まぎらわしいということがあります。まぎらわしいというのがどのくらいまぎらわしいか、その昔まだ『大学受験ラジオ講座』というラジオ番組があった頃、「まぎらわしい単語」の特集に講師のJ.B.ハリス先生が開口一番、「今日はまぎわらしい単語です」と言ってしまうぐらいまぎらわしい。
 
まぎらわしいと言ってまず最初に思い浮かぶのが鰐淵晴子と馬淵晴子。標準的な四文字の名前に三文字が一緒、1950年代の同じ頃にデビューして、どちらも美貌の女優。ただ鰐淵がくっきりと晴れやかな顔立ちであるのに対して馬淵には憂いが差すそんな陰影に浮かび上がる美人ですからひと目見れば区別できます。似てると言っても、言えば鰐と馬ほど違うんですものね。
 
 
 
次が津島恵子と淡路恵子。下の名前が重なる以上にやや吊り目に少女の面差しを残しながらあどけなさと蓮っ葉な構えで男たちを見据えている立ち姿も似ています。ふっと透けるような薄い顔立ちというのも重なります。ただこれも斉唱するような背筋の伸び方が津島で、座敷でしなだれるような体の崩し方が淡路とすればだんだんと分離していきます。
 
 
 
このふた組と違って名前はまったく違う、所属した映画会社も違ってひとりひとりを思い浮かべるときにはくっきりと区別できるのに、何かふとしたときに(例えばあれ、『夜明けのうた』(蔵原惟繕監督 1965年 日活)に出てたのはどっちかしらなどと一度)こんがらがると風見鶏のようにくるくると記憶のひとりともうひとりが廻り出すのが酒井和歌子と松原智恵子で、東宝、日活それぞれの映画会社での立ち位置がまぎらわしいんです。あれ、『昭和残侠伝吼えろ唐獅子』(佐伯清監督 1971年 東映)で健さんの忘れじの女を演じたのはどっちだったかしら。くるくるり、くるくるり。

 

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『 こけさんの、なま煮えなま焼けなま齧り 』 五十女こけ