映画俳優としての石原裕次郎の美質というようなことを思うことがあります。例えば『青年の椅子』(西河克己監督 日活 1962年)を見ているようなときです。いつもながら青年の、つむじ風のような正義感を発揮して社内に蠢く陰謀に立ち向かう社員が石原で、まだまだ敵の優位が揺るがないときに些細なしくじりから上司である谷村昌彦が見せしめにクビになります。石原は気落ちしているだろう谷村を自宅に見舞います。小さいな鉄道の沿線にそれこそささやかに手に入れたその家が谷村というひとの実直さを表しています。出迎える奥さんが三崎千恵子(!)。石原は谷村と一緒に屋根に登ると改めて陰謀の打倒を誓います。抜けるような青空に希望が見はるかすようです。

 

この映画では中盤にもうひとり、山田吾一が石原の協力者になります。何とはなく眠たげな風貌を逆手にとって気っ風のいい板前から善良な横顔に不気味な影が走るような悪人まで芸幅のある山田は今回は(ほんと何とも眠たげな風貌の)エリート社員役で、(下手をするとここがこの映画で一番度肝を抜かれるところですが、スパンコールにスリットの入った艶めかしいチャイナドレスに身を包んだ武智豊子がマダムをやっている)バーで石原と差し向かいに戦略を練ります。さて谷村にしても山田にしても私が何を言いたいかと申しますと、石原裕次郎というスターは不思議なことにこういうちょっと吊り合わない俳優たちをまったく見劣りさせないということなんです。つまりスターと格下という位置づけに見せません。谷村も山田も裕次郎と向い合うと実際にこんな組み合わせがあるようなすがすがしさが私たちの胸に迫ってきます。

 

(同じスターであっても美空ひばりが誰と演じても(例え自分が助演でも)必ず真ん中を取って相手を(言わば猿や雉のように)付き従わせる桃太郎のような並びを作るのとは対照的で(まあこれはこれで土性骨の座った生き様ではありますが)、やはりこれは石原というひとの人徳ということなのでしょう。)

 

石原について私がこんなことを思い始めたのは井上梅次監督『夜の牙』(日活 1958年)を見たときからです。場末で診療院を開いているチンピラ医者が裕次郎で、そんな彼に寄り添う看護婦を白木マリが演じています。恋人というような甘い関係ではなく、行き場のない男女が時折夜の寂しさを忘れるために繋がっているそんな大人の男と女で、実際やるせない事態に打ちのめされた裕次郎が夜はひとりでいたがる彼を気遣って帰宅する白木の腕を取って今日は泊まっていけよと、ぞんざいに誘う場面があります。

 

さてこの映画には少し曰くがあって井上監督自身が『窓の下に裕次郎がいた』という本のなかで触れています。前年の『勝利者』(井上梅次監督 日活 1957年)に引き続いて三橋達也と石原裕次郎の共演作として企画されたものですが、会社が裕次郎に傾斜していくことに不満があった三橋が現場から姿を隠してしまい、しかし正月興行までには分刻みのスケジュールしかなく三橋の役を裕次郎に変え裕次郎の役に岡田真澄を充てて続行したため、戻ってきた三橋は降板し程なく東宝に移籍したのだとか。つまり裕次郎は本来この医者の下であれこれ手先に使われるスリの若者役だったわけで、それでこの医者が中年のやさぐれ方なのもわかります、相手役が白木マリなのも。当時裕次郎の相手役は北原三枝ですが、白木マリの手を取って石原は彼女をまったく見劣りさせません。息を殺したような夜を相手の寂しさを抱きしめながら共に過ごすことがあるようなそんなふたりの情感が漂います。蓋し美質というべきでしょう。

 

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