製作 : 日本
作年 : 2009年
出演 : 松田翔太 / 高良健吾 / 安藤サクラ / 新井浩文 / 柄本 佑
もう15年にもなりましょうか、上野の博物館の前を通るたびにしたたかに黒々と『ゲルマニウムの夜』(大森立嗣監督 2005年)の立て看板が掲げられて(何か親が子供に言って聞かせるときに出てくる<曲馬団>とか<人さらい>の、身震いする怖さと楽しさがとぐろを巻いているようで)特設の小屋掛けにしても単館でかの作一作を半年に渡って掛け続けようというんですから(ややあって月日に寂れていく感じにも映画の佇まいが漂って)何とも気を吐く荒戸源次郎です。『ゲルマニウムの夜』そして本作を見て<立嗣の親へのトラウマは相当に深い>と荒戸から電話があったと麿赤兒は明かします、同時に<だから才能がある>と射抜くところはさすが荒戸で(麿赤兒『完本麿赤兒自伝 憂き世戯れて候ふ』中央公論新社 2017.8)、麿にすれば自分の小さい子供が目の前にあることに照れとも自責ともつかないものに揺さぶられてともかく家を明けがち。いや明けがちどころか息子ふたりが切れ切れに掻き集める父との思い出を聞いても生き別れでもした親との、何とか握りしめた記憶のあれこれのようで麿でなくともよくぞぐれずにいてくれたと思わせられます。弟ということもあって大森南朋の方がまだ屈託のない口ぶりですが兄の方は何かひりひりとした心の漣みが(遠退いたとは言え)その頃の自分を呼び起こしているようで時折言い淀みます。荒戸が本作にトラウマを見たのは主人公たちが親のない施設の青年たちであることで施設と解体業者に就職の取り決めがあるのか彼らはいまも掘削機でがらんどうのビルの壁に穴を開けようともがいています。しかしその会社を仕切っているのはやんちゃを通り越してやくざの泥水に踝ぐらいまでちゃぽちゃぽ浸かっている新井浩文で何かれと彼ら施設の出身者をいたぶります。ただ主人公たちには自分たちのこの押し潰された道をただひとり切り開こうとした兄がいていまは(その苦闘の無残な横殴りに)刑務所に服役しています。私などからしたら親のいない主人公たちよりも同じく親のいないままこの弟たちから境遇の過大な期待をひとりの英雄的な大きさで仰ぎ見られてそのまったく大きさの合わない自分自身から逃れようともがくこの兄の方に寧ろ大森立嗣の少年の孤独を見る思いがします。ともあれ決して耳障りのいい結末がこの映画に待っているわけではありません。しかし暴力にただ擦り切れてしまうのではなくその先に<生きること>と<生まれ出づること>が(死をひとつの経由に)馬蹄形に弛まれていって親のいない子供たちに母胎の温かみが広がっていきます。とは申せあの一発の銃弾には承服のし難さが残ります。同時にあれはどうしても必要であるという大森の硬く握りしめた感情も伝わってきて... それは大森がこの青年たちが生きる地平に一緒に降り立っているからでそこから放たれた銃弾であればこそ承服し難くとも誰にも避けようがなく未来を撃ち抜きます。
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