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1988年2月6日ー春一番ー

3日、4日と、あんなに寒かったのに、

きのうは「春一番」。

「春一番」は春が来たことを、最初に知らせる

南の風のことをいう。


気象庁によると、立春から春分にかけて、

日本海で低気圧が発達し、それまで、シベリアから

太平洋に向けて吹き込んでいた北風から

一転して、逆に太平洋(南側)の暖かい空気が

日本に強い風となって吹きつけることをいう。


東京に5日、春一番が吹くのは昭和26年に

春一番の観測が始まって以来、最も早い。

昨年は2月11日、1昨年は3月10日、60年は2月21日。

平年より20日も早く吹いた。


もともとは、漁師たちが、春先に吹くこの風でよく

遭難するので、この言葉を恐ろしい風として

使っていた。今は、都会人が、待ち焦がれた春が

近づいたという意味で使う。

1988年2月5日ーユダヤ人の第2の悲劇・出エジプトー

エジプトで苦しんでいるユダヤ人たちを

救ったモーゼの話を続ける。


モーゼは、エジプト王の赤ん坊皆殺し命令が

出たとき、ナイル川のアシの繁みの舟の中に

かくされて助かった。


のちに、エジプトの姫の一人に拾われ教育を受け、

成長したが、同国人のユダヤ人が苦しい生活を

しているのをみて、彼らを救おうと決心する。

そして、200万人ものユダヤ人を連れて故郷の

イスラエルへ旅立つのだ。

このイスラエルの国を彼らは「カナン」あるいは

「約束の地」と呼ぶ。


しかし、その旅は苦難に満ち、荒野の中を

40年もさまよい、やっと国に戻ることができた。

赤子殺しに続くユダヤ人の第2の悲劇だ。

旧約聖書の「出エジプト紀」にくわしい。


○○○ちゃんはバチカンでミケランジェロ作

モーゼの像を見ているはずだよ。


【関連記事】

1988年1月31日ー頭が良いために恐れられ迫害されるユダヤ人ー

1988年2月1日ー日教組の大会ー

早いものだ。

きょうから2月。

今月も行事が多い。

豆まき、建国記念日、バレンタイン・デー

それに、お父様の誕生日。

また、きょうから、先生の団体である日本教職員組合

(日教組と呼ばれる)の大会が福島市で開かれる。

お父様も取材のために行ってくるよ。

帰るのは、多分、3日の夜になると思う。

日教組は、委員長をだれにするかで、

ずっと内輪もめをしていた。

それが、一応、解決して、1年半ぶりに大会を開くんだ。

先生たちが、ケンカするなんて、ちょっとおかしいけれど、

やはり人間同士。

議論するのも悪くない。

しかし、これからは仲良くなってほしい。

それができるかどうか、見てくる。

1988年1月31日ー頭が良いために恐れられ迫害されるユダヤ人ー

聖書に戻ろう。

世界で最も頭のいい民族はユダヤ人だといわれている。

アインシュタインもそうだったね。

すぐれた仕事をした外国人は、たいていユダヤ人と

思ってもいいといわれている。


しかし、民族の歴史は悲劇の歴史だった。

最近では、先の戦争でナチス・ドイツのために、

何百万の人が殺されたことは知っているね。

約4000年前から彼らは今のイスラエル付近に

住みついた。その後、エジプトの方にも勢力をのばした。

ところが紀元前1200年頃、イスラエル人つまりユダヤ人の頭の

いいのに恐れをなしたエジプトの王がイスラエル人の赤ん坊を

全部虐殺することを命じたんだ。

むかしからユダヤ人は、迫害ばかりされていたんだ。

その時、ユダヤ人を助けたのがモーゼ。

そのことは、また書こう。


2011年1月31日

映画「ソーシャルネットワーク」でも話題の

フェイスブック の創始者「マーク・ザッカーバーグ」も

ユダヤ系アメリカ人だった。

1988年1月30日ー科学による歴史の発掘「脂肪分析法」ー

大昔の日本人は、これまで、牛など家畜を

飼う習慣がないとされてきた。

だから、農耕民族といわれる。


ところが、最近、群馬県でみつかった6世紀後半(古墳時代)

