さて70年代も随分と遠いことになってしまいましたが、しょっぱなから胡乱なことを申しますと、映画のなかに70年代の光を感じることがあります。勿論フィルムメーカー毎の発色剤や現像方式などを厳密に追った上でのことではありませんから、単にそう見えるというだけのことなんですが。例えばこってりとした赤の発色が気に入ってアグファのフィルムを使っていた小津安二郎のカラー映画には光よりも色を感じます。卓上から佐分利信に詰め寄ってくる山本富士子にしても、土手を歩きながら巧みにおならを出してみせる子供たちの風景にしても、愛人のところに行きたさで孫と気もそぞろなキャッチボールをやっている鴈治郎の昼日中にしても、光の透明さではなく色のビロードのような厚みにうっとりさせられます。

 

これはアグファに限らず60年代ぐらいまでの日本映画ではある程度共通しているように見えます。山本薩夫監督『赤い陣羽織』(松竹 1958年)は代官が百姓の妻に懸想し彼女を我がものにしようとして引き起こされる喜劇ですが、先代の勘三郎扮する代官が日毎思い浮かべては胸を掻きむしられるその女が有馬稲子です。このカラーフィルムに映し出された有馬の姿には肉体の重みすら感じさせるふくよかな神々しさがまとわれていて代官がそうなるのも宜なるかなという感じなのです。モノクロフィルム時代の<光>による映像のはかなさ、薄さとは一転してこの初期カラーフィルムの<色>による映像には描かれたもののような稠密さが何か神話のようなくりくりとした生命力を喚起してひとりの女優の身の丈をはるかに越えた魅力が画面に拡がっています。


そのカラーフィルムが70年代に再び<光>を映し出すようになる、カラーフィルムが70年代の光を捉えるようになるというのが私の素朴な感想なのですが、どの作品に最初にそれを感じたのか、神代辰巳監督『宵待草』(日活 1974年)、斎藤耕一監督『旅の重さ』(松竹 1972年)、須川栄三監督『野獣狩り』(東宝 1973年)、中平康監督『変奏曲』(中平プロ=ATG 1976年) ....

 

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よく覚えていませんが、このことを考えるときにまざまざと思い浮かべるのは、斎藤耕一監督『無宿』(勝プロ 1974年)です。任侠映画から次の役柄を模索していた当時の高倉健をあえて昔の<健さん>そのままの役柄に嵌め込んで、そういう渡世の義理にがんじがらめになった男の周りをお調子者の勝新太郎がまとわりつく。道をはずれた男たちが或いは人生をやり直せる、そういう夢をひと知れぬ海辺に追いかけてやがて現実に追いつかれるのですが(まあ言わずともお察しの通りロベール・アンリコ監督『冒険者たち』(フランス 1967年)の翻案で)、心ならずも高倉健が安藤昇の命を奪うときのあの木漏れ日にしても、若葉の照り返る勝との道々にしても、まるで夢の場所のように開けた入江の白い浜にしても、色が透明度を上げて場所の息遣いのような光を捉えています。いやはや胡乱な話でございました。

 

 

 

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