ジョン・キャロル・リンチ監督『ラッキー』(アメリカ 2017年)で主人公は若かりし日の自分の判断を悔やむ齢九十のいまです。彼の傍らには大型のテレビがいまもその後悔をまざまざと映し出していてめくるめく煌めきを夢幻に瞬かせながら愛らしい笑顔で語りかけてきます。演奏家ながら指には何か愛の重い拘束のように付けられるだけの指輪がひしめき宝石をあしらったスパンコールの燕尾服に彩られて宮廷から持ち出したような燭台がピアノの上でこの夜の華麗さを灯しています。始まった演奏はクラシックからポップス、ミュージカル、ブギウギ、ジャズを駆け巡りあるときは荘厳に歌い上げあるときは観客の微笑みの間を渡っていって(まあテオドール・アドルノが卒倒しそうな)ヨーロッパ的な音楽の素養とアメリカ文化が心地いいそよ風となって(ときには会場一丸の掛け声が音楽を突き上げながら見事に)混じり合っています。ラッキーは言います、演奏を聴くなり彼を天才だと思いながらなぜ自分は彼がゲイであることに拘ってその才能を受け入れなかったのか、性的な嗜好なんてそのひとだけのものなのに... テレビの向こうの演奏家が異性を愛そうが同性を恋人にしようが彼の才能を愛することからしたらどうでもいいことです。会場を埋め尽くす紳士淑女のさんざめく笑顔を見てもそのひとリベラーチェが生み出す芸術と娯楽の二輪の花がどれだけひとびとの心に生きる喜びを煌めかせているかわかります。彼自身は残念なことに30年も前に亡くなりますが彼の演奏も彼の笑顔も彼の築き上げた美意識と寛ぎのショーもひとびとをいまも魅了してこの時間を越えた喜びの輝きにいまや死を(というか死を逃れ難く感じるその反射に自分が生きていることを)強く意識せずにはいられないラッキーをあの悔悛に誘うわけです。因みにそのリベラーチェの友人のひとりがエルビスでして若いときの、弾けるような肉体と甘く不敵な笑顔でアメリカ全土を照らすようだった彼が人気と(何より)体型を崩していった後年に衣装を派手にするのもリベラーチェの影響だとか。耳が隠れるほどの立衿に金鎖の縁飾り、散りばめられた赤青金の宝飾が体を揺するたびに流星のように瞬いて首からは白いストールが瀑布となって垂らされて...  例え動けば暴れるような豊かな胴廻りにひと足ごとにベルトをずり上げていてもスーパースターの風格を衣装が見事に受け止めていますよ。その通り今回は映画のなかに多芸で生きたひとたちを見るというお話です。

 

リベラーチェ Liberace

 

 

 

ヴァイオリンを小脇に燕尾服で現れては聴衆を前にはにかむその殊勝さが何ともあやしいところです。案の定調弦に音を所望してAを叩くピアニストに微妙にずれた音程で応えては(鮮やかな満足ぶりで<That's close enough>と)澄ましておりますよ、そうです、ジャック・ベニーの音楽コントの始まりです。伴奏に伴われて弾き始めても実際のメロディからそっ返った音程を上に行ったり下に行ったりして聴衆ももぞもぞとほくそ笑まずにいられません。円熟の落ち着いた演奏家のふりをしてただの下手の横好きというのがベニーの笑いの線でして得意のひとつがメンデルスゾーン『ヴァイオリン協奏曲 第一番』の、悩ましく哀感をそそる旋律を鴉が絞め殺されるようなかぎ裂きの高音で弾くというものでヴァイオリンが引き付けを起こしたようにつんざくなかをひとり心地よさそうに演奏に酔いしれるベニーです。勿論普通に弾けば堅実な演奏家でして、ベティ・デイヴィスの肝煎りで戦中に兵隊向けの慰安施設として開かれていた<ハリウッド・キャンティーン>を舞台にまさにアメリカ版慰問袋といった趣きのデルマー・デイヴィス監督『ハリウッド玉手箱』(1944年)は映画界の老若男女がカメオ、一芸と引きも切らず、ベニーも見事な演奏を披露します。いつもの調弦の遣り取りで聴衆をくすぐると今宵は何とヨゼフ・シゲティと共演して丁々発止のヴァイオリン演奏を繰り広げます。祖国ハンガリーを思えば亡命先のアメリカで国策映画に協力するのもシゲティの志でしょうがそれにしても日頃いかめしいクラシック界にあって果敢にエンターテインメントに足を踏み入れるなど微笑ましい限りです。

 

 

 