の農村の跡から牛の糞が発見された。

糞といっても、そのままの形ででてきたわけではない。

土を分析していたら動物性脂肪が検出され、

その成分が、現在の牛の排泄物(つまり糞)のものと

一致したからだ。


この農村跡は火山の噴火で2メートル近くも

軽石でおおわれていたため、土が当時のまま

残っており、こんな分析ができたという。

この分析を脂肪分析法といわれ、西ドイツで

開発された。遺跡の土器の、わずかに残った

脂肪から、むかしの人が、どんなものを食べていた

かもわかる。

これも化学による歴史の発掘だ。

1988年1月29日ー昭和32年永田隊長らが「昭和基地」と名付けるー

白瀬隊長が南緯80度の近くで南極点に行くのを

断念したのは明治45年1月27日だった。


それから76年。

永田武(ながたたけし)隊長ら第一次南極観測隊は

昭和32年1月29日、南極オングル島に上陸、

そこを「昭和基地」と名付けた。

白瀬隊長が名付けた「大和雪原」とは、

ちょうど南極点をへだてて反対側にある。

奇しくも、あの日とは1日違いだった。

今回は探検隊といわず観測隊という。

オーロラなど様々な自然現象を科学的に調べるのが目的。

しかも国の予算で行われる。

白瀬隊とは大違いだ。


けれども、その帰りの観測船「宗谷(そうや)」は

氷の中に閉じ込められ、ソ連の砕氷船(さいひょうせん)に

助けられたり、そのあと、犬を残して引き揚げざる

得なかったり、南極観測は、昭和になっても

そう簡単ではない。

わからないこも多い。

【関連記事】

1988年1月28日ー日本で初めて南極探検に挑戦した白瀬中尉

1988年1月28日ー日本で初めて南極探検に挑戦した白瀬中尉ー

日本人で初めて南極探検に挑戦した人。

それは白瀬中尉。知っているね。

明治45年1月28日、中尉ら5人は南緯80度5分の

ところまできたが、ついに進むのを断念した。

彼はこう書いている。


「一歩も進むあたわず。進まんか(進めば)死せんのみ」


南極点まで、まだ500キロ(東京から京都ぐらいまで)

ほど残っていた。

そして、一行は、その付近を「大和雪原(やまとせつげん)」と

名付けて引き揚げた。

この名は、今も残っている。

前年、スコット隊は南極点に達したが、ほとんど全滅、

その他の国の探検隊も多くの犠牲者を出している。

しかし、貧しい装備で一人のけが人も出さなかった

白瀬隊は、南極点に到達しなかったが、世界に

誇れる仕事だ。

むかしの日本人は無謀ではなかったんだよ。

1988年1月28日ーベッドー

ようやく、かっこだけど、1人前のベッドが入ったね。

考えてみると、お父様は、ホテルや病院、

あるいは寝台車、または会社の宿直室(泊まるところ)

などを除いては、まともなベッドに寝たことがない。

ずっと、フトンだった。

初めて、ベッドに寝たのは、確か、一家で東京に遊びに来て、

東京駅にあった「ステーション・ホテル」に泊まった時だった。

小学校の1、2年か幼稚園のころだったと思う。

そのとき、ベッドから落ちたことは、はっきり覚えている。

これが、ベッドについての、強烈な記憶だ。

その後、高校の時、肋膜炎(ろくまくえん)になり、

家の中でベッドに寝かされた。いいなと思った。

だから、ベッドは特別の物という感じだ。

○○○ちゃんは逆にフトンが特別だね。

1988年1月27日ー天文10年は餓死するものが続出ー

NHKの「武田信玄」。

いよいよ、信玄の活躍がはじまるね。

ひょっとすると、次には、南野陽子(字が違うかな)が

出てくるかも知れない。

テレビにもでてくるけれど、あのころは、

戦争は続くし、食べ物はない、病気、洪水と

人々の生活は無残だった。


「このごろは餓死する者が相つぎ、人も馬も、

数限りなく死にました。このようなことは、この百年間

にもなかったほどで、生き残ったものは、“千死に一生”を

得たといっています」


普通、危ないところを、やっと助かることを

「九死に一生を得る」という。

それが「千死」なんだから、いかにひどかったか

わかるだろう。


さきの文章は、ちょうど晴信が父信虎を追放した

天文10年に書かれたもので、本の名前は

「明法寺記・みょうほうじき」といわれる。



【関連記事】

1988年5月7日ー武田信玄の死んだ場所ー

1988年5月31日ー武田信玄の妻三条夫人ー

1988年11月17日ー諏訪湖の湖底に武田信玄の墓?-

1988年12月4日ー新語・流行語大賞ー

1988年1月26日ー入るのはやさしく出るのが難しいアメリカの大学ー

再び留学の話。
アメリカでは、高校まで入試はほとんどなく、
勉強の方も、比較的やさしい。
大学も、入るのは、日本より、はるかに簡単だ。
けれども、入学してからが大変。
学生たちは、高校までとは、人が変わったように勉強する。

毎日のように、宿題がでて、何百ページもの
本を読み、そのレポート(報告)を書く。
試験も、むづかしく、点数も辛いからだ。
つまり「入るのはやさしく、出るのはむづかしい」のだ。

だから、気軽に考えて留学した日本人は、
みんな苦労している。
1日7~8時間は勉強しなければならず、
寝るのは午前2時、3時。
十分に英語もできないので、友達もつくれず、
泣いているよ。
中学に入ったら、英語をしっかりやろうね。