へ先へと閉じられてまた刃を広げる繰り返しは私自身の興奮した息遣いそのものです。新聞の地方面の真ん中に5cmx4cm程の枠が横並びに催し物を告知していくそのなかに『廃市』(1984年)の上映会を見つけたおののきにいまそれを切り抜こうとしているのです。時間、場所、連絡先が小さな文字で詰め込まれた簡素な情報で(多彩で多様な検索のあれこれが服よりも身近に指先の操るまま現れるいまにして思えば手に乗る地図もなく、知らない地名と建物の名前を唱えながらそこまでをどのように突き止めたものか、因みに連絡先の電話番号は誤植だったらしく場所を確かめようと連絡すると明らかに普通のお宅の受け答えで朝から(まあそう多くはないでしょうがそれでも初めての間違い電話ではなかった模様で)戸惑うこちらの空白に容赦なく向こうから電話を叩き切られ、さてもさてもどうしたものか)それでもその日、その時間にその場所に辿り着くもので立ち並ぶ公的な資料館の、開かれたその一画に足を踏み入れます。美術館のような分厚い床を踏みしめて開いたその部屋の扉に立つと部屋というか威容からしても何か訓示に整列でもして式を行うような広さでこじんまりと寄せ並べたパイプ椅子の後ろに映写機が据えられて如何にも私的な上映会という息遣いです。のちに林海象などに援用される出演者、スタッフともども契約金を支払わない代わりに作品に対して各人が権利を持ち上映のたびにその売上が比率に合わせて分配される方式でそうやって始まった各地の上映会のこれもそのひとつだったわけです。映画以外の記憶はもう断片的でしかないんですが見終わって建物を出た余勢で歩き続けながら植え込みの蘇鉄を見上げてどんよりとした昼下がりに呆然としたものです。

 

 

 

ただこんなにも突き動かされるように大林宣彦の映画に寄り添っていたのは90年代の初めまでで、旺盛(で交友も多士済済)な8mm自主映画やコマーシャルフィルムでも名前を轟かせた最初期を除くとここまでで映画人生の半分に過ぎずついつい大林の名前に尾道で撮られた一連の作品を思い浮かべると後半生はあまりに長いわけです。その代表作にまとわりついた映画作家としてのイメージを自ら壊していくのが後半の始まりであってそれまで映画の始まりに高らかな(そして秘めたる)志のように掲げられていた<A MOVIE>という宣言が用いられなくなり、故郷である以上にいまや自らの映画の故郷となっていた尾道から距離を取ることになって、題材も(端的にそれまでのジャリ映画の足の掛かり具合を解いて)商業映画のもっとのっそりした構えになります。ただ私が大林の映画とだんだんと擦れ違っていったのはそういう作風の転換ということではなくて、端的にこちらが少年でも少女でもなくなったということでして、監督はいまだ映画の青春の真っ只中を軽やかに翔び駆けていくのにそこで待ち受けている思春期のうずうずとした期待を私の年齢が知らぬ間に通り過ぎてしまったということです、ずっと自分の前に広がっていると思っていたものがとっくに自分の後ろを遠く置き去っていてしかもそれはもう取り返しようのないものであると。その意味でまったく同じ時期を(始まりも大林の『さびしんぼう』と私の心のなかを揉み合うようにそのしたたかな相貌でこれまた別の青春の光となる『台風クラブ』(1985年)を皮切りにまさに時代の刻印を封蝋のように受け止めた『東京上空いらっしゃませ』(1990年)へと)駆け巡る相米慎二がいま以て私の心の真ん中にあるのとは裏腹です。ただそれはふたりの映画作家の資質云々ということではなく大林の映画があのとき、あの頃という自分のその一回だけの時間に包み込まれていてそれを開くというのは自分の年齢だけ遠ざかったその時間の切なさでもあって... やはり大林の死を前に思うのはひとは自分の思春期とどう訣別するのかということだと思います。

 

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