「 映画と映らないもの:映画と原作の間:探偵小説 」 の続きです。

 

ジョージ・キューカー監督『ボーン・イエスタデイ』(アメリカ 1950年)は当時人気を博したブロードウェイの戯曲からの移植で元々舞台の演出家だったキューカーからすればまあお手の物というところです(ギャビン・ランバート『ジョージ・キューカー、映画を語る』国書刊行会 2016.6)。ただ移すに当たっては映画ならではの面倒がありまして、そうです、幾分赤鰯になったとは言えまだまだヘイズ・コードが厳めしい目を光らせております。表現出版の自由を認めた修正第一条の保護下にある演劇と違いましてそこは巷に吹き晒される映画であれば、<スケ>なんて(登場人物の生い立ちとその後の境遇を表現するためであっても)ご法度ですし況してやヒロインとは同棲中なんて敬虔なご婦人方の目をまん丸くさせるようなことも慎まねばなりません(、ですからふたりでホテルに泊まりながら寝室は別々... )。12歳から働きに出るとすぐに割のいい屑鉄拾いに職を変えて一度売った屑を夜中に盗んで翌朝もう一度売るなんて思いつく少年です。貧乏を歯でしごくような生きる荒れ野をまさに実力で踏み越えていまでは名だたる事業者です。ただ12歳から明け暮れて人品ということでは人類に脱皮し掛かったところで止まっていていまもロビー活動で招いた議員夫妻の身嗜みを揉み潰さんばかりのもてなしようです。その彼から見ても自分の彼女の無作法ぶりは目に余るものでしていまさら淑女とはいかないにしても何とかそれなりにならないものかと頭を痛めています。長くどっちつかずの関係を続けながら彼は彼なりに彼女を愛してはいるんです、ただ如何せん鉄屑を拾うかちょろまかすかしか知らない人生の愛し方なのです。その彼女の教育係として雇われるのがワシントンで作家をしている主人公というわけです。

 

 

 

 

同じ物語を描きながら映画と異なる表現の間に横たわるものを手探りしていく今回のお話で『ボーン・イエスタデイ』に現れるのが唐突な主人公のキッスです。物語は田舎のコーラスガール出身のまま日々をというよりも自分が持っているものを無為にしてきたヒロインが主人公に導かれて自分を取り囲む有形無形ひとつひとつに理由があり歴史があってそのあるべく姿があることを知っていきます。ふたりはやがて恋に落ちるわけですが東部のスマートさを身につけている主人公からしてヒロインが男性との距離に無遠慮に身を寄せてくるのにたじろぎますが、そんな浮足立った気分があるとは言え会って二度目にしかも依頼主の妻同然の女性に思わず口づけをしかもかなり濃厚な口づけをするほどにふたりの間柄は何ら通い合っていないのです。のちに教養に目を見開かされながら首都の歴史的遺産をふたりして訪ねて歩くそんなしっとりとしたときの方がはるかにキッスの収まりはよさそうです。勿論ふたりが異性として物語の流れを捻るその交点がこのキッスであって以降ヒロインの闊達な(そして知的な)反逆が始まるのですがやはり映画においては唐突です。ヒロインを演ずるのはジュディ・ホリデイでマトリョーシカに詰められた何番目かの人形といった感じのやや茫洋とした美人です。ブロードウェイでもこの役は彼女が演じていますが映画化に際してはリタ・ヘイワースが演ずる予定だったのを彼女の降板で引き続いた形です。ただこのキッスはリタ・ヘイワースの美貌を以てしても唐突で寧ろ考えさせられるのはこの唐突さは演劇的であるということです。ひとつの舞台を幕と場によって場所を設える演劇においては場所に入る、出るが大きな動であって出来事は場所に集約されます。唐突であるということは(物語以上に)場所を掻き立てます。それに対して映画は場所を移動しカットで割って物語を小さく断絶させながら語っていきますから(場所よりも)それを再構成し続ける脈に集約されて唐突さは(脈に収まらずに)どこまでも唐突であるということなのだと思います。
 

ジョージ・キューカー ボーン・イエスタディ ウィリアム・ホールデン ジュディ・ホリデイ

 


さてもうひとつ、唐突さということでははるかに収まり難いものを片渕須直監督『この世界の片隅で』(日本 2016年)は抱えているように思います。ヒロインのひと柄をなぞるような素朴な筆致のアニメーションに峰を越えて現れる敵戦闘機の機銃が(絵としての動きではなく重い鉛が破壊的な速度で打ち出され)現代的な軌跡を描いて(それが飛行機の速度で町の広さをひと呑みしながら)つぎつぎ着弾していくさまには逃げようのない戦争の破壊力が迫ってきます。元は夢のように照り輝く波打ち際の小さな漁村でその夢を見続けるように育った少女ですが乞われて嫁いだのが地方の軍港町、海へと開ける高台が新しい人生の場所です。温順な夫と同じひと柄の舅姑、出戻りの小姑がやや険のあるひと柄ですが戦争へとひとが肩身を寄せ合うなかのあれやこれやです。しかしもはや引き戻しようのない戦局は連日の本土空襲となってやがてヒロインを襲う巨大な喪失となります。そこからのヒロインの感情の振幅は銃後に生きそして夥しい死に晒されたひとの、戦争への複雑な心情を吐露して物語の豊かさを感じさせるところです。駆け足に原爆の地へも足を踏み入れながらそんな人類の惨禍のなかで失われたヒロインの腕が新たな生命に繋がる結末は(戦争があろうがそれに負けようが占領されようがどうしようが)歩みを止めないひとびとの希望となって灯ります。ただ...  この映画にあってどうにも収まりがつかないものが私に残ります。いよいよ戦況が逼迫するなかいまや海軍の軍人となった同郷の男がヒロインを婚家に訪ねてきます。(入港した軍艦の乗組員に宿泊先を民家が受け入れるにしても)既にひとの妻である女性へあまりに馴れ馴れしい接し方は(どの時代に照らしてもやはり)常識を越えています。挙句に納屋に泊めるその男の許に妻をやって母屋の鍵を締める夫というのは(いくら同郷の好みに話の花を咲かせると言っても)一夜をそこで過ごせということであってどう見ても男に自分の妻を一夜妻として差し出しているわけです。この場面はのほほんとしながらも(実は人生の変転に内心では追いつけていない)ヒロインの奥深い脱出願望を吐き出させようというのですが男の布団に一緒に入り男の方はすっかりその気でさっそくヒロインへの愛撫を始めて(母屋には夫の他に彼の母も姉もありながらこの事態を何と受け入れたものか)どうにも奇異に映ります。ただここにこのことを引いたのは(原作は漫画ということですから)この無理は案外漫画であればすっと滑り込むのかしらと思ったからで漫画のコマというのは映画のカットよりもはるかに切断されひとコマひとコマは対話的でありながら独立していてたっぷりとした余白に浮かんで(語りが線的で不可逆的な映画と違って)コマを戻ることも容易です。見開き全体を一気に見渡せる開放さもあって映画の画面よりも引き込む力の自由さを持っているように見えます。ちょうどコマの形を矩形から菱形、枠なしなど自由に変形させるように常識の無理を違う形に引き入れられるのかも知れません。まあ何にせよ漫画に不案内な私の思うところではあります。

 

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