以前蓮實重彦に山田宏一だったか山根貞男だったかともかく映画評論の精鋭たちがふたりがかり三人がかりで攻略して年来の質問をここぞとばかり繰り出しながらそのどれものらりくらりと躱され追撃しても追撃しても結局ぐるぐると煙に巻かれて見事に散兵線の花と散ったわけですから、鈴木清順ののらくらは筋金入りです。聞いてみたいことが募る監督であるというのはそうでしょう、作品に灰汁のように浮かんでくるユーモア、『悪魔の街』(日活 1956年)では電話ボックスで殺される男が顔をガラスに押しつけられ笑い顔に見えるほど押しつぶされて笑い死にに死んでいくのにしても(同じことが『野獣の青春』(日活 1963年)の宍戸錠への拷問でも繰り返され)、『刺青一代』(日活 1965年)ではモンタージュ理論を手玉に取って路地を逃げる主人公と追う刑事に驀進する2台の機関車のカットが挿入されながら(追跡を表す通常のモンタージュの、機関車は同じ方向に行きつ追いつするのではなく)2台は正面衝突するように向い合って走らされるのにしても、車に乗り込む--走り出す--車が走り去るという流れのうち走り出すカットを抜くことで乗ると走り去っているという繋がらない密着が何か夢の光景のようにも過去が逆流するようにもあったこととあり得たかもしれないことの間で現実が一枚の紙切れのようにひらひらと揺れているようにも見えてまあ何か聞いてみたいところです。しかし晩年になってのインタヴューでも鈴木の重要な主題だと(好き者たちによって)囁かれる桜花について会社の撮影スケジュールは客の掻き入れ時に売れっ子の作品を当てて組まれるから自分のようなB級映画はいつも三月四月に廻されていやでも写っちゃうなんてしれっと答えていますからね、ほんととんだ喰わせ者です。

 

 

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そんな鈴木清順のインタヴューを読んでいて船酔いしそうないつもののらりくらりが突然澄み渡り嘘のようにすうっと景色がそこに開けたのは山本富士子に言い及んだときです。鈴木は言います、顔だけ見てると申し分のない美貌だけれど手が滑稽なほど大きくてあれを映しちゃいけないと(そういう配慮を欠いた監督にかぬけぬけと撮らせた山本にか)口ぶりはいつもの照れ笑いながら断固とした感じがあります。意外なのは山本を<お富士さん>と呼んでいることで、勿論ああいう世界ですから映画会社も違い仕事をともにしたわけでもない女優でも<ベルさん>であり<デコちゃん>なのはそうでしょうが、それまでの煙に巻くような話しぶりのなかから突然<お富士さん>が飛び出してくるんですからね、何とも燦然と響きます。続けて好きな女優を聞かれてグリア・ガースンを挙げます。このあまりの素直さ、浮かんできたものをそのまま口にするこんな率直さが一体いままでこのひとのどこに仕舞われていたのか、ステッセリが守るような清順攻略に屍の山を累々としてきたわが映画諸兄にはご同情致すばかりですが。

 

 

 

それにしてもグリア・ガースンというのが何ともはやで鈴木清順というより鈴木清太郎の面差しを感じさせるところです。(晩年にはダニエル・ダリューの名前も挙げてアナトール・リトヴァク監督『うたかたの恋』(フランス 1936年)では恋にも政治にも時代から沸き立ってくるものに真直であろうとする皇太子とともに身分違いの恋を貫くダリューは百合のような陶然とした美貌を湛えて如何にもその時代の青年の心に咲いた可憐な花ですが。)イギリスからハリウッドに招かれたときには30代も半ばだったというガースンですぐに浮かぶのは戦時中の、戦禍の悲惨をものともせずに立ち上がって力強くもしとやかな決意で闘いぬくことを犠牲者の御霊に誓う『ミニヴァー夫人』(ウィリアム・ワイラー監督 アメリカ 1941年)ですが、ここはやや遡ってサム・ウッド監督『チップス先生さようなら』(アメリカ 1939年)を見てみましょう。堅物というか自分の朴念仁の殻を破れないでいる教師がロナルド・ドーナットです。それが同僚の無理な手引きで彼の故郷を踏破する旅行に出ます。何かのいたずらのように雪山で彼とふたりきりになるのが行きずりのガースンで朴念仁と少女のような溌剌とした美人が友人たちに見守れながら恋に落ちて... 何て悠長なことはしていません、早速結婚してガースンは華やかだが親しみのあるその美しさでひとびとを魅了していきます。それまで真面目なだけで生徒にも同僚にも溶け込めなかったドーナットの人柄を花開かせやがて時代の苦難が生徒たちを呑み込んでも彼らの傍らに立ち続ける強い信念をドーナットは生徒たちと結んでいきます。ハリウッド生粋の若い美女たちと(もピンナップから飛び出して戦地の兵士たちの胸の高鳴りを魅惑のヒップで乱打するこれまた時代の美女たちとも)違って年齢の落ち着きと知的な明るさがつややかに微笑んでいます。

 

 

 

このガースンを置いてひとつわかることがあります、『関東無宿』(日活 1963年)で小林旭のわすれじの思いを掻き乱す人妻、そして『刺青一代』で高橋英樹がそれこそ目に入れても痛くない庇い方で守っている弟の花ノ本寿がひと目見るなり心を、どころかもう携われないと投げ出していた芸術への欲求を引き立てられる人妻、あの伊藤弘子の落ち着いてしっとりと見つめてくる立ち姿がガースンに重なってくることで、さてさてのらくらのしっぽを掴んだのか踏んだのか。

 

 

 

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