「 貴女を(男たちは)忘れない、メーベル・ノーマンド:銃弾。 」 の続きです。

 

パラマウントの(正確にはまだパラマウントに経営統合されていない映画製作会社フェイマスプレイヤーズラスキーでしょうか、その)トップ監督とは言え100年前の話です、ウィリアム・デズモンド・テイラーにしたところで忘れられた映画人には違いありません。その彼の名前がいまも呼び起こされるのは彼の殺害事件のためですしそれが未解決であることがいまも当時もひとびとの興味を掻き立てるわけです。しかも捜査の進展で事件直前に出入りしたふたりの人物がどちらもスター女優であれば尚更です。翌朝死体で発見された彼はこの時50歳、ふたりの女優というのはメアリー・マイルズ・ミンターとメーベル・ノーマンドでして、少なくともノーマンドとは友人という関係です。読書家であったテイラーの蔵書を借りに来たのが事件の直前でそれを目撃されたわけです。テイラーを撃ったのは誰なのか100年の時を越えて解明するなんて私にできるはずもなく(William J. Mann "Tinseltown" Harper 2014.10.14)、私の興味はもっと別のところにあります。ハリウッドというのはニ匹の猛犬に追い廻されてそれから懸命に逃げようともがく歴史のように(まあ1950年代までは)思います、一匹は検閲、一匹は独禁法。この二匹は常にハリウッドを追っていますが何度か激しく交差するときがあってそれが例えば1930年代半ばでありそしてテイラーの事件があった1920年代初頭です。

 

 

 

映画は興行ですからその基体はやはり見世物だと思います(柳下毅一郎『興行師たちの映画史』青土社 2003.12)。勿論その桁外れの興行力と(まずはサイレントが作り上げた)国際性があり... だって当時はまだ階級、人種、民族で固まっていた映画館でイタリアから輸入したローマ史劇がいまひとつアメリカでの居場所を探しかねていたニューヨークのイタリア移民たちを活気づかせ遠くイタリアで映画製作を家族で行っているような小さな会社に依頼し自分たちの(複雑なというか取り敢えずの)アイデンティティを満たす映画を作らせて見事ヒットさせると今度は南米に売っていたというんですから恐れいります、それもこれも映画会社が映画館を囲い込むブロックブッキングと製作資金が跳ね上がるトーキー以前の話ですが、レーニンが言うように映画は最高のプロパガンダの武器でしょうし或いは第七芸術でもありましょう。しかしそれもこれも安定して集客ができてこそでどうしても人間の高尚ではないところを刺激することになります。と言ったってちょっと前までは踝が見えるのだってご法度だった社会です、映画に女優たちの足首が映ったと心ときめかせ(まあそれが脹脛となりホットパンツから野放図に投げ出される腿となり果てはぴっちぴっちのセーターの下の見事な隆起となっていって)...  そういうことに我慢がならないひとたちが出てくるわけです。そうジョン・フォードの映画に出てくる、酒場で男たちを慰める歌姫や宿の二階窓を飛び交う天使たちを町から追い出そうとひっつめ髪にひっつめ襟、踝どころかスカートの裾を引きずって歩く信仰篤きご婦人たち。1910年代から彼女たちの標的がヴォードヴィルやレヴューから映画へと移ってきて教区、州議会、警察、マスコミを巻き込みつつ映画の弾劾を繰り広げハリウッドの道徳的頽廃を(声の限りに)糾弾し始めます。

 

 

 

