野村芳太郎 八つ墓村 山崎努

 

湖からにょっきり出ている肉づきのいい二の足だとか桜の宵闇に取り憑かれた力走で裾を絡げた(こちらも日本男児のふくふくとした)太腿も顕に白塗りの般若顔で猟銃だの日本刀だのを振りかざす狂乱だとか子供の頃に震え上がった映像はいまも心の水面を突き出して駆けずり廻っておりますよ。斯界の風雲児が出版業に飽き足らず映画製作にも乗り出してまさに降って湧いた横溝正史ブーム、『犬神家の一族』(市川崑監督 角川春樹事務所 1976年)を皮切りに映画各社が(これ幸いと)相乗りしながら結局1981年の『悪霊島』(篠田正浩監督 角川春樹事務所)まで打ち続くわけです(その頃の彼の句が<かなかなや蠟涙父の貌に似る>で才能と(まあそれ以上の)いななきの凄まじいこと)。しかし思えば70年代も遠くになりにけりで同じだけ(とはとても思えないほど)自分の子供だった時間も遠くになって(いまにすれば自分でもそんな時間があったことが嘘のようですし同時に襖を開ければ死んでしまったあのひとこのひとが昔の家のままに自分を見返していてそんなあの日のおこたに入っていく... ふとそんな気もして)歳を取るというのは何ともファンタジーです。改めて勘定してみますと『悪魔の手毬唄』(市川崑監督 東宝 1977年)のときでヒロインの岸恵子は四十代半ば(振り返りたくはないのですが見れば若山富三郎が五十前の艷やかな満面の笑みで見つめてきますよ)、まさか自分が彼らより年長者になろうとは。さてさてそんなこんなで70年代の金田一耕助映画をひと渡り見返そうとしたことが今回のお話の始まりです。

 

犬神家の一族(1976) 犬神家の一族(1976)
216円
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悪霊島 悪霊島
 
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市川崑 女王蜂 岸恵子  市川崑 悪魔の手毬唄 若山富三郎

 

 

いっかな風雲児とは言え異業種出身の個人プロから興した『犬神家の一族』は山場となるお屋敷の大広間からして精一杯の美術で況んや旅館の壁ひとつ殺人現場のテラスひとつとっても予算の厳しさを感じさせます。それが『悪魔の手毬唄』ではブーム真っ只中の予算の手応えもずっしりといがみ合う素封家それぞれの家格の出し方にしても旅館の部屋も風呂も中村伸郎が棲む掘っ立て小屋の年の刻み方にも格段の深みが加わってまさに映画に相応しい出来栄えです。(そういうなかを如何にも謎が秘められていますと言わんばかりの手毬唄が次々と連続殺人をなぞっていって限られた登場人物の上に出すには出すなりの俳優の格からしても中盤には犯人はわかります。市川崑の演出もあるときを境に謎が開くのを開くままにしてあとは犯行に滑り込んでいくひとの憎悪と情愛の劇へと俳優の芝居に譲る演出になっていて役それぞれの哀切さに胸を打たれます... )ただ『悪霊島』まで見ていって監督も市川崑だけでなく野村芳太郎から篠田正浩、斎藤光正に至ってはテレビの演出家ですし金田一も石坂浩二は勿論のこと渥美清、西田敏行、鹿賀丈史とまさに丸いのから細いのまで多士済済ではあるんですが、毎度毎度のおどろおどろしい仕掛けもだんだんに張りぼてに見えてきます。この辺り市川崑が横溝の物語世界に持ち込んだ様式美と映像の実験が諸刃の刃になっていて伝奇的なものを掻き立てると同時に探偵小説の書割的な人物たちに人間の愛らしい輪郭を際立たせます。屏風絵のように物語世界を屹立させながら絵のなかの人物を抜け出させて人間の躍動として捉える、この作り物めいた(何か能を思わせる)幽玄さが市川崑の魅力ですが掻き立てそして際立たせたそのなかは如何ともし難い探偵小説の動機の単純さです。(その意味では探偵小説の稗史的な息苦しさを砂地をなぞるように描いてみせたのが『八つ墓村』(松竹 1977年)の野村芳太郎で勿論既に物している『砂の器』(松竹・橋本プロ 1974年)の手法をそのまま引いて映画の中盤から長い語りの謎解きが始まりしかもその間に芥川也寸志の壮大な交響曲が思う存分奏でられその沸き立つ旋律を駆け巡るように事件の結末が同時進行に描かれるのですが、私としては寧ろ『伴淳・森繁の糞尿譚』(松竹 1957年)で見せた部落を閉じ込める見えない外縁を描きながらそこに群像劇を落とし込む野村の語りが発揮されたと見るところです。市川のモダンな手際ではなく野村のこの(乾いた)泥臭さ(と松竹喜劇映画の、書割的人物描写)が案外探偵小説の世界を等分に捉えたのかも知れません。まあ何にせよ張り切って北海道ロケまで行って舞台となる瀬戸内の小島に広大なリアス式海岸を現出させた『悪霊島』の篠田正浩には瞑目するばかりですが... )

 

八つ墓村 八つ墓村
400円
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市川崑 悪魔の手毬唄 石坂浩二 山岡久乃

 

野村芳太郎 八つ墓村 萩原健一 小川真由美 市原悦子

 

 

遺産相続に昔日の怨念、そういう判で押した動機にあまりに律儀で労力を厭わない大仕掛けの連続殺人がだんだんとちぐはぐに思えてきて続けて見るうちにこちらの興味が遊離していきます。それをその映画の瑕疵とか探偵小説の<幼稚さ>に帰そうというのが今回のお話ではありません。横溝の原作を読んでいる分には動機の単純さというのはあまり気にはならないものです。寧ろこのことは映画にされたことで逆照射に浮かび上がったのであって言わば横たわるのは映画と原作の間にあって形式が異なる物語を映画にすることで見えてくるその見えざる何かです。端的に申して小説の人物を形作っているのは言葉の重量です。勿論私たちの脳裏では映像化されますがそれはどこまでも言葉をなぞります。それに比べて映画とはあからさまに映像であり実在をなぞるものですから人物は否が応でもその生身の重さに引き寄せられます。人間の等身大に比率して物語が奥行きを形作るためある程度の現実性が前提になっていて... (だからこそ映画で神話的な神々の世界を描くと洋の東西を問わず何とも面映い気分になってヤマトタケルの三船敏郎を見ることになるわけで)動機の単純さが役者の血肉の(彼が動けば動くほど私たちに募ってくるその)感触にだんだんと釣り合わなくなっていくのだと思います。そんな探偵小説を口火に演劇そして漫画を見ていこうというのが今回のお話です。

 

篠田正浩 悪霊島 岸本加世子 岩下志麻

 

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野村芳太郎 悪霊島

 

 

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