戦後ではアイザック・スターンがジャック・ベニーを相手に幾度もコントで渡り合い一度などスターンご自慢のストラディバリウスをしげしげと眺めるベニーは楽器の胴に書き込まれた数字を見つけて、しめしめ中古楽器店で書き殴られた価格だと<1728 dollars!>と喜ぶのを即座に<years!>と訂正するスターンです。テレビの冠番組だった『ジャック・ベニー・プログラム』では日頃からヴァイオリンの練習の余念のないベニーが(言わずもがないつものかぎ裂きの引き付け演奏ながらご本人はそうとは思わず)自らの練習のさまを録音することを思い立ちます。しかるに録音された実際を聴くと(まあ私たちが耳にしてきたままの)そのひどいありさまに打ちひしがれるベニーです。見かねて執事のロチェスターが一計を案じて何と納戸にスターンを忍ばせるとベニーの練習に合わせて演奏してもらいそちらを録音してしまおうというのです。いやがるベニーをおだてすかして何とか練習させると更にいやがるその録音を聞かせるや前とは打って変わった見事な演奏が響き渡ります(そりゃそうです、アイザック・スターンの演奏なんですから)。これで少しは元気になるどころか以前に倍する自信に勇み立ってこれを(つまり演奏しているときにはひどい出来だが録音するとあら不思議、卓絶した仕上がりになっているという)名づけて<ジャック・ベニーの魔法のヴァイオリン>としてレコード会社に売り込むというのです。すっかり有頂天ですからすぐにもスタジオに押し掛けて訝しむプロデューサや録音技師たちを尻目に説明もそこそこ早速演奏を始めます。計器を振り切るような金切りの音色に皆々総毛立ち頭を抱えますとますます気をよくして、ところが録音されたものを聞けばまるでアイザック・スターンのような名演に早変わりとほくほくで視聴を促すと巨大なスピーカーから流れ出すのは喰いつかんばかりの刺々しいヴァイオリンの絶叫... 魔法はどこへやら、呆れるのを通り越して怒りに奮えるスタジオの面々に蹴り出されて初めてロチェスターの企みに気づくという次第です。それにしてもアイザック・スターンの何ときさくなこと。


アイザック・スターン Isaac Stern ジャック・ベニー Jack Benny

 


さてジャック・ベニーの映画と言えばエルンスト・ルビッチ監督『生きるべきか死ぬべきか』(1942年)ということになりましょうか。妻の美貌と(若い男の心を甘くなぞるような)浮気心はとても夫の手には収まらず小さな劇団でハムレットを演じながらも気もそぞろなジャック・ベニーです。ナチスの手に落ちた故国ポーランドではわずかに地下に命脈を保った抵抗組織が一縷の望み、しかしそれも二重スパイによって組織の全容がナチスに手渡される一刻を争う危機に(まあ背に腹は変えられず)このハムレット役者を替え玉にして二重スパイをおびき寄せる賭けに出ます。蹴り出した小さな石が生み出す波紋はやがてゲシュタポ全体に延いては総統の面前にまで拡がっていってもはや引き返すことのできない命がけの芝居を続けていくしかありません。ゲシュタポで鬼と恐れられる大佐がシグ・ルーマンでおわかりの通りとんだお調子者ですがそうだけに裏返すと薄いカミソリ刃のような冷酷が透けて見えてベニーの綱渡りも彼に追い詰められていきます。チャップリンの『独裁者』(1940年)が喜劇の向こうに高らかな人類知を駆け上っていったとするなら本作は喜劇を喜劇のまま突っ切って暴力に飽くまでユーモアで対峙してみせるルビッチの気骨が漲っています。同じ時期ナチスと或いは直接にヒトラーと対決する諜報員の活躍を描いた国策映画はいくつも作られますがそういう銃弾と暴力には暴力という時局の血が騒ぐ仕立てに比べて本作の評判は惨憺たるものだったらしく(ポール・ヴィリリオ『戦争と映画』平凡社 1999.7.15)ベニー自身これを自分の代表作と見做していたかどうか、ともあれ不寛容に対する寛容であることの戦い方を示して21世紀のこの手に残されたわけです。

 

 

 

 

こちらをポチっとよろしくお願いいたします♪

  

 

 

 

ジョン・キャロル・リンチ ラッキー リベラーチェ

 

 

関連記事

右矢印 映画(20と)ひとつ、ジョン・キャロル・リンチ監督『ラッキー』

右矢印 映画ひとつ、ビリー・ワイルダー監督『異国の出来事』

右矢印 映画ひとつ、ハワード・ホークス監督『コンドル』

 

 

エルヴィス・プレスリー Elvis Presley リベラーチェ Liberace

 

 

1年前の記事

右矢印 映画(20と)ひとつ、フェルナンド・レオン・デ・アラノア監督『ロープ/戦場の生命線』

 

 

 

 

前記事 >>>

「 映画(20と)ひとつ、矢崎仁司監督『ストロベリーショートケイクス』 」

 

 


■ フォローよろしくお願いします ■

『 こけさんの、なま煮えなま焼けなま齧り 』 五十女こけ