犬塚稔は怒っておりますよ(犬塚稔『映画は陽炎の如く』草思社2002.1)。事の起こりは勝新太郎から新たな座頭市の脚本を依頼され脱稿したのに映画の話が立ち消えてしまい書いた脚本の原稿料が未払いのままだというのです。本の執筆時に100歳になんなんとする犬塚の、(そりゃあそうですよね、長谷川一夫が昭和2年に『稚児の剣法』でデビューしたその映画を監督したんですもんね、)まさに吠えに吠えた奮戦の記ですが、何かの折に直接勝にそのことを突きつける場面があって、そこでの勝新太郎は犬塚の(それこそ『稚児の剣法』ともいうべき)けんつくをへれへれと躱しつつするりと逃げてしまって(犬塚は怒り心頭ですが読んでいて)いつもの勝の魅力です。その昔『悪名 一番勝負』(大映1969年)だか『玄海遊侠伝 破れかぶれ』(大映 1970年)だか酒を飲んでは撮影に遅刻してきてあの(座頭市の、おむすびみたいな)顔を綻ばせて「お父ちゃんごめんよ」なんて謝られるとついつい許してしまうとマキノ雅弘が愚痴っていたあの勝の、人懐っこさです。いやいやそんなことでは犬塚は引き下がりませんよ、怒りは勝が亡くなっても収まりません。世の中がこぞって勝新太郎を役者馬鹿と礼賛するのを叱責して役者馬鹿など以てのほか当たり役の座頭市にしてからが最初こそ殊勝に髪を剃り上げていたけれどその後は不精に髪を残したままだとお冠なのです。
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例えば大映の録音技師だった林土太郎は大映倒産後テレビで現場を共にする勝新太郎が既に音入れも済ませた場面に納得できず撮り直しを提案してセットを組み直し役者を改めて呼んで(当然その余分な出費を勝プロで負って)まで妥協のない番組を作っていたと勝の姿勢に感服しています(林土太郎『映画録音技師ひとすじに生きて大映京都六十年』草思社 2007.3)。ほんと、そうです、テレビの『座頭市』でも江戸から遠い川端で土左衛門が引き上げられるたった一場面に200人からのエキストラを投入し群がる人だかりも然ることながらキャメラが引いても街道の賑わいが開けた風景のなかを行き来して映画のような華やかさです。アイディアも惜しみません。よく語られるドラマ『警視K』では代議士の選挙事務所に乱入する覆面の強盗に運動資金のありかを問いただされる(なんて穏やかなものではなく手持ちキャメラごともんどり打ちかち上げられる)秘書役の石橋蓮司は勝から小道具である現金の場所を聞かされておらず犯人に小突かれながら目を白黒させる姿が突然の出来事に狼狽しているさまにもそんななかでもこすっからしく犯人に白を切ろうとするようにも見える勝のアイディアだと言います。警視である勝に尋問される場面でも勝の質問は台本通りではなく意表をつく順番と追求らしくここでもへどもどしつつ次第に呼吸を掴んだ石橋に余裕が見えるようになると(尋問のリアリティ以上に)実は裏で事件の絵図面を引いている石橋の、小心と驕慢が滲み出ます。
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ただ何というか、こうしてひとつひとつ切り出してみると感心一入なんですが、面白いように放り込まれるアイディアは劇全体の語りの次元できちんと統括されているように見えません。いくら機知に富み才気走ってはいてもそれらが結びつけられその脈のなかで(意図を)整理されなければ語りをはみ出した物見高い羅列です。田中徳三は勝の才気を評価しながら俳優監督が得てして絵作りに偏重するのを諭して映画は飽くまで語り、時間の表現であると言います。(田中徳三『映画が幸福だった頃』日本デザインクリエーターズカンパニー 1994.06)同じことは森一生も指摘して(森一生『森一生映画旅』草思社 1989.11)要するに作品としてまとまりがないというのです。確かに先の『警視K』は言うに及ばず、勝新太郎監督『顔役』(勝プロ 1971年)にしても口あけから牧浦地志のキャメラは大胆に構図を断ち切って疾走し(如何にも監督デビュー作の力の入り具合で)引きも切らないアイディアを詰め込んでいきながら中盤になる頃には(まだまだ出番待ちのアイディアがつかえ渋滞して)語りは冗長になっていきます。これはモンテ・ヘルマンが言うように劇というのは要所要所を力の入った芝居で締めたらあとは適当に流すもの、ということでしょう(モンテ・ヘルマン『モンテ・ヘルマン語る』河出書房新社 2012.1)。しかしことは映画監督の素質に終わらず勝新太郎という生き様に及ぶと憂いの目を向けるのが大映福岡の宣伝担当だった中島賢です(『スタアのいた季節 わが青春の大映回顧録』講談社 2015.6)。大映末期にすでに勝プロを興していた勝新太郎が自ら映画の制作に乗り出します。資金繰りに四苦八苦していた永田雅一にとってはまさに渡りに舟ですが、天衣無縫な勝がどうなりこうなり言われた領分に踏み留まっていたのも永田という大立者に首根っこを抑えられていたからで、それがいまや思うまま勝新太郎という言わば糸の切れた凧を追いかけていかれる... 。
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それにしても稀代の役者です。日本映画の長い歴史を見回しても並び立つひとをすぐには思いつきません。役者を売る、芝居を売るというスターは数あれど勝新太郎を売っていたんですからね。(強いて挙げれば阪妻でしょうか。あながち牽強付会でもないように思うのはいまでこそ阪妻という名前も遠いものになってしまいましたが、ある時期まで日本映画のスターにあってひとり別格に置かれていたのが阪妻で勝がそれを意識しないはずはなく現に阪妻の主要な作品『無法松の一生』『王将』『狐の呉れた赤ん坊』はすべて勝にリメイクされていますしね。)勿論石原裕次郎にしても鶴田浩二にしても自分の看板を背負っているわけですが何というか裕次郎も鶴田もいや他の誰であれ映画やドラマという作品のなかで自分を輝かせる、逆に言えば彼らにはそういう作品という枠が要るということです。しかし私たちが勝新太郎に魅了されるというときの、その親しさはもっと別で(以前画家のバルテュスの私邸に勝新太郎が出向いて(夫人こそ日本人ですが日本のことはどうもさっぱりというバルテュス相手に)三味線を弾き舞踊、居合などを披露して堂々たるさまでしたが私たちが感じているのはまさにあの距離感で)勝のお座敷に招かれているような近しさと愉しまされ方です。そのことは勝自身が一番わかっていることで、勝の根本には自分を写し自分の所作、動き、即興を廻しておけばそれが即ち映画でありドラマであるという自信があるように思います。(それがあのあり余るアイディアとなり同時にまとまりのないその放擲にもなるのでしょうしね。80年代以降の、自らの内側にあるものとそれを時代の形に仕上げることがどんどん乖離していきながら自分をきちんと束ねるひとを持たなかったことはやはり勝の不幸というべきでしょう。天高かったはずの凧は真っ逆さまに落ちて砂に塗れたあの晩年にはただただ鼻を啜り上げるしかありませんが... )そう思うだけの魅力で画面の前に立ち客の前に立ち異邦のひとの前に立ってまさに馬鹿か冥利か、思い出すのは入江たか子の、あのセリフ、いい刀は鞘に入っているのだとか。しかし胸に残るのは鞘に収まらない男の、悲しいばかりの魅力とは。
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