さてここにひとつ数字があります、1910年代末には全米の映画館の収益は80億ドルに達します。目端の利いている者が映画館のチェーン化を図ろうと買収に血道を上げるはずです。逆に言えばそういう経営者にとって1割2割であれ観客が減ることの打撃も大きくなります。例えば1920年、猛暑が襲ったこの年の夏、買ったはいいがエアコンもない映画館からは客が離れ映画館の改善が経営を左右することになります。それがやがて20年代の狂乱的な景気に乗って(まるでヨーロッパの上流階級がオペラでも見に行くような)荘厳な装飾に舶来の巨大シャンデリア、アメニティ施設も完備しきらびやかな鏡を張り巡らせた化粧室は映画のなかが現出したかのように観客を魅惑するムービーパレスへとなっていくわけですが.... しかし映画館それ自体はどこまでも行っても箱にしか過ぎません。そこに映画があったればこそひとびとが吸い寄せられてくるわけで(すが経営者は毎週配給会社から映画を買っていて)そこに手を伸ばせば利益を更に囲い込めると目をつけるひとが出てきます。アドルフ・ズーカーはこのときニューヨークの映画館を片っ端から系列に組み入れているやり手の経営者ですが映画館がまだ1巻物、2巻物を上映しては歌ありヴォードヴィルありでわいわいがやがやをやっているときにヨーロッパから1時間を越える長編の映画を買い付けて仲間たちに失笑されます。しかるにこの映画に観客は押し寄せます。ズーカーが見越しているのはふたつです、観客の嗜好がもはやドタバタの1巻物から長時間の物語映画に没入するほどに成熟していること、もうひとつが映画館経営を遡って製作、配給を手中にして巨大で統合された新しい映画産業を作り上げること... おわかりの通りこのときから司法省が放つ独禁法違反という猟犬にハリウッドは追われる運命となり同時に製作に乗り出したズーカーにとって各地で上映妨害を引き起こしては検閲を叫ぶもう一匹の猟犬にもまったく気が抜けないことになります。

検閲の動きに対抗するために映画会社がまず頼ったのが憲法です。憲法修正第一条は文学や芸術の表現の自由を保護しており一旦はその効力によって検閲取り止めに漕ぎ着けるのですが、安心するのにはまだまだ早く、1915年には最高裁が映画は修正第一条の保護下にないと判決を覆して検閲を支持します(Mark A. Vieira "Forbidden Hollywood" Running Press Adult 2019.4.)。さあ尻に火がつきます。ハリウッドが検閲を嫌うのは映画の最終的な統制が自分たちの手から離れるからで、道徳の、ケルビムだかセラフィムだかに守られている(と少なくとも自分たちでは思っている)宗教的熱意によって切り刻まれてしまうと観客の下世話な興味はすっかり萎えてしまうのは目に見えています。それに州が検閲委員会を設置し上映禁止などの措置を自分たちの頭越しに実行し得るようになれば映画の動員数(の落ち込み)は彼ら次第ということになってしまいます。まさに死活問題です。ただジョージ・キューカーも言っていますが映画会社の大君たちズーカーにしてもハリー・コーンにしてもメイヤーにしても実際には女性が肌を露出するようなことを心から嫌っていて(ギャビン・ランバート『ジョージ・キューカー、映画を語る』国書刊行会 2016.6)価値観としてはまったく以て保守的、検閲側とそう食い違うわけではないのです。しかるに利益が絡むとそうは行きません、観客を喜ばせながら検閲運動の吊り上がった目から何とか逃れること、難しい舵取りを強いられます。とにかくスキャンダルだけは絶対に避けるというのが映画会社のひたすら念ずるところです。何せD.W.グリフィスが主演をリチャード・バーセルメスにしたことを逆恨みしてよりにもよって『東への道』のプレミアム上映の日にロバート・ハーロンがピストル自殺したのを何とか銃の暴発による事故死ということで落着させたばかりです。ところがハーロンが引いた引き金は拳銃のみではなく同じ年オリーブ・トーマスが麻薬と飲酒によりパリで変死、翌1921年ロスコー・アーバックスが乱痴気騒ぎの果てに連れ込んだ女性を変死させて殺人罪で逮捕、22年テイラーの殺害事件と女優ふたりの名前が表立ってしまい、23年には象徴的なアメリカの好青年役で人気だったウォレス・リードが麻薬禍で頓死... もはや止めようのないスキャンダルの連発銃です。ここにハリウッドは重大な決心をせざるを得なくなるのですがヘイズ・コードとその後のことはまたに譲ると致しまして、これらスキャンダルからこぼれ落ちる白い粉... そうこの悪い習慣にメーベル・ノーマンドもどっぷりと嵌っているのです。

 

 

 

 

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メーベル・ノーマンド

 

 

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